東へ
聖教国を出て三日目の朝だった。
東へ伸びる街道は、いつの間にか乾いた石畳から土の道へ変わっていた。白い街並みはもう見えず、道の両側には麦畑と低い丘が続いている。
湊は商隊の馬車に揺られていた。聖教国から交易都市ヘルムへ向かう護衛依頼で、馬車は四台。荷は織物と香辛料。護衛は湊たちを含めて六人だった。
「三日目にしてはいいペースだ。このままなら、ヘルムまであと四日ってところだな」
御者台から、日に焼けた隊長が振り返る。
「ヘルムからは?」
「東街道が分かれる。北東へ行けばエルフ領の境界だが……あんたら、本当にあの森へ行くのかい」
「ああ」
「物好きだねえ。人間が歓迎されたって話は、俺は聞いたことがないよ」
隊長は肩を竦め、前へ向き直った。
湊の膝では、クロが黒い体を丸めている。
――エルフの国か。
声が頭の中へ届いた。
――知ってるのか。
クロの耳が一度だけ動いた。
――知っている。三十年前、あの森へ総攻撃をかけた。私が軍を率いた。
湊は返す言葉を探した。
リーネがクロへ剣を向けた朝の言葉を思い出した。世界樹へ軍を差し向けた。いくつも街が焼け、たくさん死んだ。
――……そうだったな。
――忘れたことはない。
短い返事だった。
馬車の後ろでは、リーネが街道を歩いている。
――今回は、リーネさんと一緒だ。
少し間があった。
――ああ。
馬車の後ろでは、リーネが街道を歩いていた。座っていると体が鈍る、と馬車には乗らなかった。風に銀髪を揺らしながら、馬車の速度に合わせて軽い足取りで進んでいる。
その隣を、大型のシロが悠然と歩いていた。すれ違う旅人が何人か足を止める。アカは湊の頭の上で羽根を膨らませていた。
「おい、降りろ。重い」
アカは不満そうに鳴いたものの、翼を広げて肩へ移った。そこでクロの尾に羽根が触れる。
クロの尾が跳ねた。
――……触るな、小鳥。
アカが甲高く鳴き返す。
「はいはい。喧嘩しない」
湊が間へ手を入れると、アカはその指へ頬を擦りつけた。クロは金色の目を細める。
いつもの光景だった。
*
昼過ぎ、街道脇の木陰で休憩になった。
馬車が止まり、商隊の人たちが昼食の準備を始める。湊がマジックバッグから従魔肉を出すと、シロの尻尾がすぐに大きく振れた。
――にく。
喜びがそのままパスを伝ってくる。
「はい」
肉を置くと、シロは嬉しそうに食べ始めた。銀色の背が日差しを弾く。出会った頃からさらに育ち、肩の高さはもう湊の腰を越えている。
「でかくなったな」
シロが顔を上げた。口元に肉の汁がついている。
――おおきい?
――大きい。
――うれしい。
湊はその頭を撫でた。
木の根元で干し肉を齧っていたリーネが笑う。
「本当に大きくなったね。最初に会った時でも十分大きかったのに」
「今は馬より大きい」
「そのうち乗れそうだね」
シロの耳が立った。
――のる?
――……まだ早い。
少しだけ残念そうな気配が返ってきた。
クロは木陰で前足を舐め、念入りに顔を洗っている。湊はその姿を見てから、リーネへ目を向けた。
「エルフの国に入る時、俺たちはどうなる?」
「旅の仲間としてあたしが通すよ。たぶん王家の客人扱いになる。案内役くらいはつくと思うけど」
「監視?」
「言い方が悪いなあ。案内役」
「やることは同じだろ」
クロが毛繕いを止めた。
「千年前は、外から来る者にずいぶん慎重な国だった」
「今もそこはあんまり変わってないよ」
リーネは干し肉を飲み込み、空を見上げた。
「でも、帰りたくなかったわけじゃないんだ。帰る理由がなかっただけ」
青空を流れる雲を、紫の瞳が追う。
「数百年も離れてると、故郷って言われてもぴんとこなくてさ。あたしには外を歩いてた時間の方が馴染んでる」
「家族には会いたくない?」
「んー……レーア姉さまには会いたいかな」
少し考えてから、リーネは笑った。
「あの人だけは、あたしが森を出る時に門まで来てくれたんだよ。『帰っておいで。いつでも』って」
その声はいつもと変わらなかった。ただ、立ち上がるまでに少しだけ間があった。
「そろそろ行こうか」
商隊の人たちも荷を片づけ始めている。
湊は空になった包みをマジックバッグへ戻した。
*
四日目の夕方。
街道の先に森が見えた。平原の向こうに暗い緑の帯が横たわっている。まだエルフ領ではなく、ヘルム手前の雑木林らしい。
「今夜はあの森の手前で野営だ!」
隊長の声で馬車が街道を外れ、草地へ入った。
護衛たちが焚き火の支度を始める。湊も薪を拾うため森の縁へ向かった。シロが当然のようについてくる。
枯れ枝を拾いながら歩いていると、シロの鼻が地面へ下がった。すぐに警戒がパスを伝ってくる。
――くさい。
――何の匂い?
――しらない。くさい。
湊は枝を抱えたまま足を止めた。
森の奥は夕陽が届かず、木々の間が黒く沈んでいる。薪を地面へ置き、《隠密》と《音操》を重ねた。
――クロ、聞こえる?
野営地はすぐ後ろだ。返事はすぐに来た。
――聞こえている。
湊は《マッピング》を開く。
森の中に三つの光点があった。赤い。二百メートルほど先から、こちらへ近づいてくる。
――三体。こっちに来てる。
――種類は。
――分からない。速い。
腰の無銘へ手をかける。
――来るぞ。構えろ。
刀身を抜くと、淡い光が走った。隣でシロが低く唸り、銀の毛を逆立てる。
枝の折れる音が続けて響いた。
木々の間から三体の影が飛び出す。大型の狼。体表には赤黒い紋様が浮かんでいた。
一体目が跳ぶ。
湊は牙を横へかわした。着地した魔狼へ無銘を振るう。伸びた刀身が脇腹を裂いた。
二体目はシロへ飛びかかった。正面から受け止めたシロの前足が、その首を地面へ押さえ込む。
三体目の光点が背後へ回った。
――後ろだ。
無銘の声と同時に、湊は足元の影を伸ばした。黒い槍が背後へ走り、飛びかかろうとした魔狼を貫く。悲鳴が上がった。
最初の一体が体勢を戻す。
湊は気配を消した。
魔狼の視線がわずかに迷う。その一瞬に踏み込み、無銘で喉を裂いた。
横では、骨の砕ける鈍い音がした。シロが二体目を仕留めていた。
森に静けさが戻る。
――雑だ。
無銘が言った。
――最初の一撃。避けてから斬るな。避けながら斬れ。動作が一つ多い。
――……分かった。
――次は体で覚えろ。
厳しい。
湊は息を吐き、無銘を下ろした。
シロが口元の血を舐めている。
――つよい、みなと。
――シロも強かった。
――うれしい。
尻尾が大きく振れた。
そこへアカが上から降り、湊の肩へ止まる。
「お前も戦えよ」
「ピィッ!」
翼で頬を叩かれた。
「痛い」
*
野営地へ戻ると、商隊の人たちが心配そうにこちらを見た。
「魔狼が三体。もう大丈夫です」
隊長が目を丸くする。
「三体? 一人で?」
「シロと一緒に」
横を通ったシロの口元には、まだ少し血が残っていた。隊長が一歩だけ退く。
焚き火の前では、リーネが干し肉を齧っていた。
「遅かったね」
「薪を拾ってたら魔物がいた」
「ふうん。楽しかった?」
「楽しくはない」
「ちょっと楽しそうだけど」
湊は自分の口元へ手をやった。
リーネが笑う。
クロは焚き火のそばで丸くなっていた。金色の目だけが湊へ向く。
――無銘に何か言われたか。
――雑だって。
――あの刀は厳しいからな。だが、正しい。
――分かってる。
クロはそれだけで目を閉じた。尾が一度、草を払う。
夜になると、雲のない空に星が出た。薪の爆ぜる音と、遠くで馬が鼻を鳴らす音だけが続いている。
焚き火の番をしながら、湊は右手の紋様へ目を落とした。
今日は引かなかった。
そのまま手を膝へ戻し、炎の向こうへ視線を上げる。
星の光が、静かな夜空に滲んでいた。




