光
釈放されたのは、審問の翌日だった。
地下牢の鉄格子が開き、教会騎士が湊とリーネの手枷を外した。従魔たちの籠も開けられる。クロはすぐ湊の肩へ飛び乗り、シロが足元へ寄ってくる。アカは翼を広げ、そのまま湊の頭へ止まった。
「やっと出られたね」
向かいの牢から出てきたリーネが首を鳴らす。騎士たちは何も言わず、誰も湊たちと目を合わせようとしなかった。
大聖堂を出ると、朝の光が目に刺さった。白い石畳も、噴水も、行き交う人々も昨日までと変わらない。鐘の音に足を止め、祈る者もいる。
そのすぐ後ろで、何人もの人間が倒れたことなど知らないように。
宿へ戻り、部屋の扉を閉めたところで力が抜けた。湊はそのままベッドへ倒れ込む。分身を牢へ残したままの潜入と、審問まで張りつめていた反動が一度に来たらしい。
クロが枕元へ丸くなった。
――寝ろ。
――うん。
目を閉じると、すぐに意識が落ちた。
*
それから三日ほど、湊は起きて食べては眠った。リーネが食事を運び、クロはほとんど傍を離れなかった。
四日目の朝になって、ようやく身体の重さが抜けた。
窓を開ける。乾いた風と、石と香の匂いが部屋へ流れ込んだ。遠くで朝の鐘が鳴っている。
「起きたか」
窓辺のクロが振り返る。
「ああ」
「教会も動き始めた。新しい枢機卿が決まったそうだ」
「誰?」
「テオドール。先代枢機卿の側近だった男だ。リーネも三十年前に会っているらしい」
湊は少し安心した。少なくとも、突然現れた見知らぬ人間ではない。
「アルベルトのことは?」
クロの尾が窓枠を一度叩いた。
「神罰を受けて倒れたことは公表された。だが、双子の入れ替わりと先代聖女の殺害までは出していない」
「……隠すんだ」
「ああ。テオドールの判断らしい」
窓の下では、白い衣の人々が大聖堂へ向かって歩いている。昨日までと同じように、胸元の太陽へ手を触れていた。
湊はしばらくそれを見ていた。
「ラターシュさんは?」
「教会の中では、殺された経緯も含めて名誉が戻った。ただ、外には職務中の事故死としたままだ」
指先に力が入った。
正しいことをしようとして、殺された。そのことを知らないまま、街では今日も鐘が鳴っている。
「気に入らん顔だな」
「……うん」
それでも、ラターシュが残したものまで消えたわけではない。
湊は窓を閉めた。
*
五日目の午後、湊は一人で大聖堂を訪れた。
正面扉の向こうには、白い柱が長く並んでいた。高い天蓋にはステンドグラスが嵌め込まれ、午後の光が赤や青、金色の帯になって床へ落ちている。
審問の日とは違い、広間は静かだった。
湊は祭壇まで歩いた。石の上には創造神の聖画が掲げられている。
祈り方は知らない。
それでも、少しだけ祈りたかった。
ラターシュのこと。セレナのこと。この国で、何も知らないまま生きている人たちのこと。
湊は目を閉じた。
どれくらいそうしていたのか分からない。
不意に、声が届いた。
――異世界の子よ。
肩が強張った。
目を開けても、広間には誰もいない。ただ、ステンドグラスの光が床の上で揺れていた。
――恐れるな。
審問の日、セレナを通して響いたものと同じ声だった。今はもっと静かで、すぐ近くから聞こえる。
――汝は我が子らの過ちを正し、囚われた子の心を救った。
湊は祭壇を見上げた。
――この地の過ちは、我が子らが自ら正さねばならぬもの。だが、汝がいなければ、闇はさらに深くなっていた。
光がわずかに強くなる。
――感謝する。異世界の子よ。
赤、青、金、緑。色の違う光が一瞬だけ重なり、祭壇の上へ落ちた。
そして、消えた。
広間に静けさが戻る。
湊はしばらく動けなかった。
――神様ってのは、いるんだね。
昨日のリーネの声が蘇る。
「……いるんだな」
小さく呟いた時、入口から足音が聞こえた。
振り返る。
侍女に手を引かれ、セレナが歩いてきていた。白い衣と長い金髪。薄い青灰色の瞳は、静かに正面へ向いている。
広間の中ほどで立ち止まる。
「……ここで大丈夫です」
「しかし、聖女様」
「少しだけ、一人にしてください」
侍女が迷ったあと、一礼して入口へ下がった。
セレナは一人で歩き出した。足取りは慎重だったが、迷ってはいない。湊の数歩前まで来ると、顔を上げた。
「……あなたですね」
「うん」
「あの夜、私の部屋に来てくれた人」
セレナが微笑む。
「ずっと、お礼を言いたかったんです」
「俺は大したことしてないよ」
「しました」
柔らかい声だったが、そこだけは迷わなかった。
「あなたが私に、外へ出たいかと聞いてくれたから」
セレナは胸の前で両手を組んだ。
「冒険者さん。あなたに、神の祝福がありますように」
目を閉じ、古い祈りの言葉を紡ぎ始める。意味は分からなかった。それでも、声が高い天井へ静かに昇っていくのを湊は聞いていた。
やがて、組んだ手の隙間から淡い金色の光が漏れた。
祈りが止まる。
セレナが目を開けた。
湊は息を呑んだ。
薄い青灰色だった瞳の奥に、淡い金色が灯っている。神降ろしの時の強い光とは違う。朝の陽射しのような、柔らかな色だった。
その瞳が動く。
真っ直ぐ、湊の顔へ。
「……見える」
掠れた声が落ちた。
セレナが瞬きをする。
「見える……見えるの」
涙が溢れた。
「あなたの顔が、見える」
両手で口元を覆う。肩が震えていた。
湊は何も言えなかった。
セレナは顔を上げる。天蓋。白い柱。ステンドグラスを抜けて落ちる赤や青の光。その一つ一つを追うように、金色の瞳が動いていく。
「光って……こんなに」
言葉が途切れる。
「きれい……」
今度の涙は止まらなかった。
セレナが入口を振り返る。開いた扉の向こうには、白い石畳と噴水、その上に広がる青い空があった。
一歩。
もう一歩。
セレナは光の中へ進んでいく。
――一度でいいから、世界を見てみたいな。
あの夜の声が、湊の胸に戻ってきた。
大聖堂の扉の前で、セレナが振り返る。
涙で濡れた顔が笑っていた。
「ありがとう」
湊は頷いた。
セレナは外へ歩いていった。
初めて見る世界へ。
*
宿へ戻ると、リーネが窓辺に座っていた。
「遅かったね」
「少し、寄り道した」
クロが湊の肩へ飛び乗り、鼻先を寄せてくる。
――何かあったな。
――……うん。あとで話す。
荷物はもうほとんどまとまっていた。
ラターシュが調べていた記録そのものは消されている。枢機卿室にも、グランデルへ直接繋がる書類は残っていなかった。
それでも、湊たちが聖典庫で見たものまで消えたわけではない。
魔力吸収魔道具が送られた先。南方諸島とエルフ領境界。
「次は、どこへ行くんだい」
リーネが聞く。
「エルフ領境界。魔道具の行方を追います」
クロが頷いた。
「南方へ渡るより先に、陸路で追える方からだな」
「エルフの国か」
リーネが窓の外を見る。紫の瞳が、少し遠くなった。
「久しぶりだね」
「リーネさんの故郷ですよね」
「まあね」
銀髪を掻き上げ、リーネは立ち上がった。
「行こうか」
湊も頷く。
宿を出ると、白い街に鐘が鳴っていた。石畳と香の匂いの向こうに、東へ続く道がある。
街の門を抜ける。
広い道の先には、まだ見えない森が待っていた。
湊は東へ歩き出した。




