世界樹の森
十日目の朝。
森は、すぐそこにあった。
昨夜は森の手前の草地で野営した。焚き火の向こうには、暗い緑の壁が夜の間ずっと横たわっていた。虫の声は少なく、風も森の縁で弱くなるように感じた。
朝露で濡れた草を踏み、湊は立ち上がった。森の方から湿った冷たい風が流れてくる。
《クリーン》を使うと、肌と服についた汚れが消えた。
隣で、銀髪に草をつけたリーネが起き上がる。
「おはよ」
「おはよう。かけるか」
「お願い」
《クリーン》をかけると、髪についた草と旅の汚れが消えた。リーネが銀髪を指で梳き、小さく息を吐く。
「……やっぱり最高」
クロ、シロ、アカにも順にかける。もう朝の支度の一つになっていた。
*
朝食を済ませ、森へ向かった。
近づくにつれて、木々の大きさが分かってくる。一本の幹が家ほども太く、梢は高いところで重なっていた。森の入口に人のための道はない。地面を這う根と苔むした岩の間へ、暗い緑が続いているだけだった。
リーネが足を止めた。
「ここから結界の中だよ。感じる?」
湊は目を閉じた。
空気の密度が違う。森の内側だけ、肌を撫でる魔力が濃い。目には見えない薄い膜を前にしているようだった。
「これが?」
「世界樹の森を覆ってる天然結界。エルフも手を入れてるけど、ずっと昔からここにあるものだよ」
肩の上で、クロの金色の目が細くなる。
「……薄いな」
リーネが振り返った。
「分かるの?」
クロは森を見たまま答えた。
「三十年前、この森へ軍を率いて来た時は、もっと強かった」
リーネの足が止まる。
「……そうだったね」
「忘れてはいない」
紫の瞳がクロへ向く。
「うん。あたしも」
それだけだった。
リーネは森へ向き直る。
「入ろう。あたしから離れないで」
「一人で入ったら?」
「たぶん、まともには進めないよ。道を見失ったり、気づいたら外へ戻されてたりする。無理に奥へ行こうとすると、根や霧に邪魔されることもある」
湊は目の前の森を見た。
さっきまでただ大きく見えていた木々が、少し違って見える。
「分かった」
リーネの後に続いた。
*
森の中は、外とは空気が違った。
梢に遮られて空はほとんど見えない。葉を透かした光が薄い緑になって地面へ落ち、湿った土と苔の匂いが濃くなる。どこかで水が流れ、遠くで鳥が鳴いていた。
シロが鼻を高く上げる。
――いいにおい。たくさん。
――たくさん?
――いきもの。みず。き。
匂いが多すぎるらしい。銀色の尾が右へ左へ忙しく揺れている。
アカは湊の肩へぴったり体を寄せていた。赤い羽根が少し逆立っている。
「アカ、大丈夫か」
小さく鳴く。強がるように一度翼を広げたが、すぐに畳んで首元へ顔を押しつけた。
湊はその頭を指で撫でた。
「無理に離すな」
クロが言う。
「うん」
歩き出すと、アカの爪が服を少し強く掴んだ。
先頭のリーネは迷わなかった。大きな根を越え、苔むした岩を避け、何度か木の間で立ち止まる。そのたび足元の根へ手を触れ、少し待ってから進む方向を変えた。
「道、覚えてるのか」
「全部はね。数百年経ってるし」
リーネは根から手を離した。
「でも、森に慣れたエルフなら、こうしてると大まかな流れは分かる。昔から使ってた道なら、なおさら」
「根が教える?」
「そんな感じ」
説明しきる気はないらしい。リーネはそのまま歩き出した。
森の中は、太陽の位置が分かりにくかった。《マッピング》で方角を確かめなければ、湊ならすぐに方向感覚を失いそうだった。
しばらく歩いたところで、リーネが足を止める。
「来た」
前方の木々の間に人影があった。
三つ。いや、四つ。
長い耳。緑と茶の衣服。二人は弓を持ち、残りの二人は腰に短剣を帯びている。
四人のエルフが、進路を塞いだ。
「止まれ。名を名乗れ」
先頭の男が言う。
リーネが一歩前へ出た。
「リーネ・ファルシオン。王家の末娘。――久しぶりだね」
四人の表情が変わった。
先頭のエルフが目を見開き、弓を持つ手を下げる。
「……リーネ様?」
「そう。帰ってきたよ」
いつものように笑っている。それでも、次の言葉が出るまでにほんの一拍あった。
先頭のエルフが膝をつく。残る三人も続いた。
「お帰りなさいませ、リーネ様」
「大げさだよ。立って」
リーネが手を振る。
四人は立ち上がったが、今度は視線が湊たちへ移った。湊、肩のクロ、足元のシロ、そしてアカ。一つずつ確かめるような目だった。
「……お連れの方は」
「旅の仲間。人間が一人と、従魔が三匹。客人として迎えてほしい」
先頭のエルフはすぐには答えなかった。
やがて、小さく頷く。
「承知いたしました。王宮へ知らせます。案内が来るまで、こちらでお待ちください」
一人のエルフが近くの根へ手を置き、目を閉じた。
湊には何をしているのか分からない。ただ、しばらくすると指先の下を淡い光が一度だけ走った。
リーネが戻ってくる。
「大丈夫。入れるよ」
「緊張してたな」
「……してないよ」
「してた」
紫の目が細くなった。
湊は視線を逸らす。
肩の上で、クロが小さく鼻を鳴らした。
*
ほどなく、若い女性のエルフが迎えに来た。
「リーネ様、お帰りなさいませ。王宮までご案内します」
さらに森の奥へ進む。
案内役は必要な時だけ足を止め、ほとんど話さなかった。木々の間を抜けるたび、少しずつ光が増えていく。
やがて空気の甘い匂いが強くなった。
その先で、湊は足を止めた。
木々の間から、巨大な幹が見えている。
大きい、では足りなかった。
城壁ほど太い幹が空へ伸び、見上げても梢は見えない。雲の向こうへ消えていた。地面を這う根も一本一本が大木のように太く、その隙間から淡い金色の光が漏れている。
世界樹。
言葉を知っていても、目の前のものとは結びつかなかった。
「……すごいな」
それしか出なかった。
肩の上で、クロの体が僅かに強張った。
――……三十年ぶりだ。
念話で届いた声は小さかった。
湊は何も返さなかった。
シロが世界樹を見上げ、尻尾を少し下げる。
――おおきい。
――ああ。大きい。
――こわい?
――怖くない。すごいだけだ。
しばらくすると、尻尾がゆっくり持ち上がった。
世界樹の根元には建物があった。
石造りではない。巨大な根と幹に沿うように木が組まれ、壁も生きた樹皮のように見える。葉の間から落ちる光が、そのまま窓の代わりになっていた。
「あれが王宮」
リーネが言う。
近づくにつれ、人の姿が増えた。
エルフたちが足を止め、こちらを見る。リーネに気づくと表情を緩める者もいたが、その後ろを歩く湊たちへは視線が長く止まった。
リーネはそのまま歩く。
王宮の入口に、一人の女性が立っていた。
銀髪。長い耳。紫の瞳。リーネより少し背が高く、顔立ちもよく似ている。
女性がリーネを見た。
紫の瞳が大きく見開かれた。
「――リーネ」
声が震えた。
リーネの足が止まる。
いつもの笑みが消えた。
「……ただいま、レーア姉さま」
女性――レーアが駆け寄った。
そのまま、リーネを抱きしめる。
「おかえり。――おかえり、リーネ」
リーネの腕が、ゆっくりとレーアの背へ回った。
湊は視線を外した。
見てはいけない気がした。
肩の上で、クロも静かに目を閉じる。
森の奥から風が渡ってきた。
遥か上で世界樹の葉が揺れ、細かな金色の光が二人の周りへ降りていた。




