もう一人の自分
アルカディアを発って、五日目。
湊たちは聖教国へ向かう商隊の護衛をしながら、西へ進んでいた。荷馬車は四台。布と染料を積んだ商人たちで、最初の二日は乗り合い馬車を使い、三日目からこの商隊に合流している。
銀級三つ星になったばかりの湊と、白銀の剣聖リーネ。顔合わせの時、商隊の隊長は二人を見比べてから、思わず声を漏らした。
「……ずいぶん豪華な護衛だな」
「方向が同じだっただけだよ」
リーネが笑う。
街道は広く、轍の跡も深かった。交易路だけあって人通りは多く、遠くには別の荷馬車の列も見える。
クロは荷馬車の幌の上で丸くなっていた。
「揺れるな」
「歩くより楽だろ」
「私はもともと歩いていない。お前の肩に乗っていた」
「それ、俺が歩いてるんだよ」
横を歩いていたリーネが吹き出した。
「ほんと仲いいね」
「普通ですよ」
「そうかな」
クロの尾が幌の上を一度叩く。
「余計なことを言うな」
「はいはい」
リーネは気にした様子もなく前を向いた。クロもそれ以上は言わず、また目を閉じた。
*
昼の休憩で、商隊は街道脇の草地へ入った。
商人たちが焚き火を起こしている間、シロは少し離れた場所で腹を地面につけていた。子犬ほどの大きさになった体を長く伸ばし、陽を浴びている。
リーネが隣へ座ると、シロは一度だけ青い目を向けた。耳が動き、そのまま頭をリーネの腿へ乗せる。
「ずいぶん慣れたね」
湊はその様子を見て笑った。
「シロ、人見知りなんですけどね」
「じゃあ、気に入られたってことにしておこうかな」
リーネが耳の後ろを掻くと、シロの目が細くなった。尻尾が草を撫でる。
パスを通じて、気持ちよさそうな感覚が伝わってきた。
そこへアカが飛んできて、リーネの頭へ降りる。小さな嘴が銀髪をつついた。
「ちょっと、アカ。髪は食べ物じゃないよ」
ぴぃ、と返事のような声がした。
手で追われたアカは一度舞い上がり、今度はリーネの肩へ降りる。そのまま頬へ顔を擦りつけた。
リーネの手が止まった。
「……本当に熱くないんだね」
「はい。見た目だけなら熱そうですけど」
指先で赤い羽を撫でると、アカは気持ちよさそうに目を閉じた。
幌の上からクロが見下ろす。
「随分と愛想がいいな」
アカが顔を上げ、ぴぃ、と少し強く鳴いた。
「張り合わなくていいだろ」
湊が言うと、リーネが笑った。
三ヶ月前なら、こんな昼休みは想像もできなかった。
*
午後、街道は森へ入った。
木々の影が道へ長く落ち、荷馬車の車輪が乾いた枝を踏む音が続く。《マッピング》を広げていた湊は、少し先に三つの光点を見つけた。
「前に三体いる。街道の近く」
商隊の隊長が手綱を引く。
「魔物か?」
「見てきます。ここで待っていてください」
リーネも剣の柄へ手を添えた。
「必要なら入るよ」
「お願いします」
クロたちは商隊のそばへ残し、湊だけが森へ入った。
百メートルほど進むと、街道を塞ぐ三体の大牙猪が見えた。三メートル近い体に、不釣り合いなほど長い牙が伸びている。
銅級相当。今なら、試すまでもない。
湊は《隠密》《音操》《認識阻害》を重ね、木の影へ沈んだ。背後へ回って身体を戻し、無銘を抜く。
一体目の首を斬る。崩れる体を見て二体目が振り向いた時には、湊はもう別の影へ入っていた。
突進が空を切る。側面へ出て背を斬り、体勢を崩したところへもう一度刃を入れる。残った一体が牙を向けて突っ込んできたが、ぎりぎりまで引きつけて横へ抜け、すれ違いざまに喉を裂いた。
三体が動かなくなるまで、長くはかからなかった。
少し遅れてリーネが歩いてくる。
「綺麗になったね」
「何がですか?」
「戦い方。無理に速く動かないし、相手が向いた先にもういない」
湊は血を払って無銘を鞘へ戻した。
「無銘にずっと言われてるので」
「先生、効いてるじゃん」
——先生ではない。
頭の奥へすぐに声が届く。
湊が笑うと、リーネも察したらしく肩をすくめた。
「今も否定された?」
「はい」
二人はそのまま商隊へ戻った。
*
夜は街道脇の開けた場所で野営した。
商人たちが眠りにつき、湊が焚き火の前で見張りをしていると、右手の甲が淡く光った。膝の上にいたクロが目を開く。
「今日の分か」
「ああ」
湊は紋様へ意識を向けた。
金色の光が強まり、そのまま腕を伝うように体へ染み込んでくる。道具ではない。意味が頭の中へ流れ込んだ。
《分身》。
自分と同じ姿を、魔力で作り出す力。
湊は右手を見た。
「分身が出た」
「ほう」
クロが膝から降りる。
「試してみろ」
焚き火から少し離れ、魔力を流す。
体の内側から何かを引き出されるような感覚があり、目の前の空気が揺れた。次の瞬間、そこに湊がもう一人立っていた。
顔も服も体格も同じだった。
ただ、目だけが動かない。
「……俺なんだけど、不気味だな」
「お前より素直そうだ」
「動いてないだけだろ」
少し離れて見張っていたリーネも気づき、こちらへ来た。
「ほんとに増えた」
湊は分身へ意識を向ける。
右手を上げる。
一拍遅れて、分身の右手が持ち上がった。歩かせると一歩、二歩と進むが、膝や肩の動きがぎこちない。
湊自身も歩いてみる。
途端に分身の足が止まった。
「同時は難しいな」
自分を動かしながら、もう一つの体へ細かく指示を送ろうとすると、頭の中で両方がぶつかる。分身へ集中すれば、自分の足元がおろそかになった。
「意思はないの?」
リーネが聞く。
「ないみたいです。全部、俺が動かす」
「じゃあ今は、操り人形に近いね」
湊はもう少し魔力を流した。
隣に二体目が現れる。
一体目を歩かせると、二体目は立ったまま動かなかった。意識を二体目へ移せば、今度は一体目が止まる。
「増やせても、動かせないか」
クロが分身の間を歩く。
「今は一体で慣れる方がよさそうだな」
「そうする」
それでも、どこまで出せるかは知っておきたかった。
さらに魔力を注ぐ。
三体目が形になった途端、頭の奥が重くなった。呼吸も少し浅くなる。三体の輪郭は一体だけの時より薄く、しばらくすると端から揺らぎ始めた。
湊はすぐに消す。
足元が僅かにふらついた。
「増やすほどきついな」
「そうだな」
クロが戻ってきた。
「一体を自然に動かせるようにしろ。それだけでも囮にはなる」
湊は森での戦いを思い返す。
自分と同じ姿が正面から走れば、その一瞬だけ相手の目を奪えるかもしれない。その間に影へ入ることもできる。
「隠密とは相性よさそうだな」
「ああ。使い方はある」
それ以上、クロは説明しなかった。
リーネが分身の消えた場所を見る。
「また変なの引いたね」
「便利そうです」
「その感想も毎回同じなの?」
「だいたい」
リーネが笑った。
見張りを交代する時間が近づいていた。湊は水を一口飲み、焚き火へ薪を足す。
《分身》。
まだまともに歩かせることもできない。
それでも、影へ沈む自分とは別に、もう一人の自分が地上に残る。その光景だけは、はっきり想像できた。
*
七日目の朝。
街道の先に、白い尖塔が見えた。
朝靄の向こうに幾つもの塔が浮かび、その先端で金色の太陽が光っている。やがて白い城壁も見え始め、商隊の隊長が御者台から振り返った。
「見えたぞ。聖教国だ」
リーネが目を細める。
「三十年ぶりだな」
「やっぱり、変わってます?」
「遠くからじゃ分からないよ。でも、塔は増えた気がする」
その声に少しだけ懐かしさが混じった。
肩のクロが白い街を見つめる。
「……聖教国か」
「嫌そうだな」
「好きになる理由がない」
リーネが笑う。
「まあ、元魔王にはそうだろうね」
クロの耳が動いた。
「今はクロだ」
「知ってるよ」
それだけ言って、リーネはまた前を向いた。
白い城壁が近づいてくる。
ヴェルナーの足取りと魔道具の流通、売られた獣人たちの痕跡。そのうえ召喚術に関する古い記録まで、この国で確かめたいことは多かった。
湊は荷馬車の横を歩きながら、白い門を見上げた。




