世界樹の声
扉を閉めると、リーネは窓際の椅子へ腰を下ろした。
「それで?」
湊は向かいへ座り、広場で見たことを話した。ドワーフの荷車へ向けた一瞬の目。人間の行商人が去ったあと、衣の裾を払った指。そして、妖精へ手を差し伸べた直後の低い呟き。
最後に、クロが感じ取った術式のことを伝えた。
「精神に触れてる術式があるって。外から食い込んだ痕があるらしい」
リーネはしばらく黙っていた。膝の上で組んだ指が、ゆっくりほどける。
「外せるの?」
「今のままじゃ無理だって。深く絡んでるから、無理に剥がすと本人も傷つく」
「……そっか」
それだけ言って、リーネは窓の外へ目を向けた。葉の隙間を抜けた夕方の光が、銀髪の端に揺れている。
やがて立ち上がった。
「明日、世界樹の方を見よう。北西へ流れてるマナのこともある」
「妖精族の長に?」
「うん。父上から話を通してもらう」
リーネは扉へ向かい、そこで一度だけ振り返った。
「湊。教えてくれてありがと」
「うん」
扉が静かに閉じた。
*
翌朝、面会の許しが下りた。
湊はリーネと一緒に世界樹へ向かった。クロは肩の上、シロは足元を歩き、アカは反対側の肩で羽根を畳んでいる。
根元へ近づくにつれて、肌に触れるマナが濃くなった。湿った土と苔の匂いの中に、あの甘い空気が混じっていく。
巨大な根が幾重にも地面を走る場所で、数匹の妖精が待っていた。リーネを見ると、そのうちの一匹が身を翻す。
「案内してくれるみたい」
妖精の後を追い、世界樹の幹に沿って伸びる枝の道を登った。
高くなるほど森の地面が遠ざかる。枝葉の間から落ちる光は白く、足元の木肌には淡い金色がゆっくり流れていた。
「子供の頃、ここに来たことがある」
前を歩くリーネが言った。
「レーア姉さまと。オウル兄さまも一緒だった」
足取りは止まらない。
湊も何も聞かなかった。
しばらく登ると、大きな洞が見えた。内側から柔らかな光が漏れている。
案内の妖精が先に入り、湊たちも続いた。
洞の中は静かだった。壁には木肌がそのまま露出し、幾重にも重なる筋の奥を淡い光が流れている。苔に覆われた床は足音をほとんど返さない。
奥に、一人の妖精がいた。
ほかの妖精とは大きさが違う。人間の子供ほどの背丈があり、背には透き通った翅。長い髪の周りで、金色の光が細かく揺れていた。
リーネが頭を下げる。
「ご無沙汰しております」
深い翠色の目がリーネへ向いた。
「久しいな、リーネ」
澄んだ声だった。
「今日は、旅の仲間も一緒です」
湊も頭を下げる。
「湊です」
「聞いている。森へ入った客人だな」
長の視線がクロ、シロ、アカへ順に移り、再びリーネへ戻った。
「何を聞きに来た」
リーネが口を開く。
「世界樹のマナが、北西へ偏ってる。根元は濃いのに、森の外の結界は三十年前より薄くなってるって」
長の翅から落ちる光が、わずかに揺れた。
「気づいたか」
「何が起きてるんですか」
少しの沈黙のあと、長は洞の壁へ手を触れた。
木肌の内側を流れていた光が広がる。細い筋が枝分かれし、いくつもの流れになって浮かび上がった。
「世界樹の根は、大地とマナをやり取りしている。受け取る場所もあれば、返す場所もある。その流れで森は保たれ、さらに遠くへ続く根もある」
湊は光の筋を見る。流れの向きは一つではなかった。上へ昇るものも、下へ沈むものもある。
長の指が、その中の一本へ触れる。
北西へ伸びる太い筋だった。
そこだけ光が細い。
「この根で、流れが失われている」
「失われてる?」
「途中で持っていかれている。世界樹へ戻るはずの流れも、大地へ返るはずの流れも、そこで削られている」
肩の上でクロが身を起こした。
昨日、北西へ引かれていると言っていた方角と同じだった。
「いつからですか」
湊が聞く。
「一年ほど前からだ」
十一か月前。
最初の行方不明者が消えた時期が頭に浮かんだ。
長は続ける。
「初めは僅かだった。だが、ここ三、四か月で失われる量が増えた。森の外縁を覆う結界が弱っているのも、その影響だ」
リーネが世界樹の光を見つめる。
「このままだと?」
「森が弱る。眠る妖精も増えるだろう。長く続けば、根の先へ流すものも、戻すものも減っていく」
洞の入口近くを飛んでいた妖精が、一匹、低い枝へ降りた。翅の光は小さい。
「どこで起きているか、分かりますか」
「北西の外縁に近い主根だ」
「何があるかは?」
長は首を横に振った。
「流れの傷みは分かる。だが、根の外で何が起きているかまでは見えぬ」
湊はリーネを見る。
紫の瞳が返ってきた。
「行こうか」
「ああ」
長が二人を見る。
「気をつけろ。あの根からは、世界樹のものではない気配も混じっている」
クロの耳が伏せた。
湊は腰の無銘へ手を触れた。
*
洞を出ると、森の風が頬を撫でた。
枝の道を降りながら、リーネはほとんど話さなかった。しばらくして、前を向いたまま口を開く。
「一年くらい前から、か」
「ああ」
「行方不明が始まったのも、その頃だね」
湊は頷いた。
それ以上の言葉は続かなかった。
足元の枝の中を、淡い光が流れている。その一部は北西へ伸び、木々の向こうへ消えていた。
地上へ降りると、リーネが剣の位置を確かめた。
「北西へ行こう」
湊も無銘の柄を握り直す。
森の奥から吹いてきた風には、湿った土の匂いに混じって、かすかな腐臭があった。




