鍵の向こう
地下牢は暗かった。
天井の隅にある小さな魔石灯が、湿った石壁と鉄格子をぼんやり照らしている。湊は壁に背を預けて座っていた。手枷は外されているが、無銘も苦無もマジックバッグも取り上げられている。
牢の隅には三つの鉄籠が置かれていた。クロは金色の目を細め、シロは小さな体を丸めている。アカだけが落ち着かず、鉄格子を嘴で何度もつついていた。
——ここ、いや。でたい。
シロの不安がパスを通じて流れてくる。
「アカ。今はやめとけ」
湊が小さく言うと、アカは不満そうに一度鳴いて嘴を止めた。
向かいの牢にはリーネがいる。銀髪の少女は壁に背を預け、片膝を立てていた。廊下の奥では看守が一人、椅子に座っている。
湊は《音操》で周囲の音を抑え、声を落とした。
「明日の朝、審問だと思います」
「たぶんね。すぐどうこうする気なら、こんなところへ入れないだろうし」
クロが籠の中から口を開いた。
「今夜、少し確かめておいた方がいいな」
湊は顔を向ける。
「あの騎士を追う?」
ラターシュの腕から銀の腕輪を抜き取り、手袋の中へ隠した男。顔は覚えている。
「ああ。お前なら位置を追えるだろう」
湊は右手を見る。《マッピング》と《影魔法》。それに、昨日覚えたばかりの《分身》。
「分身をここに残して、俺が見てくる」
リーネが少し考えてから頷いた。
「寝かせておけば、遠目じゃ分かりにくそうだね」
「無理はするな」
クロの声は静かだった。
「うん。分かったことだけ見て戻る」
「ああ」
湊は《マッピング》を開いた。大聖堂の地下構造が浮かび、昨日の騎士を探すと、大聖堂の上層に赤い印がある。
「上にいる」
リーネが鉄格子越しに湊を見る。
「気をつけて」
「はい」
湊は牢の奥で《分身》を作った。もう一人の自分を壁際へ横たえ、目を閉じさせる。薄暗い牢なら、看守が鉄格子の外から覗いた程度では気づきにくい。
それを確認してから、湊は自分の影へ沈んだ。
*
影の中では、外の音も光も消えた。
代わりに、石壁や廊下の形が《マッピング》と重なり、周囲へ伸びる影の繋がりだけが感覚として残る。
湊は短く影を渡った。地下牢を抜け、階段沿いの影を辿って上へ進む。
二階、三階と上がるにつれ、通路は広くなった。絨毯が敷かれ、区画も細かく分かれていく。目当ての赤い印は、さらに奥にある。
《マッピング》に、扉の前で動かない二つの光点が映った。衛兵だろう。
湊は少し離れた柱の影へ移り、そこで全身を戻した。同時に《隠密》《音操》《認識阻害》を重ねる。
柱の陰に身体を寄せる。
扉の向こうから、低い声が漏れていた。
「——腕輪は」
「回収しました。現場に入った他の騎士は気づいておりません」
聞き覚えがある。
ラターシュの腕から腕輪を隠した騎士だ。
湊は呼吸を浅くし、声へ意識を向けた。
「冒険者どもは?」
「地下牢です。明朝、審問にかけます」
「白銀のリーネまで捕らえたのは余計だったな」
少し間があった。
「ですが、現場におりましたので」
「三十年前の英雄を殺人犯にすれば、アルカディアが黙っていない。ローギュストまで出てくる」
湊の眉が僅かに動く。
「では、どうなさいますか。枢機卿猊下」
背中が冷えた。
パスへ意識を向ける。
——枢機卿だ。
クロから返ってきたのは、短い返事だった。
——ああ。
室内の話は続く。
「リーネは証拠不十分で釈放する。男の方だけを主犯にしろ。筋書きは任せる」
「承知しました」
「ラターシュが残した記録は?」
「聖典庫の該当箇所は差し替えました。冒険者が作った写しも押収済みです。私室も今夜中に調べます」
「痕跡を残すな」
紙をめくるような音がした。
「グランデルには、問題なく片づけたと伝えろ」
湊の指が、柱の陰で強く握られた。
——グランデルと繋がってる。
——聞こえた。
クロの声にも、それ以上の言葉はなかった。
「次の新月の便ですが、予定通り十二人で進めます」
「調達は」
「エルフ領境界です。南方諸島への受け入れにも問題ありません」
昨日見た交易記録が、頭の中で重なる。
十二人。
南方諸島。
エルフ領境界。
「主魔封石は?」
「七割ほどまで戻ったと、ヴェルナー殿から」
「まだ三割あるか」
「供給を急がせています」
「よい。予定を遅らせるな」
こめかみの奥が重くなった。
湊はすぐ柱の影へ戻る。
視界と音が消えた直後、扉が開いた。ラターシュの腕輪を隠した騎士の光点が廊下へ出て、そのまま遠ざかっていく。
——戻る。
——ああ。
湊が来た道へ意識を向けた、その時だった。
《マッピング》の端に一つの光点がある。
枢機卿の部屋よりさらに奥。突き当たりの小さな部屋に、一人だけいた。扉の外側には大きな錠前の形が映っている。
湊は少し迷った。
——奥に誰かいる。外から鍵を掛けられてる。
返事まで、ほんの少し間があった。
——気になるなら見てこい。長居はするな。
——うん。
湊は影を渡った。
*
扉の下へ落ちた影を抜ける。
外は見えない。
ただ、《マッピング》には狭い部屋と、一人分の光点がある。
その時。
「……誰か、いるの?」
湊の意識が止まった。
まだ影から出ていない。
物音も立てていないはずだった。
「騎士の人では、ないでしょう?」
少女の声だった。
湊は少し迷い、部屋の隅にある影から全身を戻した。
最初に感じたのは、花の匂いだった。
白い部屋。壁も床も白い石で、家具は小さな寝台と机、本棚だけ。高い位置の窓から、月明かりが細く差し込んでいる。
寝台の縁に、一人の少女が座っていた。
長い金髪。白い寝衣。年は湊と同じくらいに見える。こちらへ向いた瞳は薄い青灰色で、焦点が合っていなかった。
目が見えていない。
それなのに、少女は湊が出てきた方を向いていた。
「やっぱり、いた」
「……驚かせてごめん」
「いいの。少し、気配が変わったから」
少女は小さく笑った。外から錠を掛けられた部屋に一人でいるのに、不思議なくらい穏やかな声だった。
「あなたは、誰?」
湊は少し考える。
「冒険者です」
名前は言わなかった。
「冒険者……」
少女はその言葉を確かめるように繰り返した。
「私はセレナ。この国では、聖女と呼ばれているわ」
「聖女?」
「ええ」
セレナは窓の方へ顔を向けた。
「ねえ、冒険者さん。一つだけ聞いてもいい?」
「何?」
少し間があった。
「今、外はどんな空?」
湊は高い窓を見上げた。
細い四角の向こうに、夜空がある。雲はなく、星がいくつも見えた。
「晴れてる。星が出てるよ」
セレナの顔が、ほんの少し緩んだ。両手が膝の上で重なる。
「そう。……ありがとう」




