告白
翌朝。
湊はクロを左肩に乗せ、学院へ向かった。右肩にはアカ。足元には小さくなったシロがついてくる。
昨日、受付を通してもらえるよう話しておくと言われていたからか、名を告げるとすぐに中へ案内された。
ローギュストの執務室へ続く廊下を歩いていると、扉の向こうから聞き覚えのある声がした。
「だから、面白いって言っただろ」
湊は足を止めた。
案内役の職員が扉を叩く。
「主席。ミナト様がお見えです」
「おお、通しておくれ」
扉が開いた。
窓際の椅子に、銀色の髪の少女が座っていた。
「——リーネさん」
薄い紫の瞳が大きくなる。
「お前……なんでここにいる」
「それは俺も聞きたいです」
ローギュストが二人を見比べ、目尻を下げた。
「やっぱり同じ子だったようだねぇ」
「同じ?」
「リーネは今朝、君の話をしに来たんだよ」
リーネが小さく肩を竦める。
「エルダを出てからどうしてるか、少し気になってた。ローギュストにも話しておこうと思って」
「そうだったんですか」
リーネの視線が湊の右肩へ移った。
赤い鳥。尾羽の先に金色が混じり、薄い炎が羽根の表面で揺れている。
「……また増えてる」
「アカです」
「赤いから?」
「はい」
リーネは額へ手を当てた。
「あいかわらずだな、お前」
「ぴぃ!」
アカが翼を広げ、そのままリーネの肩へ飛んだ。頬へ赤い羽根を擦りつける。
「おい、近い」
「人懐っこいんです」
「見れば分かる」
そう言いながら、リーネは追い払わなかった。
今度は足元のシロへ目を向ける。
「こっちも?」
「シロです」
「白いから?」
「白っぽいので」
「……そうか」
シロが鼻先をリーネの手へ寄せた。リーネは少しだけ目を細め、銀色の頭を撫でる。
「三ヶ月で随分賑やかになったな」
「はい」
ローギュストが茶を用意しながら笑った。
「座りなさい。せっかくだから、皆で話そう」
湊が椅子へ腰を下ろす。
クロは肩から机へ飛び移った。
その瞬間、リーネの目が細くなった。
ローギュストも、手にした茶器を置く。
クロは二人を見た。
「ローギュスト。リーネ」
低い声が部屋へ落ちた。
リーネは驚かなかった。
「やっと普通に喋る気になったか」
ローギュストだけが、目を見開いている。
「……本当に喋るんだねぇ」
クロは答えず、湊を見た。
昨日と同じ金色の目だった。
湊は小さく頷く。
クロは前を向いた。
「話がある。二人にも、湊にも」
部屋が静かになった。
アカまで鳴くのをやめている。
クロの尾が一度だけ机を打った。
「私の名は、ヴァルナハート」
リーネの表情が消えた。
ローギュストの指が、茶碗の縁で止まる。
クロは目を逸らさなかった。
「三十年前、お前たちが討った魔王だ」
茶碗が小さく鳴った。
湊は息を忘れた。
魔王。
その言葉だけが、すぐには頭へ馴染まない。
目の前にいるのは、いつもの黒猫だった。
地下牢で出会った。外へ出る方法を教えてくれた。文字も金の使い方も、魔物のことも、何も知らない湊の隣でずっと教えてくれた。
そのクロが。
三十年前の魔王。
脳裏に、いくつもの場面が浮かんだ。
リーネの正体を知った時、肩の上で震えていた小さな体。
昔のアルカディアを知っていたこと。
ローギュストの名を口にする前の、あの間。
「……クロが」
声が掠れた。
クロの耳がわずかに伏せる。
その時、椅子が鳴った。
リーネが立ち上がっていた。
銀色の刃が抜かれる。
切っ先がクロへ向いた。
「動くな」
声は低かった。
ローギュストが立ち上がる。
「リーネ」
「あたしは、こいつが何をしたか忘れてない」
紫の瞳はクロから外れない。
「世界樹へ軍を差し向けた。いくつも街が焼けた。たくさん死んだ。最後は桐人が一人で、お前を討ちに行った」
クロは動かなかった。
「その通りだ」
「だったら、なんで生きてる」
「私にも、全ては分からん」
クロの声は静かだった。
「勇者に討たれた。次に意識が戻った時には、この姿だった。《魔王》の力も、元の肉体も失っていた」
リーネの剣先は下がらない。
「それを信じろって?」
「信じろとは言わん」
クロは金色の目を逸らさない。
「私が奪った命も、焼いた場所も消えない。今ここで斬られても、文句を言える立場ではない」
「クロ」
湊は立ち上がった。
リーネの視線が向く。
「ミナト。これは三十年前の話だ。お前には——」
「三十年前のことは分かりません」
湊は言った。
「でも、今のクロなら知ってます」
リーネが黙る。
「昨日、俺はクロに家族だって言いました。その時は、正体なんて知らなかった」
クロの耳が動いた。
「今は知りました。でも、そこは変わらないです」
「お前……」
「過去に何をしたかが、どうでもいいって意味じゃないです」
言葉を選ぶ。
魔王に殺された者たちのことを、湊は知らない。
知らないから、なかったことにはできない。
「ただ、俺が一緒に旅してきたクロまで、いなくなるわけじゃない」
リーネは何も言わなかった。
剣の切っ先だけが、わずかに下がった。
ローギュストが静かに息を吐く。
「リーネ。まず、聞こう」
「……ローギュスト」
「私も、聞きたい」
穏やかな声だった。
「三十年前の続きをね」
長い沈黙のあと、リーネは剣を鞘へ戻した。
「……話せ」
椅子には座らず、その場で腕を組む。
クロは一度だけ目を閉じた。
「討たれたあと、この姿で目覚めた。力はほとんど残っていなかった」
窓の外で風が鳴った。
「正体を知られれば、殺されると思った。だから隠れた。誰にも話さず、誰にも頼らずに生きた」
「三十年?」
ローギュストが聞く。
「ああ」
それだけだった。
ローギュストの小さな手が、膝の上でゆっくり握られた。
クロは続ける。
「それで、地下牢で湊に会った」
湊を見る。
「何も知らない。何も持っていない。死にかけの少年だった」
「そこまで言う?」
「事実だ」
少しだけ、いつものクロだった。
「その少年が、私に名前をつけた。黒いから、クロだと」
リーネの口元が僅かに動く。
「やっぱり、その頃から変わってないんだな」
「うるさい」
クロの声にも、ほんの少しだけいつもの調子が戻った。
けれど、すぐに静かになる。
「安直な名前だ。だが、三十年ぶりに誰かが私へくれた名前だった」
湊は何も言えなかった。
「昨日、こいつは私を家族だと言った」
クロの尾が、小さく揺れる。
「だから、もう隠すのはやめると決めた」
部屋の中に、鐘の音が届いた。
一度。
二度。
鳴り終わっても、誰もすぐには口を開かなかった。
ローギュストが眼鏡を外した。
目元を指で押さえ、しばらくそのままでいる。
「……三十年は、長いねぇ」
クロが目を細める。
「同情される筋合いはない」
「罪が消えたとは言っていないよ」
ローギュストは眼鏡を戻した。
目が少し赤い。
「三十年前に起きたことも、お前さんがしたことも消えない。私たちが失ったものもね」
「ああ」
「でも、三十年を一匹で生きたことまで、罰として当然だったとは私は思わない」
クロが黙った。
ローギュストは机を回り込み、クロの前まで来た。
「今のお前さんが、ミナト君の家族だということも事実なんだろう」
「……そうらしい」
「なら、私はまずそこから考えるよ」
クロの金色の目が揺れた。
リーネはまだ立ったままだった。
やがて腕をほどく。
「……あたしは、まだ整理できない」
クロがリーネを見る。
「当然だ」
「許したわけでもない」
「ああ」
「でも、今ここで斬るのはやめる」
リーネは一度、目を伏せた。
「桐人も、戻ってきた時に泣いてた」
クロの耳が立つ。
「勇者が?」
「あいつ一人でお前を討ちに行って、戻ってきた時。誰にも見せるつもりはなかったんだろうけど、あたしは見た」
紫の瞳が遠くなる。
「もっと別の救い方があったんじゃないかって、ずっと悔やんでた」
クロは動かなかった。
金色の目だけが、大きく揺れた。
「……そうか」
小さな声だった。
リーネはそれ以上言わなかった。
ローギュストも黙っている。
しばらくして、ローギュストが手を差し出した。
「ヴァルナハート——いや」
一度、笑う。
「クロ、と呼んでもいいかい?」
クロは差し出された手を見る。
「好きにしろ」
前足を、その小さな掌へ乗せた。
ローギュストの指が、黒い前足をそっと包む。
湊はその様子を見ていた。
まだ、頭の中には整理できないものがたくさん残っている。
魔王だったこと。
三十年前のこと。
クロが一人で過ごした時間。
簡単に飲み込める話ではなかった。
それでも。
クロがこちらを見る。
金色の目に、わずかな不安があった。
湊は手を伸ばした。
「クロ」
「……何だ」
黒い頭を一度撫でる。
「これからもよろしくな、相棒」
クロが目を瞬いた。
「……馬鹿」
小さな声だった。
湊の手の下で、黒い耳がゆっくり伏せた。
窓の外では、五つの塔が朝の光を受けていた。




