聖典庫
朝の鐘で目が覚めた。
白鳩亭の窓を開けると、通りにはもう人が出ていた。白い衣の信徒たちが大聖堂の方角へ歩いていく。昨夜と同じように、鐘の音に合わせて街が動き始めていた。
足元でシロが伸びをし、窓枠にいたアカが湊の肩へ飛んでくる。クロは枕の上で欠伸をした。
「……朝が早い街だな」
「祈りに合わせてるんだろ」
「私には合わん」
身支度を済ませて廊下へ出ると、リーネもちょうど部屋から出てきた。
「おはよう。眠れた?」
「はい」
「じゃあ朝ごはん食べて、早めに行こう。聖典庫は午前中だけなんでしょ」
一階で白いパンと野菜のスープを食べ、湊たちは大聖堂へ向かった。
*
聖典庫は大聖堂の東棟にあった。本棟とは渡り廊下で繋がっているが、こちらは装飾が少ない。
入口に立つ衛兵へ、湊は革袋から一通の封書を取り出した。
「管理官のラターシュ司書官に会いたいんですが。アルカディアのローギュスト主席から紹介状を預かっています」
封蝋を確認した衛兵が中へ入り、しばらくして戻ってきた。
「どうぞ。ラターシュ司書官がお待ちです」
薄暗い廊下を進む。魔石灯の青白い光の先に、大きな扉があった。金の太陽と本の紋章が並んでいる。
扉の向こうは、外から想像したよりずっと広かった。高い天井まで書架が伸び、何本もの梯子が立て掛けられている。長机には羊皮紙や革装丁の本が積まれ、乾いた紙と古い革の匂いがした。
クロが鼻を動かした。
「保存の魔術がかかっているな」
「本に?」
「庫全体にだ。これだけの量を保つなら必要だろう」
書架の奥から、一人の女性が歩いてきた。白い司祭服に灰色の上着を重ね、薄茶色の髪を後ろで束ねている。銀縁の眼鏡の奥から、湊たちを一人ずつ見た。
「ようこそ、聖典庫へ。管理官のラターシュです」
「湊です。こちらがリーネさん。クロとシロとアカです」
ラターシュの視線がリーネで一度止まったが、それ以上は触れなかった。
「ローギュスト主席からの紹介状をお持ちだとか」
湊は二通の封書を取り出した。
「こっちが聖典庫への紹介状です。それと、もう一通。枢機卿猊下へ渡してほしいと預かっています」
ラターシュは宛名と封蝋を確かめた。
「承りました。こちらは教会本部へ回しておきます」
枢機卿宛ての親書には手をつけず、机の脇へ置く。もう一通だけ封を切り、静かに読み進めた。
「……なるほど。主席ご本人からの依頼なのですね」
紹介状を畳み、ラターシュは眼鏡を押し上げた。
「閲覧を許可します。書物の持ち出しと、原本への書き込みはできません。必要な箇所の書き写しは構いませんが、扱いには十分お気をつけください」
「分かりました」
「それで、何をお探しですか。蔵書も記録も多いので、手当たり次第では日が暮れてしまいます」
湊はまず、ヴェルナーの名を出した。十五年前にアルカディアの魔術学院を辞め、その後グランデルへ渡った魔術師。聖教国を経由した可能性があることを話すと、ラターシュはすぐ渡航者名簿を挙げた。
「入国者の記録は残っています。十五年前なら第七書架ですね」
「もう一つ、これと同じ系統の魔道具が、この国を通った記録がないか調べたいんです」
湊は壊れた輪を布ごと机へ置いた。ラターシュは触れずに覗き込む。
「魔道具ですか」
「人の魔力を吸うように改造されています。獣人国で、捕まった人たちに使われていました」
眼鏡の奥の目が少し細くなる。
「それから、そこで売られた人たちの行方も探しています。正規の記録に残るものじゃないのは分かっています。でも、何か不自然な人や荷物の動きがあれば」
ラターシュはしばらく輪を見ていた。
「人身売買の記録そのものはありません。ですが、不自然な交易なら心当たりがあります」
「あるんですか?」
「司書をしていると、記録の欠け方が気になるようになるんです」
ほんの少しだけ口元が緩んだ。
*
湊は十五年前の渡航者名簿を開いた。古い紙を傷めないよう頁をめくっていくと、それほど時間をかけずに名前が見つかった。
『ヴェルナー・グレイス。アルカディア出身。魔術師。入国目的――学術研究。滞在十四日』
「二週間か」
肩のクロが紙面を覗き込む。
「通り抜けただけではなさそうだな」
ラターシュへ尋ねると、今度は聖典庫の利用者記録を持ってきてくれた。ヴェルナーは滞在した十四日間、毎日ここを訪れていた。
さらに閲覧申請の控えを辿る。
『召喚術の基礎理論』
『次元接続の術式構造』
『神代の儀式記録』
『魔力循環と次元門の関係』
『創造神の奇跡――召喚の章』
同じ系統の題名が続いていた。
リーネも手を止め、湊の隣から覗き込む。
「これ……」
「ああ」
ローギュストの言葉が蘇る。異界から人を呼ぶのは、本来なら神の御業に属する。それをグランデルは人の手で成立させた。
クロの声が低くなった。
「少なくとも、この頃には召喚術を追っていたわけだ」
湊は閲覧記録を一冊ずつ書き写した。その様子を見ていたラターシュが尋ねる。
「ヴェルナーという方を、どうしてそこまで調べているのですか」
湊は一度、クロを見た。
「獣人国で見つかった魔道具と、アルカディアから流れた技術を追っていくと、その人の名前に行き着いたんです」
それだけ答える。
ラターシュは、それ以上は聞かなかった。代わりに閲覧記録へ視線を戻す。
「少なくとも、十五年前に召喚術について集中的に調べていたことは確かですね」
「はい。そこから先を知りたいんです」
「分かりました。関連する記録が他にもないか、こちらでも確認してみます。まずは残りを探しましょう」
*
交易台帳は、リーネと一緒に調べた。
記録量が多く、最初は何を見ればいいのか分からない。壊れた輪についてローギュストから聞いた特徴を手掛かりに、魔力制御器具や魔力循環器具の名目を拾っていくと、やがてリーネの指が止まった。
「湊。これ」
『品目:魔力制御器具一式。数量:二十。送り元:グランデル王国・王都工房。送り先:聖教国経由・南方諸島。取引年月:八年前』
湊は壊れた輪と、記載された品目を見比べた。
「魔力制御器具……」
「名前だけならおかしくない。でも、送り元がグランデルで二十っていうのは気になるね」
さらに頁を遡る。六年前、同じ送り元から同じ品目が十五基。送り先は東方、エルフ領境界。四年前にも、同じ品目が十基流れていた。
「二十、十五、十……四十五基」
数字にすると、手のひらに乗る壊れた輪とは急に違うものに見えた。四十五人分なのか、それとも、もっと多くの人へ使い回されたのか。台帳からは何も分からない。
リーネは六年前の欄へ指を置いた。
「エルフ領境界……」
「故郷の近くですか」
「国そのものじゃない。でも、放っておけない距離だね」
紫の瞳が紙面から離れなかった。
南方諸島の記録を、クロも覗く。
「島が多い海域だ。国や都市に属さない島もある。これだけでは場所までは絞れんな」
湊はそれぞれの記録を書き写した。少なくとも、獣人国で見つけたものと似た器具は、一か所だけへ送られていたわけではない。
その事実だけで十分に嫌な感じがした。
*
最後に、ラターシュが一冊の手帳を持ってきた。
聖典庫のものではない。使い込まれた革表紙の内側に、細かな文字が隙間なく並んでいる。
「これは私個人の控えです。公式記録を整理している時に、どうしても気になったものだけ残しています」
三年前。品目は農具一式。送り元はグランデル王国。送り先の記載はない。ただし、申告された品目に対して荷の重量が不自然に重い。
「本来なら検査されるんですか?」
「少なくとも、確認は入るはずです。でも、この荷は書類だけで通っています」
ラターシュが担当官の名を指で示す。
「この方は二年前に退職しています。その後については、私は知りません」
湊は記録を見つめた。
それだけでは、何が運ばれたかは分からない。担当官が意図して見逃したのか、単なる手違いだったのかも分からない。ただ、グランデルから来た荷の中に、説明のつかないものがある。
「これ、写してもいいですか」
「私の手帳ですから、構いません。むしろ、役に立つなら使ってください」
昼の鐘が近づく頃には、机の上に何枚もの写しが重なっていた。
ヴェルナーは十五年前、ここで召喚術に関する文献を繰り返し読んでいた。グランデル王都工房からは、魔力制御器具の名で大量の器具が外へ流れている。そして聖教国を通った荷の中にも、不自然なものが残っていた。
どこまでが一つの線なのかは、まだ分からない。
それでも、アルカディアを出た時より見えるものは増えていた。
聖典庫を出る前、湊はラターシュへ頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いいえ。私も気になることができました。召喚術の件と、交易記録については、もう少しこちらでも確認します」
リーネが尋ねる。
「また来てもいい?」
「もちろんです。午前中でしたら、私はここにいます」
東棟を出ると、白い石畳に真昼の光が落ちていた。
リーネは歩きながら、写しを入れた革袋へ目をやる。
「エルフ領境界のこと、あたしも調べたい。故郷に入れば、何か残ってるかもしれない」
「お願いします」
「うん」
ルゥの両親へ直接繋がる名前はなかった。けれど、魔道具も、人も、グランデルから伸びる同じ流れのどこかにいるのかもしれない。
もう少し、この街で調べる。
湊はそう決めた。
*
夕刻。
大聖堂の上層、枢機卿の執務室。
机の上へ、白い封書が置かれた。封蝋には、アルカディア魔術学院主席の印が押されている。
男は封書を手に取り、蝋燭の火へ目を向けた。
「……ローギュスト」
紙の端が炎に触れる。赤い封蝋は印を残したまま熱で歪み、その横から黒い焦げが広がった。
男の指先が離れる。親書は銀の皿へ落ち、静かに燃えていった。




