報告
王宮へ戻る頃には、梢から落ちる光が薄い金色へ変わっていた。
リーネはほとんど口を開かなかった。剣は鞘に収まっているが、柄を握る右手にはまだ力が残っている。湊も頭の奥に《並列思考》の鈍い疲れを抱えたまま、その隣を歩いた。
肩ではアカが首元へ体を寄せ、シロは元の大きさで足元を進んでいる。銀毛にはニーズヘッグの黒い血がこびりついていた。
――みなと、つかれた。
――少しな。
――シロ、あるける。
――知ってる。
尾がゆっくり一度だけ揺れた。
王宮が見える少し手前で、クロが前を向いたまま言う。
「そのまま入るな。余計な騒ぎになる」
「ああ」
湊は《クリーン》を使った。服と肌から血と汗の匂いが消え、リーネの銀髪、シロの毛、アカの羽根も元の色を取り戻す。最後にクロへかけると、黒い毛並みがわずかに艶を増した。
シロも子犬ほどの姿へ縮む。
リーネはきれいになった右手を見て、指を一度握った。
「行こう」
*
王宮の入口で、衛兵が頭を下げた。
「リーネ様。お戻りでしたか」
「あたしと湊が戻ったことは、まだ広めないで。レーア姉さまは?」
衛兵の表情が引き締まる。
「執務室にいらっしゃいます」
「会いたい。今すぐ」
案内された王宮の中は静かだった。木の壁を淡い光が流れ、足音は柔らかな床へ吸い込まれる。すれ違う者たちはリーネへ頭を下げたが、誰も呼び止めなかった。
やがて衛兵が一枚の扉を叩く。
「レーア様。リーネ様がお戻りです」
中で椅子が動いた。
扉を開けたレーアは、最初にリーネへ微笑みかけた。その目が湊、シロ、アカ、クロへ移るうちに笑みが消える。
「……入って」
*
部屋にはレーアしかいなかった。
机の上には行方不明者の調査記録と地図が広がり、小さな木札が十二枚置かれている。レーアは扉を閉め、自分で鍵をかけた。
「何があったの」
リーネは椅子に座らず、机の前に立った。
「世界樹の北西の主根に、ニーズヘッグの幼体が寄生してた。異常なくらい育ってて、根からマナを吸いながら毒で腐らせてた」
レーアの指が机の縁を掴む。
「根は?」
「ニーズヘッグは倒した。毒も止まって、光は少し戻り始めてた」
レーアが小さく息を吐く。
「妖精族の長には?」
「討伐したことはまだ。先に王宮へ戻ってきた」
レーアは頷き、湊を見る。
「それだけではないのね」
「はい。ニーズヘッグの額に術式が刻まれていました。吸ったマナを、別の場所へ送るためのものです」
レーアの視線が止まる。
「誰かが、あれを使って世界樹のマナを奪っていた?」
「はい」
湊の肩でクロが口を開いた。
「獣人国で見た魔力吸収器と同じ系統だ。転送先は、あれが死んだ時に経路ごと崩れた」
レーアの目がクロへ向き、大きくなる。
「……話せるのね」
「その話は後だ」
「……そうね」
レーアは額へ手を当て、すぐに下ろした。
湊は机の上の十二枚の木札を見る。
「聖典庫の交易台帳には、グランデル王都工房から南方諸島とエルフ領境界へ器具が送られた記録がありました。獣人国で使われていたものも、今回の術式も仕組みが似ています」
レーアの指先が、一枚の木札へ触れた。
「行方不明者も?」
「聖教国では、次の新月に十二人を南方諸島へ送ると話していました」
レーアが木札を数える。一枚、二枚。最後の一枚で指が止まった。
「十二人……」
「今、この国で行方が分からない人と同じ数です」
静かな部屋に、壁を流れるマナの光だけが揺れていた。
*
湊は一度息を吸った。甘い木の匂いが肺に入る。
「レーアさん。俺のことも話します」
リーネがこちらを見て、小さく頷いた。
「俺は、この世界の人間じゃありません。グランデル王国に召喚されました」
レーアは動かなかった。
「召喚……三十年前の勇者のように?」
「世界を渡ったのは同じだと思います。でも、俺を呼んだのは神じゃない。グランデルの人間です」
湊は、召喚されたこと、鑑定石に何も映らず地下牢へ捨てられたこと、そこでクロと出会って処分される前に逃げたことを話した。
「逃げる時に《存在消去》を使いました。俺を知っていた人たちから、俺に結びつく記憶を消した。だから、召喚に立ち会った人間も、今は俺を覚えていないはずです」
レーアの眉が寄る。
「そんなことが……」
レーアが地図を見る。
「獣人国でも、世界樹でも……同じことが起きているのね」
クロが尾を揺らす。
「術式も流通経路も、グランデルへ重なっている」
「何のために、そこまで魔力を集めているの?」
湊は首を振った。
「目的は分かりません。ただ、少なくとも今回は、吸ったマナが別の場所へ送られていました」
レーアの顔から血の気が薄れる。
「新月まで、あと四日です」
湊が言うと、レーアが顔を上げた。
「十二人は、生きていると思う?」
「次の新月に運ぶつもりなら、生かされているはずです」
「……そう」
「見つけます」
レーアの指が木札を包むように寄せる。
「四日しかないのね」
「四日あるよ」
リーネの声だった。
紫の瞳が姉を真っ直ぐ見ている。
「新月になる前に止めよう」
レーアはゆっくり頷いた。
*
リーネが机から離れなかった。
「姉さま。もう一つある。オウル兄さまのこと」
レーアの指先が、木札の上で止まった。
今度は湊が、広場で見たことを話した。民へ向ける穏やかな顔。ドワーフや人間へ向けた一瞬の目。そして、妖精へ手を差し伸べた直後、誰にも聞こえないと思って漏らした言葉。
「優しい表情も、あの冷たい目も、どっちも自然に見えました」
レーアは目を伏せる。
「私も……見たことがあるわ。ほんの一瞬、知らない人のような目をする時があった。でも、すぐいつものオウルに戻るから」
クロが机へ飛び乗った。
「精神へ触れる術式が食い込んでいる。本人の魔力とは馴染み方が違う」
レーアの呼吸が浅くなる。
「外から?」
「ああ。かなり深い。力ずくで剥がせば、本人を傷つける」
「解除はできるの?」
「今のままでは無理だ」
レーアは両手を組んだ。白くなった指を、隣へ来たリーネがそっと包む。
「オウルが、行方不明事件に関わっていると思う?」
問いは湊へ向いた。
「広場で見たことと、術式があることしか分かりません」
「もし、関わっていたら」
「止めます」
「その後は?」
湊は少しだけ間を置いた。
「助けます」
レーアの目が上がる。
「罪が消えるわけじゃありません。でも、あの人自身まで見えなくなるのは違うと思う」
「なぜ……そこまでオウルを見ようとするの?」
妖精へ伸ばされた手と、その直後の冷たい横顔が浮かんだ。
「見失わないためです」
レーアは何も言わなかった。リーネの手を握り返す。
机の上で、クロが小さく鼻を鳴らした。
「……馬鹿だな、お前は」
湊は小さく息を吐く。
「そうかもな」
足元のシロが湊の脚へ寄り、アカも頬へ羽根を擦りつける。張っていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
*
レーアは立ち上がると、地図の中央へ十二枚の木札を集めた。
「新月の輸送を止める方法があります。エルフ国完全封鎖結界です」
「完全封鎖?」
「世界樹の天然結界へ、一夜だけ完全封鎖を重ねるの。越境と転移を妨害できる。ただ、準備に三日かかる」
「新月まで四日」
湊が言う。
レーアは頷いた。
「父上の許可とフェルナンド兄さまの指揮が必要になる。世界樹が耐えられるかは、妖精族の長にも確認しなければならない。正式会議へ実施案として出します」
クロが壁の根を見る。
「代償は」
「使った後は天然結界が弱まるわ。しばらく同じことはできない」
安い手段ではなかった。それでも、レーアの視線は十二枚の木札から離れない。
「正式な会議を開きます。父上、フェルナンド兄さま、オウル、主要な高官。それから妖精族の長を招く」
「オウル兄さまにも話すんだね」
「ええ」
レーアが地図へ目を落とした。
「この案を会議に出せば、内部で手引きしている者にも伝わります」
湊は十二枚の木札を見る。
「輸送を続けるなら、封鎖を抜けるために動くはずです」
「会議そのものを使うのね」
「はい」
リーネが頷いた。
「オウル兄さまも外さない」
レーアは十二枚の木札を揃え直した。
「会議で話すのは、ニーズヘッグと世界樹の被害、転送術式、グランデルが関わっている可能性、新月の十二人と南方諸島、それから完全封鎖結界の実施案」
「オウル兄さまの術式は出さない」
リーネが続ける。
レーアが頷いた。
「父上とフェルナンド兄さま、妖精族の長には、会議の前に伝えるわ」
クロの尾が机を一度払った。
レーアは扉へ向かい、鍵を開けた。
「湊さん」
振り返った紫の瞳には、姉の色が戻っていた。
「オウルを……見失わないで」
「はい」
扉が開く。
レーアは外に控えていた衛兵へ告げた。
「緊急の正式会議を招集します。父上とフェルナンド兄さまへ、すぐに。妖精族の長にも使者を。オウルと主要高官には、世界樹に関する緊急報告と伝えて」
「承知いたしました」
衛兵が走り出す。
足音が木の回廊へ吸い込まれていった。
新月まで、あと四日。
壁の根を淡い光が脈打っていた。




