光を知らない少女
「そう。……ありがとう」
セレナの声が、月明かりの落ちる部屋に残った。
湊は窓を見上げた。細い四角の向こうに見える夜空は、自分にとっては珍しくもないものだった。
「ねえ、冒険者さん」
セレナが膝の上で指を組む。
「もう少しだけ、いてくれる?」
「うん」
湊は部屋の隅から離れ、寝台のそばにある椅子へ腰を下ろした。
「外の話を、聞かせてほしいの。本はあるけれど、私は読めないから。誰かが読んでくれる時も、聖典ばかりなの」
「外の話か」
何から話せばいいのか、少し迷った。
「俺は冒険者だから、いくつか街を歩いたよ」
「冒険者……。どんなところ?」
湊は最初に暮らしたエルダのことを話した。人の声が途切れない市場。荷馬車の車輪が石畳を鳴らす音。朝になると通りまで流れてくる、焼きたてのパンの匂い。
「パンの匂い」
セレナが小さく繰り返した。
「ここにもパンは届くけれど、焼いているところは知らないわ。どんな匂いなの?」
「甘いっていうのとは違うけど、腹が減る匂いかな。外側は固くて、中はまだ温かい」
「ふふ。分かるような、分からないような」
少し笑った声に、湊も口元を緩めた。
そこからは、思いつくままに話した。
風に草が伏せていく平原。獣人国の賑やかな街。大きな声で笑う獅子の王のこと。火の谷では、熱い風の中で赤い鳥に出会ったこと。
「赤い鳥?」
「ああ。今は一緒に旅してる。小さいけど、羽が炎みたいに赤い」
「触れるの?」
「触れるよ。見た目ほど熱くない。よく肩に乗ってくる」
セレナは楽しそうに聞いていた。湊が言葉を止めると、その続きを待つように顔を上げる。
「私、鳥を見たことがないの」
その一言だけ、声が少し静かになった。
「鳴き声は聞こえるわ。窓の外から、ときどき。でも、翼がどんな形なのかも、空を飛ぶ姿も知らない」
湊は高い窓へ目を向けた。
空も、鳥も、通りを歩く人の顔も。
セレナは音や匂いで知っていても、見たことはない。
「あなたの話、好きだわ」
セレナが微笑んだ。
「聞いていると、知らない場所が少しだけ近くなるの」
「じゃあ、もう少し話す」
「時間は大丈夫?」
「少しくらいなら」
自分でも不思議だった。普段なら、こんなに続けて話すことはない。
それでもセレナが笑うたび、次に見たものが一つずつ浮かんだ。
しばらくして、セレナがぽつりと言った。
「一度でいいから、世界を見てみたいな」
笑っていた。
その声は軽かったのに、膝の上で重ねた指だけが強く握られていた。
湊は少し黙った。
「この部屋にいるのは、ずっと?」
「三年前から」
「その前は?」
「教会の孤児院にいたの」
セレナは指の力をゆるめた。
「私は聖女候補として生まれたそうよ。でも、生まれつき目が見えなかった。神の光を受ける器なのに、光を見ることができないのは不完全だって」
言葉は穏やかだった。
「それで、候補から外されて孤児院へ?」
「ええ」
セレナは頷く。
「でも、目が見えなくても分かることはあったの。人が近づけば、音がする前に何となく分かる時がある。強い祈りや、誰かが亡くなる時には、もっと大きく感じる」
湊は、影の中にいた自分へ声をかけたセレナを思い出した。
「さっき俺がいたのも?」
「少しだけ。何かがそこに触れたみたいな感じがしたの」
それ以上、セレナもうまく説明できないらしい。
「三年前、今の枢機卿猊下が私を孤児院から連れてきたの。先代の聖女様が亡くなって、新しい聖女が必要になったから」
湊の胸に、さっき聞いた声が蘇る。
グランデルには、問題なく片づけたと伝えろ。
「先代の聖女は、病気で?」
セレナは首を横に振った。
「教会では、神に召されたと言われているわ。でも、違うと思う」
「どうして?」
「その夜、感じたから」
月明かりの中で、セレナの表情が消えた。
「何かが、二つ、途切れたの」
湊は息を止める。
「二つ?」
「先代の聖女様と、先代の枢機卿猊下。亡くなったのは同じ頃よ」
セレナは窓の方へ顔を向けた。
「今の枢機卿猊下は、先代の双子の弟なの」
「双子……」
「この国では、双子は祝福が分かれたものだと言われている。弟の方は、生まれた時から表に出されなかったそうよ」
セレナの声が少し沈む。
「顔も、声もよく似ているらしいわ。でも、私には同じ人には感じられなかった」
見えないからこそ、顔では見分けていない。
「先代の枢機卿猊下が亡くなったあと、弟がその人として表に出た。先代の近くにいた人も、何人かいなくなったわ」
「セレナは、それを知ってるからここに?」
「それだけではないと思う」
セレナは自分の目元へ指を触れた。
「私は誰の顔も見えない。書類も読めない。式典では、決められた場所に立って祈ればいい」
少し間を置いて、手を膝へ戻す。
「扱いやすいのでしょうね」
怒っているようには聞こえなかった。
そのことの方が、湊にはつらかった。
「外に出ることは?」
「式典の時だけ。白い服を着て、祭壇に立つの。終わったらここへ戻るわ」
「嫌じゃないの?」
セレナは少し考えた。
「分からなかったの」
「分からなかった?」
「ほかを知らなかったから」
窓の外で、風が細く鳴った。
「でも、今は少し困ったわ」
「何が?」
「あなたが、外の話をしたから」
セレナが笑う。
今度の笑みには、ほんの少しだけ寂しさが混じっていた。
湊は何も返せなかった。
牢に残した分身のことが頭をよぎる。長くはいられない。
「そろそろ戻らないと」
「ええ」
セレナは素直に頷いた。
「来てくれて、ありがとう。外の話、楽しかった」
湊は立ち上がった。
部屋の隅へ向かいかけて、足を止める。
「セレナ」
「なに?」
「外に出たいか」
しばらく返事がなかった。
薄い青灰色の目が大きく開く。
「この部屋から。外へ出たい?」
セレナの唇が震えた。
声は出なかった。
代わりに、涙が一筋、頬を伝った。
それからもう一筋。
セレナは何度も頷いた。膝の上に置いていた手が震えている。
湊はその姿を見た。
「必ず、迎えに来る」
セレナは両手で口元を覆った。
声を立てずに泣いている。
湊はそれ以上言わず、部屋の隅の影へ戻った。
外の光と花の匂いが消える。
——クロ。
少しして、返事が届いた。
——聞いていた。
——あの子を助ける。
短い沈黙のあと、クロの声が返る。
——ああ。
湊は地下牢へ続く影を辿った。




