流出
能力の話が一段落すると、ローギュストは茶を淹れ直した。
もう何杯目か分からない。湯気の向こうで、小さな老人の表情だけが少し硬くなる。
「さて。そろそろ、あの輪の話をしようか」
湊は姿勢を正した。
ローギュストが机の引き出しから、布に包んだ金属の輪を取り出す。獣人国の廃農場で拾ったものだ。黒ずんだ表面にはひびが入り、細かな紋様が途中で途切れている。
「かなり壊れていたけれど、残っている術式は読めたよ」
布の上で輪を転がし、指先で紋様を辿る。
「元になっているのは、アルカディアの魔力循環制御だ」
リーネの眉が動いた。
「学院の技術?」
「そうだねぇ。もともとは治療のためのものだよ」
ローギュストは自分の腕を軽く撫でた。
「体内の魔力がうまく巡らない患者に外から働きかけて、流れを整える。そのために研究されていた術式だ」
湊は輪を見る。
獣人たちは、これと似たものを手足につけられていたと言っていた。魔力が使えなくなり、体から力が抜けていった。
ローギュストの指が、途中で折れた紋様の上で止まる。
「でも、これは流れを整えていない。向きを変えて、外へ引き出すように組み直されている」
「吸うために?」
「そう見えるねぇ」
穏やかな声だった。
それでも、机の上に置かれた手は動かなかった。
「しかも、ただ抜くだけじゃない。こちらに送り出すための経路がある」
ローギュストが輪の内側を示す。細い線が幾つも集まり、ひび割れの先へ消えている。
「吸い上げた魔力を、別の場所へ渡すための術式だと思う」
「どこへ送っていたかは?」
湊が聞く。
「そこは分からない」
ローギュストは首を振った。
「繋ぎ先を決める部分が焼け落ちている。残っているのは、外へ送る構造までだねぇ」
クロの金色の目が細くなる。
「なら、農場だけで完結する道具ではなかったわけか」
「ああ」
湊は輪を見た。
何のために魔力を吸っていたのか。
獣人国を出る時から残っていた疑問に、少しだけ形がついた。
誰かが、どこかへ送っていた。
けれど、その先はまだ見えない。
*
ローギュストは本棚から、一冊の古い帳簿を取り出した。
革の表紙は色褪せ、角が擦れている。
「この術式を調べていて、昔の研究記録まで遡ったんだ」
頁をめくる音が続く。
「魔力循環制御の研究が大きく進んだのは、二十年ほど前。中心にいた研究者が一人いる」
指が止まった。
「ヴェルナー・グレイス」
湊は名前を繰り返した。
「ヴェルナー」
「人間の魔術師だよ。当時から魔力循環制御では学院でも指折りだった」
ローギュストは頁から目を上げない。
「十五年前、学院を辞めている」
リーネが腕を組む。
「そのあと、どこへ?」
「学院に残った記録は曖昧だ。故郷へ戻ると届け出ている。でも、後で確認した時には戻っていなかった」
「確認したことがあるんですか?」
「別件でねぇ」
ローギュストが次の頁を開く。
そこには出張記録が並んでいた。
「辞める前の数年、ヴェルナーは外へ出ることが増えていた。表向きは研究交流。行き先は違っているけれど、西へ向かった記録が多い」
小さな指が一つの地名の近くで止まる。
「グランデル側の学術機関とも、何度か接触している」
部屋が静かになった。
湊の頭に、獣人国で聞いた国名が浮かぶ。
ラグナも、サダムも疑っていた。
グランデル。
けれど、証拠はなかった。
「この輪も、そのヴェルナーが?」
「そこまでは言えないよ」
ローギュストはすぐに答えた。
「術式を理解していた者は彼一人じゃない。輪そのものに署名があるわけでもない」
一度、息を吐く。
「ただ、医療用の術式が外へ流れたこと。その術式を深く知る研究者が十五年前に学院を去り、グランデル側と接触していたこと。そこまでは記録で追える」
リーネが輪へ目を落とした。
「十分、嫌な線だな」
「ああ。嫌な線だねぇ」
ローギュストは帳簿を閉じた。
乾いた音が、机の上に残る。
「私が主席になって、そう経っていない頃の話だ」
湊は顔を上げた。
ローギュストは閉じた帳簿へ手を置いている。
「全部を自分のせいにする気はないよ。でも、学院の技術がこういう形で使われているなら、知らなかったで終わらせるつもりもない」
リーネは何も言わなかった。
湊も同じだった。
慰めるより、その言葉をそのまま受け取る方がいい気がした。
*
「もう少し追えませんか」
湊が聞く。
「ヴェルナーがどこへ行ったのか。こういう魔道具がどこへ運ばれたのか」
ローギュストは顎へ手を当てた。
「学院の記録だけでは、ここが限界だねぇ」
少し考え、窓の外を見る。
「でも、記録が残りやすい場所はある」
「どこです?」
「聖教国だよ」
リーネの目が動いた。
ローギュストは続ける。
「大陸南部の大きな交易路が集まる国だ。人の出入りも、魔道具の取引も、かなり細かく記録している。特に大聖堂に隣接する聖典庫には、古い渡航記録や交易台帳が残っているはずだ」
「ヴェルナーが通っていれば」
「十五年前の足取りを拾えるかもしれない。魔道具の流通もねぇ」
湊はすぐ、もう一つのことを思い出した。
「売られた獣人の記録も?」
「正規の人身売買記録はないだろうね。禁止されているから」
ローギュストは少し間を置く。
「でも、物や人が不自然に動けば、別の記録に痕跡が残ることはある」
ルゥの顔が浮かんだ。
両親を探すと約束した。
今のところ、手がかりはほとんどない。
「行ってみたいです」
リーネが湊を見る。
「決めるの早いな」
「追えるものがあるなら」
「まあ、お前ならそう言うと思った」
口元が少しだけ緩む。
ローギュストは小さく頷いた。
「紹介状を書こう。私の名前があれば、聖典庫の閲覧申請もしやすくなるはずだ」
「ありがとうございます」
「こちらも調べたいことだからねぇ」
ローギュストは羽根ペンを取った。
その手が止まる。
「それと、聖教国には召喚に関する古い記録も残っている」
リーネの目が動いた。
「勇者の?」
「それも含めてねぇ。創造神の奇跡として残された記録がある。グランデルの召喚術を追うなら、無関係ではないだろう」
リーネは少し黙った。
「……行くなら、あたしも行く」
「リーネさんも?」
「ああ。見ておきたい」
短い返事だった。
*
ローギュストが紹介状を書き始める。
紙を擦る羽根ペンの音が、静かな部屋に続いた。
机の上には、壊れた輪。
その隣には、十五年前の帳簿。
医療のために作られた術式が、誰かの手で別のものへ変えられ、アルカディアの外へ流れていた。
どこまで広がっているのかは分からない。
誰が何のために使っているのかも、まだ分からない。
ただ、一つ名前が残った。
ヴェルナー・グレイス。
湊はその名前を覚えた。
次に追う場所も決まった。
聖教国。
窓の外で、午後の鐘が鳴り始めた。




