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世界樹の森

十日目の朝。


森は、すぐそこにあった。


昨夜は森の手前の草地で野営した。焚き火の向こうには、暗い緑の壁が夜の間ずっと横たわっていた。虫の声は少なく、風も森の縁で弱くなるように感じた。


朝露で濡れた草を踏み、湊は立ち上がった。森の方から湿った冷たい風が流れてくる。


《クリーン》を使うと、肌と服についた汚れが消えた。


隣で、銀髪に草をつけたリーネが起き上がる。


「おはよ」


「おはよう。かけるか」


「お願い」


《クリーン》をかけると、髪についた草と旅の汚れが消えた。リーネが銀髪を指で梳き、小さく息を吐く。


「……やっぱり最高」


クロ、シロ、アカにも順にかける。もう朝の支度の一つになっていた。



朝食を済ませ、森へ向かった。


近づくにつれて、木々の大きさが分かってくる。一本の幹が家ほども太く、梢は高いところで重なっていた。森の入口に人のための道はない。地面を這う根と苔むした岩の間へ、暗い緑が続いているだけだった。


リーネが足を止めた。


「ここから結界の中だよ。感じる?」


湊は目を閉じた。


空気の密度が違う。森の内側だけ、肌を撫でる魔力が濃い。目には見えない薄い膜を前にしているようだった。


「これが?」


「世界樹の森を覆ってる天然結界。エルフも手を入れてるけど、ずっと昔からここにあるものだよ」


肩の上で、クロの金色の目が細くなる。


「……薄いな」


リーネが振り返った。


「分かるの?」


クロは森を見たまま答えた。


「三十年前、この森へ軍を率いて来た時は、もっと強かった」


リーネの足が止まる。


「……そうだったね」


「忘れてはいない」


紫の瞳がクロへ向く。


「うん。あたしも」


それだけだった。


リーネは森へ向き直る。


「入ろう。あたしから離れないで」


「一人で入ったら?」


「たぶん、まともには進めないよ。道を見失ったり、気づいたら外へ戻されてたりする。無理に奥へ行こうとすると、根や霧に邪魔されることもある」


湊は目の前の森を見た。


さっきまでただ大きく見えていた木々が、少し違って見える。


「分かった」


リーネの後に続いた。



森の中は、外とは空気が違った。


梢に遮られて空はほとんど見えない。葉を透かした光が薄い緑になって地面へ落ち、湿った土と苔の匂いが濃くなる。どこかで水が流れ、遠くで鳥が鳴いていた。


シロが鼻を高く上げる。


――いいにおい。たくさん。


――たくさん?


――いきもの。みず。き。


匂いが多すぎるらしい。銀色の尾が右へ左へ忙しく揺れている。


アカは湊の肩へぴったり体を寄せていた。赤い羽根が少し逆立っている。


「アカ、大丈夫か」


小さく鳴く。強がるように一度翼を広げたが、すぐに畳んで首元へ顔を押しつけた。


湊はその頭を指で撫でた。


「無理に離すな」


クロが言う。


「うん」


歩き出すと、アカの爪が服を少し強く掴んだ。


先頭のリーネは迷わなかった。大きな根を越え、苔むした岩を避け、何度か木の間で立ち止まる。そのたび足元の根へ手を触れ、少し待ってから進む方向を変えた。


「道、覚えてるのか」


「全部はね。数百年経ってるし」


リーネは根から手を離した。


「でも、森に慣れたエルフなら、こうしてると大まかな流れは分かる。昔から使ってた道なら、なおさら」


「根が教える?」


「そんな感じ」


説明しきる気はないらしい。リーネはそのまま歩き出した。


森の中は、太陽の位置が分かりにくかった。《マッピング》で方角を確かめなければ、湊ならすぐに方向感覚を失いそうだった。


しばらく歩いたところで、リーネが足を止める。


「来た」


前方の木々の間に人影があった。


三つ。いや、四つ。


長い耳。緑と茶の衣服。二人は弓を持ち、残りの二人は腰に短剣を帯びている。


四人のエルフが、進路を塞いだ。


「止まれ。名を名乗れ」


先頭の男が言う。


リーネが一歩前へ出た。


「リーネ・ファルシオン。王家の末娘。――久しぶりだね」


四人の表情が変わった。


先頭のエルフが目を見開き、弓を持つ手を下げる。


「……リーネ様?」


「そう。帰ってきたよ」


いつものように笑っている。それでも、次の言葉が出るまでにほんの一拍あった。


先頭のエルフが膝をつく。残る三人も続いた。


「お帰りなさいませ、リーネ様」


「大げさだよ。立って」


リーネが手を振る。


四人は立ち上がったが、今度は視線が湊たちへ移った。湊、肩のクロ、足元のシロ、そしてアカ。一つずつ確かめるような目だった。


「……お連れの方は」


「旅の仲間。人間が一人と、従魔が三匹。客人として迎えてほしい」


先頭のエルフはすぐには答えなかった。


やがて、小さく頷く。


「承知いたしました。王宮へ知らせます。案内が来るまで、こちらでお待ちください」


一人のエルフが近くの根へ手を置き、目を閉じた。


湊には何をしているのか分からない。ただ、しばらくすると指先の下を淡い光が一度だけ走った。


リーネが戻ってくる。


「大丈夫。入れるよ」


「緊張してたな」


「……してないよ」


「してた」


紫の目が細くなった。


湊は視線を逸らす。


肩の上で、クロが小さく鼻を鳴らした。



ほどなく、若い女性のエルフが迎えに来た。


「リーネ様、お帰りなさいませ。王宮までご案内します」


さらに森の奥へ進む。


案内役は必要な時だけ足を止め、ほとんど話さなかった。木々の間を抜けるたび、少しずつ光が増えていく。


やがて空気の甘い匂いが強くなった。


その先で、湊は足を止めた。


木々の間から、巨大な幹が見えている。


大きい、では足りなかった。


城壁ほど太い幹が空へ伸び、見上げても梢は見えない。雲の向こうへ消えていた。地面を這う根も一本一本が大木のように太く、その隙間から淡い金色の光が漏れている。


世界樹。


言葉を知っていても、目の前のものとは結びつかなかった。


「……すごいな」


それしか出なかった。


肩の上で、クロの体が僅かに強張った。


――……三十年ぶりだ。


念話で届いた声は小さかった。


湊は何も返さなかった。


シロが世界樹を見上げ、尻尾を少し下げる。


――おおきい。


――ああ。大きい。


――こわい?


――怖くない。すごいだけだ。


しばらくすると、尻尾がゆっくり持ち上がった。


世界樹の根元には建物があった。


石造りではない。巨大な根と幹に沿うように木が組まれ、壁も生きた樹皮のように見える。葉の間から落ちる光が、そのまま窓の代わりになっていた。


「あれが王宮」


リーネが言う。


近づくにつれ、人の姿が増えた。


エルフたちが足を止め、こちらを見る。リーネに気づくと表情を緩める者もいたが、その後ろを歩く湊たちへは視線が長く止まった。


リーネはそのまま歩く。


王宮の入口に、一人の女性が立っていた。


銀髪。長い耳。紫の瞳。リーネより少し背が高く、顔立ちもよく似ている。


女性がリーネを見た。


紫の瞳が大きく見開かれた。


「――リーネ」


声が震えた。


リーネの足が止まる。


いつもの笑みが消えた。


「……ただいま、レーア姉さま」


女性――レーアが駆け寄った。


そのまま、リーネを抱きしめる。


「おかえり。――おかえり、リーネ」


リーネの腕が、ゆっくりとレーアの背へ回った。


湊は視線を外した。


見てはいけない気がした。


肩の上で、クロも静かに目を閉じる。


森の奥から風が渡ってきた。


遥か上で世界樹の葉が揺れ、細かな金色の光が二人の周りへ降りていた。


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