世界樹と妖精
翌朝。
客間には、まだ炉の火が残っていた。アカはそのそばで羽根を丸め、シロは寝台の脇に伏せている。湊は窓辺に立ち、リーネとクロへ昨夜から考えていたことを話した。
「聖典庫の交易台帳には、六年前にグランデル王都工房から『東方・エルフ領境界』へ十五基と残ってた」
リーネが壁へ背を預ける。
「それで、聖教国では今もエルフ領の境界から人を集めてるって話してた」
「ああ。次の新月に十二人。南方諸島へ送る予定だって」
部屋が静かになった。
クロの尾が寝台を一度叩く。
「これから十二人を送るつもりなら、まだどこかで生かしている可能性はある」
「レーア姉さまが言ってた行方不明者も、ここ一年で十人以上」
リーネの声から軽さが消える。
「同じ人たちかもしれないね」
「調べる必要はある」
湊は頷いた。
エルフ領の境界近くで、一人になる者ばかりを狙う。森の中へ入っただけでは、誰がどこへ行くのかまでは分からない。
「内側の事情を知ってる奴がいるかもしれない」
リーネの紫の瞳が細くなった。
「……この国の中に?」
「可能性はある」
それ以上は言わなかった。
クロが壁を這う根へ目を向ける。
「それと、昨夜のマナだ。根元では濃い。それなのに、外縁の結界は三十年前より薄かった」
「何か繋がってると思う?」
湊が聞く。
クロは壁を這う根を見たまま、尾を一度揺らした。
「今日、オウルが森を案内するんだろう。まず見ろ。自分の目でな」
「ああ」
リーネも頷く。
「レーア姉さまには、行方不明者のことをもう少し聞いてみる」
炉の薪が小さく爆ぜた。
*
朝食を終える頃、王妃と姉たちから「またあとで」と声が重なった。リーネは片手を上げて応え、そのまま湊たちと王宮の外へ出た。
入口では、オウルとレーアが待っていた。
「おはよう。今日は森を案内するよ」
オウルは昨日と変わらない笑みを浮かべている。
「私も一緒に行くわ」
レーアが言うと、リーネが笑った。
「姉さま、昔からそうだよね。あたしが出かけると、よくついてきた」
「ついていったんじゃないわ。見守っていたの」
「同じだって」
二人のやり取りに、オウルも小さく笑った。
シロは小さな姿で湊の足元を歩き、アカは肩から離れない。クロは反対側の肩で目を閉じていた。
*
王宮を離れると、木々の間へ細い道が続いていた。
土は柔らかく、踏むたびに湿った匂いが上がる。頭上では葉が重なり、ところどころから落ちる光が苔を照らしていた。
オウルが歩きながら、足元を指す。
「この森の木々は、地下で世界樹の根系に繋がっている。東側の地下には、太い根も細い根も広く走っているんだ」
湊は地面を見る。ところどころで、縄のような根が苔の下から覗いていた。
「昨日、リーネさんが触ってたのも?」
「そう。地上では別々の木に見えても、地下では世界樹の根へ連なっている場所が多い」
クロが薄く目を開けたが、何も言わなかった。
しばらく歩くと、木々の間が開けた。
昨日は王宮へ向かう途中、遠くから見上げただけだった。
今日は、その根元まで近づいていく。
白銀の幹が空へ伸びている。近くで見ると、樹皮の一枚一枚さえ岩壁ほど大きい。地面を走る根は川の土手のように盛り上がり、その表面を淡い光がゆっくり脈打っていた。
湊は足を止めた。
「近くで見ると、余計にでかいな」
「でしょ」
レーアが笑う。
リーネは幹を見上げたまま肩をすくめた。
「昨日も言ったけど、でかいものはでかいよ」
「あなた、本当にそれしかないの?」
姉妹の声が、根の間へ柔らかく響いた。
湊は世界樹へ視線を戻す。
光は根から幹へ上がるようにも、幹から根へ沈むようにも見えた。一定ではない。呼吸のように、ゆっくり明滅している。
オウルが根へ手を触れた。
「世界樹とその根は、この森のマナ循環の中心にある。僕たちエルフも、ずっとその恩恵の中で暮らしてきた」
レーアが隣で頷いた。
「だから、世界樹に何かあれば森全体に影響が出るわ」
昨夜のクロの言葉が頭をよぎった。
根元では濃い。外縁では薄い。
湊は黙って、脈打つ光を見た。
*
さらに根元へ進むと、小さな光がいくつも舞っていた。
最初は虫かと思った。
一つが近づいてきて、湊は目を凝らす。
人の形をしている。
手のひらほどの小さな体。背中には透き通った翅があり、飛ぶたびに淡い光の粒がこぼれた。
「妖精族だよ」
オウルが声を落とす。
世界樹の幹や太い根のあちこちに、小さな入口が見えた。自然にできた洞のようなものもあれば、扉らしい形のものもある。その周囲を妖精たちが行き来していた。
「ここに住んでるのか」
「世界樹のあちこちに住処がある。まとまって暮らす場所もあれば、一匹でいる者もいるよ」
一匹の妖精が、湊の顔の前まで飛んできた。
大きな瞳でじっと見られる。
湊が動かずにいると、妖精は首を傾げた。それから肩のクロへ目を向ける。
クロも片目だけを開けた。
数秒、見つめ合う。
妖精は何事もなかったように身を翻し、光の粒を残して幹の方へ戻っていった。
「……何だったんだ」
「さあ」
レーアも少し不思議そうに見送っている。
オウルは世界樹を見上げた。
「妖精族は世界樹を守る種族だ。僕たちエルフとは、ずっとこの森で共に暮らしてきた」
「食べ物も水も取らないの」
レーアが続ける。
「世界樹の周りにあるマナを吸って生きているのよ。異変があれば、私たちより先に気づくことも多いわ」
湊は飛び交う小さな光を見る。
「じゃあ、今の世界樹のことも?」
レーアはすぐには答えなかった。
「何か感じているかもしれない。でも、私には分からないわ」
オウルが世界樹を見上げる。
「妖精族には長がいる。世界樹に最も近い方だ。必要なら、父上から面会を頼むことになると思う」
「誰でも会えるわけじゃないの?」
「うん。普段は僕たちでも、そう簡単には会えない」
湊は頷いた。
今はまだ、分からないことの方が多い。
それでいい。
*
帰り道の途中で、オウルは足を止めた。
「僕はここから別れるよ。午後も行方不明者の調査があるんだ」
「兄さまも調べてるの?」
「もちろん。民が消えているんだからね」
穏やかな声だった。
「何か分かったら共有するよ」
「うん。お願い」
リーネが答える。
オウルは手を上げ、別の道へ入っていった。
姿が木々の向こうへ消えてから、リーネがレーアの隣へ並ぶ。
「姉さま。行方不明者のこと、もう少し詳しく聞いていい?」
レーアの歩みが少しだけ遅くなった。
「ええ」
「どこで消えてるの?」
「森の外縁が多いわ。狩りや薬草採りで、一人になった時。誰かと一緒にいる時に消えた例は、今のところない」
「痕跡は?」
「ほとんど何も。争った跡も、血も残っていないの」
風が葉を鳴らした。
「最後に消えたのは?」
「十日前よ」
湊はその数字を覚えた。
レーアがこちらを見る。
「獣人国でも、似たことがあったのよね」
「はい。一人になったところを狙われていました」
「同じだと思う?」
「まだ分かりません」
湊は足元の根を跨いだ。
「明日、消えた場所を見せてもらえますか」
「もちろん」
レーアは短く答えた。
その横で、リーネが何も言わずに姉の手を取った。
レーアは一度だけ妹を見た。それから、握られた手をそのままにして歩いた。
世界樹の葉を抜けた光が、二人の銀髪の上で揺れていた。




