新しい手札
七日目の朝、商隊はヘルムへ入った。
石壁に囲まれた交易都市だった。聖教国ほど大きくはないが、街道の交差点にあるだけあって人の出入りが多い。門の前には荷馬車が列を作り、行商人の声と車輪の音が絶えず行き交っていた。
「ここまでだ。世話になったな」
隊長が馬車を停めて振り返る。
「こちらこそ。楽な仕事だった」
「楽だったのは、あんたらが強いからだよ。エルフの国、気をつけてな」
隊長が手を振り、商隊の馬車は人混みの中へ消えていった。
護衛の報酬は銀貨十五枚。二人と三匹で旅を続けるには十分だった。湊たちはヘルムで一泊することにして宿を取り、荷物を置く。
「先に街を見てくるね」
リーネはそう言って、すぐに出ていった。
湊も外へ出ようとすると、シロが自分から体を縮めた。馬より大きな銀狼の姿が、みるみる子犬ほどになる。銀色の毛並みはそのままで、青い目が湊を見上げた。
――いく。
街へ入る時は、もう言われなくても小さくなる。
「行こう」
尻尾が大きく振れた。
*
湊はクロ、シロ、アカを連れて街へ出た。クロは肩、アカは頭、シロは足元をちょこちょこと歩いている。
ヘルムは商人の街だった。通りの両側に店が並び、荷車が行き交う。野菜の値を張り上げる声、金属を叩く音、焼いた肉の匂い。聖教国の静かな白い街とは、空気からして違っていた。
「食料を補充しておこう」
干し肉と保存パン、水袋を買う。森へ向かえば、しばらく街には寄れない。
クロが肩の上で欠伸をした。
「お前は緊張感がないな」
「買い物に緊張する理由がない」
「エルフの国に入ってからの話だ」
「リーネがいる。それに私は猫だ。猫を嫌う種族などいない」
「根拠がないぞ」
「経験則だ」
湊は苦笑した。
果物屋の前で、アカが突然翼を広げた。台に積まれた赤い実を見つけたらしい。甲高く鳴き、湊の髪を引っ張る。
「分かった、分かった」
三つ買うと、アカは嬉しそうに一つを咥えた。
宿へ戻る頃には、リーネも帰っていた。机の上に一枚の地図を広げている。
「ヘルムから北東へ街道が一本ある。境界までは三日くらい。ただ、途中で道はなくなるよ」
「なくなる?」
「森に近づくほど、人の住む場所が減るからね。最後は自分たちで歩く」
指先が地図をなぞる。ヘルムから伸びる細い線は、途中で緑の中へ消えていた。その先には広い森が描かれている。
「この緑が全部、世界樹の森?」
「そう。大陸の東側の三分の一くらいかな」
クロが地図を覗き込んだ。
「森の輪郭は、三十年前と大きく変わっていないな」
「森の広さは、昔から大きく変わってないよ」
リーネはそう言って地図を畳んだ。
*
夜。
宿の部屋で、湊は右手の紋様を見た。淡い光が脈打っている。
意識を集中すると、光が強くなった。
能力型だった。
――《並列思考》。
意味が頭の中へ流れ込む。一度に複数の思考を走らせ、別々のことを同時に考え、判断し、動ける。
そして、分身にも重ねられる。
今までの分身は、湊が意識を向けなければ動かなかった。《並列思考》を重ねれば、本体が逐一動かさなくても、分身側で考えて動ける。
湊は目を開けた。
――来たか。
枕元で丸くなっていたクロが、金色の目だけを向けている。
――並列思考。
――ほう。
尾が一度揺れた。
――分身とは相性がいいな。
――俺もそう思う。
右手を握る。新しい紋様が手の甲に浮かんでいた。
――明日、試す。
――ああ。
クロはそれだけ言って目を閉じた。
*
八日目の朝、ヘルムを出た。
街道は北東へ伸び、街が遠ざかるにつれて畑も人影も減っていく。草原を渡る風が少し湿っていた。
リーネが先頭を歩き、その隣を元の大きさに戻ったシロが進んでいる。クロは湊の肩。アカは頭上を旋回していた。
「試すなら今じゃない?」
リーネが振り返った。
「何を」
「昨日の能力。顔に書いてあるよ、使いたいって」
湊は口元へ手をやった。
「……そんなに出てたか」
「出てた」
リーネが笑う。
湊は街道脇へ寄って、分身を一体作った。自分と同じ姿が隣に立つ。何もしなければ、その場で動かない。
《並列思考》を重ねた。
意識が割れた。
二つの視界が同時に開く。自分の目と、分身の目。同じ草原が、少しずれた二つの角度から入ってきた。
分身が首を動かした。
湊が操作したわけではない。自分で周囲を見回し、一歩前へ出る。もう一歩。今までのような硬さがなかった。
「……動いてる」
リーネの目が丸くなる。
湊は右手を上げた。分身は左手を上げた。
別々に動いている。
「すごいな」
ほとんど同時に、分身も口を開いた。
「すごいな」
湊は思わず分身を見る。向こうもこちらを見ていた。
クロの尾が肩の上で揺れる。
「面白い。時間も見ておけ」
「ああ」
しばらくは問題なかった。だが四十秒を過ぎる頃、分身の動きが少し鈍った。五十秒を越えると二つの視界が重なり始め、五十五秒ほどで頭の奥がぐらつく。
湊はすぐに《並列思考》を切った。
視界が一つへ戻る。分身も元のように動きを止めた。
湊は分身を消し、額の汗を拭った。
「……一分もたなかった」
「初めてなら十分だろう」
クロが言う。
リーネは腕を組み、さっきまで分身がいた場所を見る。
「それだけ自然に別々に動かれたら、あたしが敵でも嫌だね」
湊は手を握って、開いた。指先にまだ、二つだった時の感覚が薄く残っていた。
*
昼過ぎ、街道脇の木陰で休憩を取った。
シロに従魔肉を出すと、銀色の尾がすぐに振れた。
――おいしい。
――よかった。
食べ終えたシロが、そのまま湊の膝へ頭を乗せる。馬より大きな銀狼の頭は、さすがに重い。
「重い」
――すき。
「重いって言ってるんだが」
尻尾だけは楽しそうに草を叩いている。
木の根元では、リーネが水袋を傾けていた。銀髪が汗で首へ張りついている。
「暑いね」
「ああ」
「お風呂入りたい」
「……しばらく無理だな」
恨めしそうな目を向けられ、湊は目を逸らした。
右手の紋様は淡く光っていたが、その日はそのままにした。
*
九日目の朝。
目を覚ますと、右手の紋様が光っていた。
引く。
今度も能力型だった。
――《クリーン》。
体や衣服についた汚れや汗、匂いを落とす。
湊はしばらく右手を見た。
戦うための力ではない。
試しに使ってみる。
一瞬で、肌に張りついていた汗と埃が消えた。服の汚れもなくなり、身体が妙に軽い。指で腕を擦ると、さらりとしていた。
「……すごいな」
別の意味で感動した。
寝袋からリーネが起き上がる。銀髪は寝癖で少し跳ねていた。
「おはよ――」
湊を見て、目が止まる。
「……なんで朝からそんなにさっぱりしてるの」
「ガチャ。《クリーン》っていう能力」
「クリーン?」
「汚れと汗を落とす」
リーネの目が見開かれた。
「他の人にも?」
「たぶん」
「かけて」
「え」
「今すぐ」
勢いに押され、湊はリーネへ《クリーン》を使った。
旅の埃と汗が消え、銀髪がさらりと肩へ落ちる。リーネは自分の腕を見て、髪へ触れ、最後に服の匂いまで確かめた。
「……最高」
目を閉じて、深く息を吐く。
「今までのガチャで一番嬉しいかもしれない」
「戦闘には役に立たないぞ」
「戦闘より大事なことがあるんだよ」
真顔だった。
湊は反論できなかった。
クロが欠伸をする。
「私にもかけろ」
「お前は毎日毛繕いしてるだろ」
「それとこれとは別だ」
仕方なくクロにもかける。黒い毛並みがつやりと光り、本人は満足そうに目を細めた。
それを見たシロから、すぐに要求が来る。
――きれい、する。
「はいはい」
シロの銀毛も輝いた。
アカまで目の前へ飛んできて翼を広げる。
結局、全員にかけた。
「……朝から何やってるんだろうな」
「いい能力じゃない」
リーネは指で銀髪を梳きながら笑う。
「毎日お願いね」
「……善処する」
*
九日目の夕方、街道が消えた。
北東へ続いていた細い道が、少しずつ草に埋もれ、気づけば足元には踏み固められた跡すらなくなっている。
その先に、森が見えた。
ヘルム手前の雑木林とは比べものにならない。木々は遠目にも分かるほど高く、暗い緑の壁が地平線の端まで続いていた。
湊は足を止めた。
「……あれが、世界樹の森か」
森から湿った風が吹いてくる。土と葉、それにかすかに甘い匂いが混じっていた。
隣で、リーネの銀髪が揺れる。
紫の瞳は森から離れない。
「……久しぶりだね」
小さな声だった。
シロが鼻を上げる。
――いいにおい。
湊も森を見た。
明日、あそこへ入る。
リーネの故郷。エルフの国。そして、魔道具の行方を追うための次の場所。
夕暮れの中で、深い緑だけが静かに広がっていた。




