根を蝕むもの
北西へ進むほど、森は暗くなった。
枝葉が厚いだけではない。世界樹の根元にあった甘い空気が消え、湿った土の匂いに酸っぱい腐臭が混じっている。足元の草も、ところどころ黒紫に変色していた。
シロが鼻先を地面へ寄せ、低く唸る。
――いやなにおい。
「俺も分かる」
踏んだ草が、ぐずりと潰れた。靴底へ湿った感触が残る。
肩の上でクロの耳が伏せられる。
「根がやられている。近いぞ」
リーネの手が剣の柄へ移った。
湊たちは足を速めた。
*
やがて、木々の間から太い根が見えた。
世界樹から北西へ伸びる主根。その表面は黒く変色し、苔も蔦も消えている。木肌はところどころ崩れ、大きな裂け目の周りには粘ついた黒い液体が染み込んでいた。
その裂け目に、何かが噛みついている。
湊は足を止めた。
人間の三倍ほどある、ずんぐりとした胴体。短い四肢と太い尾。全身を鉛色の硬そうな鱗が覆っている。
形だけなら、昔テレビで見たツチノコに似ていた。
ただし、笑える大きさではない。
太い顎が世界樹の根へ食い込み、ぐちゅり、と湿った音を立てる。そのたび、根の中を流れていた淡い光が細くなり、魔獣の口元へ吸い込まれていった。
同じ場所から黒い液体が垂れている。触れた木肌がじわりと変色し、崩れた。
クロの声が低くなる。
「……ニーズヘッグ」
「知ってるのか」
「世界樹の根へ寄生する魔獣だ。マナを喰って育ち、毒で根を腐らせる。成体は蛇龍になる」
クロの金色の目が、魔獣の全身を追う。
「だが、あれはまだ幼体だ」
湊はもう一度、その巨体を見た。
「これで?」
「ああ。育ちすぎている」
リーネが剣を抜く。
白銀の刃へ、薄暗い森の光が走った。
「なら、これ以上食わせるわけにはいかないね」
湊も無銘を抜いた。
*
最初に動いたのはリーネだった。
地を蹴った銀髪が一息で間合いを詰め、白銀の剣がニーズヘッグの胴を薙ぐ。硬い音とともに鱗が割れ、その下へ深い傷が走った。
ニーズヘッグが根から顎を離した。
濁った目がリーネを捉え、口元が膨らむ。
「リーネ!」
黒い液体が飛んだ。
リーネは横へ跳ぶ。毒が落ちた場所から白い煙が上がり、草と土の表面がじゅっと音を立てて溶けた。
「これは浴びたくないね」
着地と同時に、リーネが剣を構え直す。
湊は反対側へ回り込んだ。無銘を鱗の継ぎ目へ滑り込ませ、脇腹を裂く。ニーズヘッグの体が大きく捩れ、太い尾が迫った。
足元の影へ沈み、尾の下を抜ける。
反対側の影から全身を戻した時には、シロが背へ飛びかかっていた。牙が鱗を砕く。深く食い込む前に振り落とされ、銀色の体が地面を滑った。
――だいじょうぶ。
すぐに立ち上がったシロの返事に、湊は息を吐く。
頭上からアカの火球が落ちた。ニーズヘッグの顔へ当たり、鉛色の鱗が黒く焦げる。
だが、倒れない。
「湊」
クロの声に、湊は胴を見る。
さっきリーネが深く斬った場所が、もう狭くなっていた。自分が裂いた脇腹も、肉が盛り上がって閉じていく。シロが砕いた鱗の下にも、新しい皮膚が覗いていた。
根から口を離しているのに、再生は止まっていない。
「体の中に溜め込んでいる」
クロが言う。
「今まで喰ったマナだ。小さな傷をいくら重ねても、先に塞がれるぞ」
ニーズヘッグが身を返した。
背後の世界樹の根へ、もう一度顎を伸ばそうとする。
リーネがその前へ入った。剣が鼻先を弾き、魔獣が苛立ったように唸る。
「追加はさせない。でも、それだけじゃ倒れないってことね」
「ああ」
湊は影を伸ばした。
黒い拘束がニーズヘッグの足元へ絡みつき、その巨体を地面へ縫い止める。
止まった。
次の瞬間、影が軋んだ。
腕を引き裂かれるような重さが魔力経路へ返ってくる。ニーズヘッグが力任せに身を捩り、黒い拘束へ亀裂が走った。
長くは持たない。
だが、一瞬なら。
リーネと目が合った。
「首?」
「ああ」
「分かった」
それだけで十分だった。
影が千切れ、ニーズヘッグが吠えた。
*
湊は分身を一体出した。
《並列思考》。
視界が二つに割れる。
本体はニーズヘッグの側面へ。分身は正面へ走らせる。
魔獣の濁った目が分身を追った。
口が開く。
来る。
分身をさらに一歩踏み込ませた。同時に、本体の足元から影を走らせる。
黒い毒が分身へ吐き出された。
触れた瞬間、分身の輪郭が崩れる。
その向こうで、ニーズヘッグの四肢を影が縫い止めた。
頭の奥が一気に重くなる。
「リーネ!」
白銀の光が走った。
リーネの剣が、首の同じ一点へ叩き込まれる。一度。二度。三度。鱗が砕け、肉が裂ける。
切り口が膨らみ始めた。
もう再生している。
湊は踏み込んだ。
――そこだ。
無銘の声が届く。
伸びた刀身を振り抜く。
飛ぶ斬撃が、リーネの開いた傷へ真っ直ぐ入った。
鈍い音がした。
首の奥で、何かが断ち切れる。
ニーズヘッグの頭が落ちた。
遅れて巨体が横倒しになり、地面が震えた。黒い血が土へ広がり、鼻を刺す臭いが強くなる。
湊は《並列思考》を切った。
二重だった視界が一つへ戻り、頭の奥に鈍い痛みが残る。
倒れた胴を見る。
傷はもう閉じなかった。
「……終わったね」
リーネが荒い息のまま剣を下ろす。
「ああ」
シロが湊の脚へ鼻先を押しつけ、アカが肩へ降りてきた。クロは倒れたニーズヘッグをしばらく見てから、腐食した根へ顔を向ける。
「先に根を見ろ」
*
ニーズヘッグが噛みついていた場所は、深く抉れていた。
黒い毒が染み込んだ部分は崩れたままだが、新しく液体が流れ込む様子はない。根の奥で脈打っていた光も、さっきまでより乱れが小さくなっているように見えた。
リーネが膝をつき、黒くなった木肌へ触れない距離から覗き込む。
「ひどい……」
湊は隣に立った。
「妖精族の長に見てもらおう」
「うん」
リーネが立ち上がる。
クロは何も言わなかった。
*
次に、ニーズヘッグの死体を調べた。
首の近くまで戻ったところで、湊は額に不自然な筋があることに気づいた。
「クロ。これ」
鱗の隙間に、細い線が走っている。
無銘の刃先で死んだ鱗を慎重に起こす。数枚剥がすと、その下から円形の紋様が現れた。中心から細い線が伸び、周囲を小さな文字列が囲んでいる。
見覚えがあった。
獣人国で見た、銀色の魔力吸収器。
完全に同じ形ではない。それでも、術式の線の重なり方が似ている。
クロが肩から降り、額のそばへ近づいた。
金色の目が細くなる。
「……同じ系統だ」
「吸収器と?」
「ああ。吸い上げるのはこいつ自身だが、その先が同じだ。体内へ取り込んだ力を、外へ送り出すための術式になっている」
リーネが息を呑んだ。
「じゃあ、世界樹のマナを……」
クロの前足が、紋様のすぐ手前で止まる。
「送っていた。だが、もう先は切れている」
「追えない?」
「死んだ時に経路が崩れたらしい」
湊は紋様を見つめた。
獣人国で見つけた器具。その原型を作ったヴェルナー。聖典庫に残っていた、グランデル王都工房からエルフ領境界へ送られた記録。
リーネが小さく呟いた。
「……グランデル」
森の中で、その国名だけが重く落ちた。
湊は立ち上がる。
「戻って報告しよう」
「うん」
リーネが剣を鞘へ収めた。
根のそばでは、黒い傷の奥にごく薄い光が戻り始めていた。
まだ弱い。
それでも、さっきまでの濁った脈動とは違っていた。




