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新しい手札

七日目の朝、商隊はヘルムへ入った。


石壁に囲まれた交易都市だった。聖教国ほど大きくはないが、街道の交差点にあるだけあって人の出入りが多い。門の前には荷馬車が列を作り、行商人の声と車輪の音が絶えず行き交っていた。


「ここまでだ。世話になったな」


隊長が馬車を停めて振り返る。


「こちらこそ。楽な仕事だった」


「楽だったのは、あんたらが強いからだよ。エルフの国、気をつけてな」


隊長が手を振り、商隊の馬車は人混みの中へ消えていった。


護衛の報酬は銀貨十五枚。二人と三匹で旅を続けるには十分だった。湊たちはヘルムで一泊することにして宿を取り、荷物を置く。


「先に街を見てくるね」


リーネはそう言って、すぐに出ていった。


湊も外へ出ようとすると、シロが自分から体を縮めた。馬より大きな銀狼の姿が、みるみる子犬ほどになる。銀色の毛並みはそのままで、青い目が湊を見上げた。


――いく。


街へ入る時は、もう言われなくても小さくなる。


「行こう」


尻尾が大きく振れた。



湊はクロ、シロ、アカを連れて街へ出た。クロは肩、アカは頭、シロは足元をちょこちょこと歩いている。


ヘルムは商人の街だった。通りの両側に店が並び、荷車が行き交う。野菜の値を張り上げる声、金属を叩く音、焼いた肉の匂い。聖教国の静かな白い街とは、空気からして違っていた。


「食料を補充しておこう」


干し肉と保存パン、水袋を買う。森へ向かえば、しばらく街には寄れない。


クロが肩の上で欠伸をした。


「お前は緊張感がないな」


「買い物に緊張する理由がない」


「エルフの国に入ってからの話だ」


「リーネがいる。それに私は猫だ。猫を嫌う種族などいない」


「根拠がないぞ」


「経験則だ」


湊は苦笑した。


果物屋の前で、アカが突然翼を広げた。台に積まれた赤い実を見つけたらしい。甲高く鳴き、湊の髪を引っ張る。


「分かった、分かった」


三つ買うと、アカは嬉しそうに一つを咥えた。


宿へ戻る頃には、リーネも帰っていた。机の上に一枚の地図を広げている。


「ヘルムから北東へ街道が一本ある。境界までは三日くらい。ただ、途中で道はなくなるよ」


「なくなる?」


「森に近づくほど、人の住む場所が減るからね。最後は自分たちで歩く」


指先が地図をなぞる。ヘルムから伸びる細い線は、途中で緑の中へ消えていた。その先には広い森が描かれている。


「この緑が全部、世界樹の森?」


「そう。大陸の東側の三分の一くらいかな」


クロが地図を覗き込んだ。


「森の輪郭は、三十年前と大きく変わっていないな」


「森の広さは、昔から大きく変わってないよ」


リーネはそう言って地図を畳んだ。



夜。


宿の部屋で、湊は右手の紋様を見た。淡い光が脈打っている。


意識を集中すると、光が強くなった。


能力型だった。


――《並列思考》。


意味が頭の中へ流れ込む。一度に複数の思考を走らせ、別々のことを同時に考え、判断し、動ける。


そして、分身にも重ねられる。


今までの分身は、湊が意識を向けなければ動かなかった。《並列思考》を重ねれば、本体が逐一動かさなくても、分身側で考えて動ける。


湊は目を開けた。


――来たか。


枕元で丸くなっていたクロが、金色の目だけを向けている。


――並列思考。


――ほう。


尾が一度揺れた。


――分身とは相性がいいな。


――俺もそう思う。


右手を握る。新しい紋様が手の甲に浮かんでいた。


――明日、試す。


――ああ。


クロはそれだけ言って目を閉じた。



八日目の朝、ヘルムを出た。


街道は北東へ伸び、街が遠ざかるにつれて畑も人影も減っていく。草原を渡る風が少し湿っていた。


リーネが先頭を歩き、その隣を元の大きさに戻ったシロが進んでいる。クロは湊の肩。アカは頭上を旋回していた。


「試すなら今じゃない?」


リーネが振り返った。


「何を」


「昨日の能力。顔に書いてあるよ、使いたいって」


湊は口元へ手をやった。


「……そんなに出てたか」


「出てた」


リーネが笑う。


湊は街道脇へ寄って、分身を一体作った。自分と同じ姿が隣に立つ。何もしなければ、その場で動かない。


《並列思考》を重ねた。


意識が割れた。


二つの視界が同時に開く。自分の目と、分身の目。同じ草原が、少しずれた二つの角度から入ってきた。


分身が首を動かした。


湊が操作したわけではない。自分で周囲を見回し、一歩前へ出る。もう一歩。今までのような硬さがなかった。


「……動いてる」


リーネの目が丸くなる。


湊は右手を上げた。分身は左手を上げた。


別々に動いている。


「すごいな」


ほとんど同時に、分身も口を開いた。


「すごいな」


湊は思わず分身を見る。向こうもこちらを見ていた。


クロの尾が肩の上で揺れる。


「面白い。時間も見ておけ」


「ああ」


しばらくは問題なかった。だが四十秒を過ぎる頃、分身の動きが少し鈍った。五十秒を越えると二つの視界が重なり始め、五十五秒ほどで頭の奥がぐらつく。


湊はすぐに《並列思考》を切った。


視界が一つへ戻る。分身も元のように動きを止めた。


湊は分身を消し、額の汗を拭った。


「……一分もたなかった」


「初めてなら十分だろう」


クロが言う。


リーネは腕を組み、さっきまで分身がいた場所を見る。


「それだけ自然に別々に動かれたら、あたしが敵でも嫌だね」


湊は手を握って、開いた。指先にまだ、二つだった時の感覚が薄く残っていた。



昼過ぎ、街道脇の木陰で休憩を取った。


シロに従魔肉を出すと、銀色の尾がすぐに振れた。


――おいしい。


――よかった。


食べ終えたシロが、そのまま湊の膝へ頭を乗せる。馬より大きな銀狼の頭は、さすがに重い。


「重い」


――すき。


「重いって言ってるんだが」


尻尾だけは楽しそうに草を叩いている。


木の根元では、リーネが水袋を傾けていた。銀髪が汗で首へ張りついている。


「暑いね」


「ああ」


「お風呂入りたい」


「……しばらく無理だな」


恨めしそうな目を向けられ、湊は目を逸らした。


右手の紋様は淡く光っていたが、その日はそのままにした。



九日目の朝。


目を覚ますと、右手の紋様が光っていた。


引く。


今度も能力型だった。


――《クリーン》。


体や衣服についた汚れや汗、匂いを落とす。


湊はしばらく右手を見た。


戦うための力ではない。


試しに使ってみる。


一瞬で、肌に張りついていた汗と埃が消えた。服の汚れもなくなり、身体が妙に軽い。指で腕を擦ると、さらりとしていた。


「……すごいな」


別の意味で感動した。


寝袋からリーネが起き上がる。銀髪は寝癖で少し跳ねていた。


「おはよ――」


湊を見て、目が止まる。


「……なんで朝からそんなにさっぱりしてるの」


「ガチャ。《クリーン》っていう能力」


「クリーン?」


「汚れと汗を落とす」


リーネの目が見開かれた。


「他の人にも?」


「たぶん」


「かけて」


「え」


「今すぐ」


勢いに押され、湊はリーネへ《クリーン》を使った。


旅の埃と汗が消え、銀髪がさらりと肩へ落ちる。リーネは自分の腕を見て、髪へ触れ、最後に服の匂いまで確かめた。


「……最高」


目を閉じて、深く息を吐く。


「今までのガチャで一番嬉しいかもしれない」


「戦闘には役に立たないぞ」


「戦闘より大事なことがあるんだよ」


真顔だった。


湊は反論できなかった。


クロが欠伸をする。


「私にもかけろ」


「お前は毎日毛繕いしてるだろ」


「それとこれとは別だ」


仕方なくクロにもかける。黒い毛並みがつやりと光り、本人は満足そうに目を細めた。


それを見たシロから、すぐに要求が来る。


――きれい、する。


「はいはい」


シロの銀毛も輝いた。


アカまで目の前へ飛んできて翼を広げる。


結局、全員にかけた。


「……朝から何やってるんだろうな」


「いい能力じゃない」


リーネは指で銀髪を梳きながら笑う。


「毎日お願いね」


「……善処する」



九日目の夕方、街道が消えた。


北東へ続いていた細い道が、少しずつ草に埋もれ、気づけば足元には踏み固められた跡すらなくなっている。


その先に、森が見えた。


ヘルム手前の雑木林とは比べものにならない。木々は遠目にも分かるほど高く、暗い緑の壁が地平線の端まで続いていた。


湊は足を止めた。


「……あれが、世界樹の森か」


森から湿った風が吹いてくる。土と葉、それにかすかに甘い匂いが混じっていた。


隣で、リーネの銀髪が揺れる。


紫の瞳は森から離れない。


「……久しぶりだね」


小さな声だった。


シロが鼻を上げる。


――いいにおい。


湊も森を見た。


明日、あそこへ入る。


リーネの故郷。エルフの国。そして、魔道具の行方を追うための次の場所。


夕暮れの中で、深い緑だけが静かに広がっていた。


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