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根を蝕むもの

北西へ進むほど、森は暗くなった。


枝葉が厚いだけではない。世界樹の根元にあった甘い空気が消え、湿った土の匂いに酸っぱい腐臭が混じっている。足元の草も、ところどころ黒紫に変色していた。


シロが鼻先を地面へ寄せ、低く唸る。


――いやなにおい。


「俺も分かる」


踏んだ草が、ぐずりと潰れた。靴底へ湿った感触が残る。


肩の上でクロの耳が伏せられる。


「根がやられている。近いぞ」


リーネの手が剣の柄へ移った。


湊たちは足を速めた。



やがて、木々の間から太い根が見えた。


世界樹から北西へ伸びる主根。その表面は黒く変色し、苔も蔦も消えている。木肌はところどころ崩れ、大きな裂け目の周りには粘ついた黒い液体が染み込んでいた。


その裂け目に、何かが噛みついている。


湊は足を止めた。


人間の三倍ほどある、ずんぐりとした胴体。短い四肢と太い尾。全身を鉛色の硬そうな鱗が覆っている。


形だけなら、昔テレビで見たツチノコに似ていた。


ただし、笑える大きさではない。


太い顎が世界樹の根へ食い込み、ぐちゅり、と湿った音を立てる。そのたび、根の中を流れていた淡い光が細くなり、魔獣の口元へ吸い込まれていった。


同じ場所から黒い液体が垂れている。触れた木肌がじわりと変色し、崩れた。


クロの声が低くなる。


「……ニーズヘッグ」


「知ってるのか」


「世界樹の根へ寄生する魔獣だ。マナを喰って育ち、毒で根を腐らせる。成体は蛇龍になる」


クロの金色の目が、魔獣の全身を追う。


「だが、あれはまだ幼体だ」


湊はもう一度、その巨体を見た。


「これで?」


「ああ。育ちすぎている」


リーネが剣を抜く。


白銀の刃へ、薄暗い森の光が走った。


「なら、これ以上食わせるわけにはいかないね」


湊も無銘を抜いた。



最初に動いたのはリーネだった。


地を蹴った銀髪が一息で間合いを詰め、白銀の剣がニーズヘッグの胴を薙ぐ。硬い音とともに鱗が割れ、その下へ深い傷が走った。


ニーズヘッグが根から顎を離した。


濁った目がリーネを捉え、口元が膨らむ。


「リーネ!」


黒い液体が飛んだ。


リーネは横へ跳ぶ。毒が落ちた場所から白い煙が上がり、草と土の表面がじゅっと音を立てて溶けた。


「これは浴びたくないね」


着地と同時に、リーネが剣を構え直す。


湊は反対側へ回り込んだ。無銘を鱗の継ぎ目へ滑り込ませ、脇腹を裂く。ニーズヘッグの体が大きく捩れ、太い尾が迫った。


足元の影へ沈み、尾の下を抜ける。


反対側の影から全身を戻した時には、シロが背へ飛びかかっていた。牙が鱗を砕く。深く食い込む前に振り落とされ、銀色の体が地面を滑った。


――だいじょうぶ。


すぐに立ち上がったシロの返事に、湊は息を吐く。


頭上からアカの火球が落ちた。ニーズヘッグの顔へ当たり、鉛色の鱗が黒く焦げる。


だが、倒れない。


「湊」


クロの声に、湊は胴を見る。


さっきリーネが深く斬った場所が、もう狭くなっていた。自分が裂いた脇腹も、肉が盛り上がって閉じていく。シロが砕いた鱗の下にも、新しい皮膚が覗いていた。


根から口を離しているのに、再生は止まっていない。


「体の中に溜め込んでいる」


クロが言う。


「今まで喰ったマナだ。小さな傷をいくら重ねても、先に塞がれるぞ」


ニーズヘッグが身を返した。


背後の世界樹の根へ、もう一度顎を伸ばそうとする。


リーネがその前へ入った。剣が鼻先を弾き、魔獣が苛立ったように唸る。


「追加はさせない。でも、それだけじゃ倒れないってことね」


「ああ」


湊は影を伸ばした。


黒い拘束がニーズヘッグの足元へ絡みつき、その巨体を地面へ縫い止める。


止まった。


次の瞬間、影が軋んだ。


腕を引き裂かれるような重さが魔力経路へ返ってくる。ニーズヘッグが力任せに身を捩り、黒い拘束へ亀裂が走った。


長くは持たない。


だが、一瞬なら。


リーネと目が合った。


「首?」


「ああ」


「分かった」


それだけで十分だった。


影が千切れ、ニーズヘッグが吠えた。



湊は分身を一体出した。


《並列思考》。


視界が二つに割れる。


本体はニーズヘッグの側面へ。分身は正面へ走らせる。


魔獣の濁った目が分身を追った。


口が開く。


来る。


分身をさらに一歩踏み込ませた。同時に、本体の足元から影を走らせる。


黒い毒が分身へ吐き出された。


触れた瞬間、分身の輪郭が崩れる。


その向こうで、ニーズヘッグの四肢を影が縫い止めた。


頭の奥が一気に重くなる。


「リーネ!」


白銀の光が走った。


リーネの剣が、首の同じ一点へ叩き込まれる。一度。二度。三度。鱗が砕け、肉が裂ける。


切り口が膨らみ始めた。


もう再生している。


湊は踏み込んだ。


――そこだ。


無銘の声が届く。


伸びた刀身を振り抜く。


飛ぶ斬撃が、リーネの開いた傷へ真っ直ぐ入った。


鈍い音がした。


首の奥で、何かが断ち切れる。


ニーズヘッグの頭が落ちた。


遅れて巨体が横倒しになり、地面が震えた。黒い血が土へ広がり、鼻を刺す臭いが強くなる。


湊は《並列思考》を切った。


二重だった視界が一つへ戻り、頭の奥に鈍い痛みが残る。


倒れた胴を見る。


傷はもう閉じなかった。


「……終わったね」


リーネが荒い息のまま剣を下ろす。


「ああ」


シロが湊の脚へ鼻先を押しつけ、アカが肩へ降りてきた。クロは倒れたニーズヘッグをしばらく見てから、腐食した根へ顔を向ける。


「先に根を見ろ」



ニーズヘッグが噛みついていた場所は、深く抉れていた。


黒い毒が染み込んだ部分は崩れたままだが、新しく液体が流れ込む様子はない。根の奥で脈打っていた光も、さっきまでより乱れが小さくなっているように見えた。


リーネが膝をつき、黒くなった木肌へ触れない距離から覗き込む。


「ひどい……」


湊は隣に立った。


「妖精族の長に見てもらおう」


「うん」


リーネが立ち上がる。


クロは何も言わなかった。



次に、ニーズヘッグの死体を調べた。


首の近くまで戻ったところで、湊は額に不自然な筋があることに気づいた。


「クロ。これ」


鱗の隙間に、細い線が走っている。


無銘の刃先で死んだ鱗を慎重に起こす。数枚剥がすと、その下から円形の紋様が現れた。中心から細い線が伸び、周囲を小さな文字列が囲んでいる。


見覚えがあった。


獣人国で見た、銀色の魔力吸収器。


完全に同じ形ではない。それでも、術式の線の重なり方が似ている。


クロが肩から降り、額のそばへ近づいた。


金色の目が細くなる。


「……同じ系統だ」


「吸収器と?」


「ああ。吸い上げるのはこいつ自身だが、その先が同じだ。体内へ取り込んだ力を、外へ送り出すための術式になっている」


リーネが息を呑んだ。


「じゃあ、世界樹のマナを……」


クロの前足が、紋様のすぐ手前で止まる。


「送っていた。だが、もう先は切れている」


「追えない?」


「死んだ時に経路が崩れたらしい」


湊は紋様を見つめた。


獣人国で見つけた器具。その原型を作ったヴェルナー。聖典庫に残っていた、グランデル王都工房からエルフ領境界へ送られた記録。


リーネが小さく呟いた。


「……グランデル」


森の中で、その国名だけが重く落ちた。


湊は立ち上がる。


「戻って報告しよう」


「うん」


リーネが剣を鞘へ収めた。


根のそばでは、黒い傷の奥にごく薄い光が戻り始めていた。


まだ弱い。


それでも、さっきまでの濁った脈動とは違っていた。


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