遠い国の話
しばらく、誰も動かなかった。
ローギュストが新しい茶を淹れた。湯気と一緒に、香ばしい匂いが部屋へ広がる。
クロは湊の前で丸くなっていた。さっきまでより少しだけ体の力が抜けている。
湊は茶碗へ手を伸ばした。
「俺のことも、話しておきます」
リーネが顔を上げる。
「俺のこと?」
「リーネさんには、まだちゃんと話してなかったので」
ローギュストは何も言わず、湊を見る。
「俺は、この世界の人間じゃないです。三ヶ月くらい前に、グランデル王国に召喚されました」
リーネの目が細くなる。
「……やっぱりな」
「気づいてたんですか」
「なんとなく。お前、最初から少し変だったから」
「それ、異世界人だからですか?」
「そこは分からない」
少しだけ、いつもの調子だった。
湊は茶碗を両手で持った。温かさが指へ移る。
「召喚された時、鑑定石に何も出ませんでした。能力なしって言われて、そのまま地下牢に入れられました」
ローギュストが茶碗を置いた。
「ミナト君。その召喚を行ったのは、グランデル王国なんだね?」
「はい」
皺の間にあった柔らかな笑みが消える。
「三十年前、勇者をこの世界へ呼んだのは創造神だ。異界から人を招く術は、本来なら神の御業に属するものだよ」
ローギュストの指が、机を一度だけ叩いた。
「それを人の手で成立させたというなら……見過ごせないねぇ」
リーネが横から口を挟む。
「その話はあとで聞こう。まず、ミナトの話だ」
「そうだねぇ。すまない」
ローギュストは茶碗へ手を戻したが、目の奥の硬さは残っていた。
湊は続ける。
「処分される予定だったと思います。そこでクロに会って、一緒に逃げた。それが始まりです」
クロの耳が小さく動いた。
「その前は?」
リーネが聞く。
湊は少し黙った。
茶の表面に、窓から差す光が揺れている。
「……日本っていう国にいました」
「ニホン」
「俺がいた世界の国です」
遠い。
そう思った。
距離では測れないほど、遠い場所だった。
「戦争がありました。大きな戦争です。父と母は、その時に死にました」
部屋の空気が静まる。
湊は茶碗を見たまま続けた。
「そのあとは、祖母に育ててもらいました。家族は、もう祖母だけでした」
朝の台所を思い出す。
湯気。
味噌の匂い。
食卓に並べられた二つの茶碗。
「俺が学校に行かなくなっても、誰とも話さなくなっても、祖母は何も言いませんでした。毎朝、味噌汁を作って、俺の分も置いてくれてた」
クロが顔を上げた。
金色の目が、湊を見ている。
湊は一度、息を吸った。
「その祖母も死にました。寿命でした。眠るみたいに」
言葉がそこで止まる。
窓の外で、風が塔の間を抜けていく。
「それで、何もなくなったと思いました。何もしたくないし、何も欲しくない。どうなってもいいって」
地下牢の暗闇が、ほんの少しだけ蘇る。
冷たい石。
湿った匂い。
そこへ入ってきた、小さな足音。
「そのあと、光に呑まれて、この世界に来ました」
湊は顔を上げた。
「それだけです」
誰もすぐには何も言わなかった。
*
リーネは、湊を見ていた。
——あいつに似てた。世界を見る目が。
エルダで初めて会った時、そう思った。
あの頃の湊は、何を見ても少し遠かった。驚きはする。笑いもする。それでも、どこか自分自身まで世界の外側へ置いているような目をしていた。
勇者も、似た目をすることがあった。
元の世界では一人だったと、酒に酔った夜に一度だけ聞いたことがある。
似ていたのは、異世界から来たことだけではなかったのかもしれない。
何かを失ってから、この世界へ来た。
その目が、似ていた。
けれど今の湊は、あの頃とは少し違う。
膝のそばにはシロがいて、肩にはアカがいる。手を伸ばせば、クロがいる。
その違いを、リーネは黙って見ていた。
*
ローギュストが静かに口を開いた。
「ミナト君」
「はい」
「今は、何か望んでいるかい?」
湊は目を瞬いた。
すぐには答えが出なかった。
窓辺ではアカが羽根を整えている。足元にはシロ。腰には無銘がある。手の下にはクロの温度があった。
旅に出たいと思った。
この世界を見たいと思った。
ルゥの両親を探すと約束した。
壊れた輪が何なのかも知りたい。
少し前なら、どれもなかった。
「……いろいろ、あります」
自分で言ってから、少し驚いた。
ローギュストの目元が緩む。
「そうかい」
「でも、一番は」
クロの背をもう一度撫でる。
「こいつらと一緒にいたいです」
アカが顔を上げた。
「ぴぃ」
シロの尾が床を叩く。
クロは何も言わなかった。
ただ、湊の掌へ頭を押しつけてきた。
ローギュストが笑った。
「それなら、十分だねぇ」
リーネはしばらく湊を見ていた。
「……最初に会った時より、ずいぶん人間らしくなったな」
「前は違ったんですか」
「だいぶ」
「ひどいな」
「褒めてる」
「そうは聞こえませんけど」
リーネの口元が少し上がる。
クロが目を閉じたまま言った。
「気にするな。こいつの褒め方は昔から分かりにくい」
「お前に言われたくない」
声が重なり、ローギュストが喉の奥で笑った。
湊も茶を飲んだ。
もう冷めかけていた。
それでも、不思議と温かく感じた。
遠い国の話をした。
戻れるかどうかも分からない場所の話。
けれど、話し終えたあとに残ったのは、失ったものだけではなかった。




