王宮の客人
レーアがリーネを離した。
紫の瞳がまだ少し潤んでいる。その向こう、王宮の入口にはいつの間にか何人ものエルフが集まっていた。
「リーネ」
静かな声に、リーネが振り返る。
銀髪の女性が立っていた。そのそばには、リーネとどこか面差しの似た女性たちが並んでいる。
「……母さま。姉さまたちも」
いつもの軽い調子が少しだけ消えた。
王妃がリーネの頬へ手を添える。
「おかえり」
それをきっかけにしたように、姉たちからも「おかえり」の声が重なった。リーネは困ったように笑いながら、一人ずつ顔を見ていく。
湊は少し離れたところで、その様子を見ていた。
レーアがこちらへ気づき、表情を整える。
「お客様ね。リーネの旅の仲間?」
「うん。湊。それと従魔が三匹」
「湊です」
湊が頭を下げると、王妃と姉たちも穏やかに会釈を返した。
レーアの視線が、湊の肩にいるクロへ移る。
「……きれいな黒猫ね」
クロが金色の目で見返した。
一瞬だけ、レーアの目がその金色に留まる。それでも何も聞かず、次に足元のシロへ視線を落とした。
「銀狼なのね。小さいけれど、立派な毛並み」
シロの尾が揺れる。
――やさしい。このひと。
――ああ。
アカは湊の反対側の肩にしがみついたままだった。森へ入ってから、赤い羽根が落ち着かない。
レーアがその様子を見る。
「火のそばなら、少し落ち着くかしら。客間に炉を用意させるわ」
「ありがとうございます」
アカが小さく鳴いた。
レーアは微笑み、王宮の中へ手を向けた。
「立ち話も何でしょう。まず休んでちょうだい」
*
王宮の中へ入る。
壁は木そのものだった。太い根が廊下の壁面を這い、ところどころで淡い光が流れている。窓らしい窓は少なく、枝葉の隙間から落ちる光が床へ揺れていた。
森の中より、空気がさらに甘い。
クロが湊の肩で小さく息を吸った。尾の先が一度だけ動く。
レーアが振り返る。
「客間はこちらよ。リーネ、あなたの部屋はそのまま残してあるから」
「え。まだ残ってるの」
「当たり前でしょう」
後ろから、姉の誰かが笑う声がした。
リーネは少しだけ俯き、それから顔を上げる。
「……ありがとう、姉さま」
レーアは何も返さず、リーネの肩を軽く叩いた。
客間も木で作られていた。壁も床も柔らかな木目で、寝台の木枠へ触れるとわずかに温かい。
シロが部屋の中を嗅ぎ回る。元の大きさへ戻った銀狼が歩くたび、床がかすかに鳴った。
――いいにおい。ここ、すき。
――気に入ったか。
――うん。あったかい。
部屋の隅には、頼んだ通り小さな炉が用意されていた。アカがすぐそばへ移り、火へ顔を向ける。しばらくすると、逆立っていた羽根がようやく落ち着いた。
クロは寝台へ飛び乗ると、そのまま丸くなる。
「もう寝るのか」
金色の目が一度だけ開き、また閉じた。
湊は苦笑して荷物を下ろした。
*
夕刻、レーアに食事へ呼ばれた。
長い木の卓には、昼に出迎えた王妃と姉たちも座っていた。リーネが席につくなり、旅先のことを尋ねる声があちこちから飛ぶ。
「一度に聞かれても答えられないって」
リーネが笑う。
長く離れていたとは思えないほど、そのやり取りは普通の家族のものに見えた。
そこへ、一人の青年が入ってきた。
銀髪。紫の瞳。リーネやレーアと同じ面差しを持つが、二人より背が高い。
「オウル。久しぶりだね」
リーネが声をかける。
青年の目が大きくなった。
「……リーネ。本当に帰ってきたんだね」
「元気そうだね、兄さま」
オウルは近づくと、昔からそうしていたようにリーネの頭へ手を置いた。
「背も伸びてない」
「伸びるわけないでしょ。もう止まってるんだから」
リーネが手を払い、卓のあちこちから笑いが漏れた。
オウルも笑ってから、湊へ向き直る。
「君がリーネの旅の仲間か」
「湊です」
「オウル・ファルシオン。リーネの兄だ。妹が世話になっている」
差し出された手を握る。強く握り込むでもなく、探るような感じもない。少なくとも、湊には穏やかな人に見えた。
「こちらこそ、お世話になってます」
「それ、あたしが言う方じゃない?」
リーネが口を挟む。
また笑いが起きた。
食卓には木の実や果物、薄く焼いたパン、蜂蜜を使った根菜料理が並んでいた。肉料理は見当たらない。
「エルフは肉を食べないんだよ」
隣のリーネが小声で言う。
「知ってる」
「あたしは外で食べてるけどね」
「知ってる」
「何その返し」
湊が少し笑うと、リーネが肩をぶつけてきた。
食事が進むにつれ、王妃や姉たちもリーネの旅の話へ耳を傾けていた。誰かが皿を寄せれば、リーネは礼も言わずに取る。代わりに遠い皿を押し返す。
長く離れていたはずなのに、そこだけは昨日まで一緒にいたようだった。
レーアが湊を見る。
「湊さんは、リーネとどこで出会ったの?」
「エルダの冒険者ギルドです」
「まだ冒険者を続けているのね」
「やってるよ。楽しいからね」
リーネが先に答えた。
レーアは小さく息を吐く。王妃の口元もわずかに緩んでいた。
「それで、湊さんはどうしてこの国へ?」
湊はリーネを見る。
小さく頷きが返る。
「獣人国で、行方不明者を追っていました。奴隷狩りの痕跡があって、その手がかりを辿るうちに、エルフ領の境界へ繋がったんです」
卓の空気が変わった。
笑い声が止まる。
レーアが手元の杯を置いた。
「……この国でも、行方不明者が出ているの」
リーネの顔から笑みが消える。
「行方不明者?」
「ここ一年ほどで十人以上。森の外に出た者だけじゃない。森の中で姿を消した者もいるの。父上が調査を命じているけれど、まだ手がかりはないわ」
王妃と姉たちは黙って聞いていた。
オウルが口を開く。
「森の結界があるのに、中で人が消える。僕も調査に加わっているけれど、なかなか進まなくてね」
声は穏やかなままだった。
湊は頷く。
膝の上のクロは目を閉じたまま、何も言わなかった。
*
食事が終わると、オウルが先に立った。
「明日、森を案内するよ。湊にも見てほしい場所がある」
「お願いします」
「それじゃあ、また明日」
オウルが部屋を出ていく。
レーアだけが、閉じた扉へ一拍長く目を向けていた。
やがて王妃と姉たちも席を立つ。リーネへ向けて、また明日という声がいくつか重なった。
「明日どころか、同じ王宮にいるんだけど」
リーネが笑う。
最後にレーアが立ち上がった。
「今日はゆっくり休んでね。話したいことは、まだたくさんあるから」
「うん」
レーアも部屋を出ていく。
リーネは椅子の背へ体を預けた。
「オウル兄さま、昔からあんな感じだったよ。兄弟の中でも穏やかで真面目でさ。あたしが森を出る時も、反対しなかった」
少しだけ目を細める。
「『気をつけて』って。それだけ」
「仲、いいんだな」
「まあね」
リーネは天井を見上げた。根の表面を淡い光がゆっくり流れている。
「……変わってないね。よかった」
それから立ち上がる。
「母さまたちにも、まだ捕まりそうだから行ってくる」
「おやすみ」
「おやすみ、湊」
扉が閉じる。
*
客間へ戻ると、シロは寝台の脇で伏せ、アカは炉のそばで眠っていた。クロだけが寝台の上から湊を見ている。
「……妙だな」
「何が?」
「ここのマナだ」
クロは壁を這う根へ目を向けた。
「三十年前に来た時より濃い。だが、森の外で感じた結界は、あの頃より薄かった」
湊も根を見る。
「それって、おかしいのか」
「少なくとも、同じ方向の変化には見えん」
クロの尾が寝台を一度叩く。
「まだ何とも言えん。覚えておけ」
「ああ」
根の中を、淡い光がゆっくり流れていた。
一定の間隔で明滅しながら、夜の王宮を静かに照らしていた。




