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灰の谷

十三日目。


草原が終わった。


南東へ続いていた緑はいつの間にか途切れ、足元は乾いた灰に覆われている。踏むたびに細かな粉が靴へまとわりつき、風が吹けば低く舞った。遠くの山肌は赤黒く、空気には微かな硫黄の匂いが混じっている。


「火の谷だ」


肩の上でクロが目を細めた。


「バルムとアルカディアの間に広がる火山地帯だ。火口はいくつもある。大きく迂回すれば三日ほど余計にかかるが、このまま抜ければ一日半ほどだな」


湊は灰の向こうへ続く道を見る。


「このまま行こう」


「なら行くか。足元だけ気をつけろ」


「分かった」


シロは地面へ鼻を近づけ、すぐ顔を背けた。鼻先に灰が付いている。


湊が指で払うと、シロは小さく鼻を鳴らした。


——足元を見ろ。構えも歩き方も雑になるな。


無銘の声が頭へ届く。


「こっちでも修行するのか」


——転ぶ場所を選ぶ方が悪い。


湊は少しだけ口元を緩め、歩き出した。



昼を過ぎる頃、灰の平原が途切れた。


目の前に深い谷が口を開けている。谷底では赤い光がゆっくり脈打ち、熱気が下から頬へ上がってきた。


溶岩だった。


向こう岸までは二十歩ほど。岩の橋らしいものが残っているが、中央が大きく崩れている。縁から小石が一つ落ち、赤い光の中へ消えた。


「渡れそうにはないな」


「ここはやめておけ」


湊は向こう岸を見る。岩壁に大きな影が落ちていたが、影渡りで確実に届く距離ではない。


「影渡りも遠い」


「迂回だな」


谷に沿って北へ進んだ。


三十分ほど歩くと、幅がかなり狭い場所が見つかった。七、八歩ほど。向こう岸には岩陰があり、その手前にも十分な足場がある。


湊は何度か距離を確かめた。


「ここなら届く」


クロが向こう岸を見た。


「先にシロを渡そう」


「シロ、頼めるか」


銀色の耳が前を向いた。シロは元の大きさへ戻ると、数歩ぶん後ろへ下がった。


クロが湊の肩から飛び降り、その背へ乗る。


「私も先に行く」


シロが地面を蹴った。


銀色の体が大きく弧を描き、谷を越える。向こう岸の岩場へ着地すると、クロはその背から降りた。シロが足元を確かめるように二、三歩動き、湊へ尾を振る。


「大丈夫そうだな」


湊は息を整えた。


足元の影へ沈む。


音も光も消えた。


《マッピング》で向こう岸の形を捉える。さっき見た岩陰。そこにいるシロ。


余計なことは考えず、その場所だけを意識した。


次の瞬間、固い岩の感触が両足へ戻った。


「……着いた」


シロが駆け寄り、鼻先を湊の手へ押しつけた。


クロもシロの背から湊の肩へ戻る。


「無事ならいい」


「ああ」


湊はシロの頭を撫でた。



谷を越えた先は、さらに熱かった。


黒い岩が剥き出しになり、地面の亀裂から白い蒸気が噴き出している。風まで熱を含み、吸い込むたび喉が乾いた。


シロの歩調が少しずつ落ちていく。


「大丈夫か」


——あつい。


短い返事だった。


「少し休むか」


——いける。


そう返すものの、舌を出したままだ。


湊はマジックバッグから水を出し、手のひらへ注いだ。シロが舐め終わるのを待ってから、自分も一口飲む。


「無理なら言えよ」


シロが鼻先を湊の膝へ当てた。


再び歩き始めて、しばらくした時だった。


クロの耳が立つ。


「止まれ」


湊も足を止めた。


風。


蒸気。


その奥に、細い音が混じっている。


高く澄んだ鳥の声だった。けれど、普通の鳴き声とは少し違う。金属を軽く弾いたような響きが、長く尾を引いている。


「聞こえる」


「北東だな」


《音操》で音を拾いながら進む。


やがて黒い岩の丘が見えた。湊は《隠密》と《認識阻害》を使い、岩陰から向こうを覗く。


小さな火口があった。


縁は黒い岩に囲まれ、その内側だけが澄んだ赤い光を帯びている。


火口の縁に、一羽の鳥が立っていた。


翼を広げれば、人の背丈を越えるほど大きい。全身を赤、橙、金の炎が包んでいる。それでも炎は弱く、翼の先から少しずつ灰色へ変わっていた。


鳥が火口を覗き込み、もう一度鳴く。


高く、細い声。


近くで聞くと、それは悲鳴ではなかった。


歌だった。


「……フェニックス」


クロの声が小さくなった。


「不死鳥。炎の神獣だ」


湊は火口から目を離さない。


「シロと同じ?」


「同格と考えていい。だが、生き方はまるで違う」


フェニックスの翼から、一枚の羽根が落ちた。炎を失った羽根は灰になり、風へ散っていく。


「寿命が来たのか」


「ああ。フェニックスは終わりを迎えると火口へ帰る。そこで燃え尽き、卵へ戻る」


「死ぬんじゃないのか」


「死んで、また生まれる。あれにとっては同じことなのかもしれんな」


フェニックスが翼を広げた。


消えかけていた炎が、一度だけ強く燃え上がる。


赤から白へ。


目を細めるほどの光が、灰色の谷を照らした。


次の瞬間、フェニックスは翼を畳んだ。


火口へ落ちていく。


迷いのない、真っ直ぐな軌道だった。


白い炎が爆ぜた。


熱風が岩場を駆け抜け、湊の髪を大きく揺らす。シロが身を低くし、クロの爪が肩の布へ食い込んだ。


数秒で光は消えた。


あとには、灰色の煙だけが残った。


誰もすぐには動かなかった。


湊の耳には、さっきの歌の余韻だけが残っていた。


「……見てくる」


「気をつけろ」


湊は頷き、ゆっくり近づいた。



火口の底には、白い灰が積もっていた。


その中心に赤いものがある。


卵だった。


拳二つ分ほどの大きさ。深い赤の殻に、細い金色の紋様が走っている。


殻が、ごくわずかに脈打っていた。金色の紋様も、呼吸するように明滅している。


湊は息を詰めた。


生きている。


その時、左手が熱を持った。


テイム手袋の紋様が赤く光っている。


「……反応してる」


「フェニックスへ、か」


クロも火口を覗き込んだ。


湊は壁面を見た。深さは十歩ほどだが、岩には手をかけられる凹凸がある。火口の内側から立つ熱も、先ほどまでよりかなり弱まっていた。


「降りてみる」


湊は縁の岩へ手を当てた。温かい。少し場所を変えても、焼けるような熱さはなかった。


「行けそうだ」


火口の壁へ手をかけた。


一歩ずつ足場を選ぶ。灰の底へ降りると、靴が足首まで沈んだ。熱いというより、湯気の消えた湯のような温かさだった。


卵の前へ膝をつく。


金色の紋様は、ゆっくり明滅している。


湊が手を伸ばすと、テイム手袋の光が強くなった。


指先が殻へ触れた。


温かい。


手袋の赤い光と、殻の金色が同じ間隔で脈打った。


湊は両手で卵を持ち上げた。


小さな鼓動が、掌へ返ってくる。


「……生きてる」


火口の上からクロが答える。


「卵へ戻ったばかりだからな」


湊はしばらく卵を見ていた。


「連れていく」


クロは火口の底を見た。


「ここは、あれが選んだ再生の場所だ。それでもか」


「ああ」


左手の光は消えず、抱えた卵の紋様も静かに明滅を続けている。


「手袋が反応してる。それに……このまま置いていく気になれない」


クロはしばらく黙っていた。


「なら、最後まで面倒を見ろ」


「ああ」


「お前は一度拾うと、本当に離さんな」


湊は少し笑った。


卵を服の内側へ入れ、落ちないよう布で固定する。両手を空けてから、来た道をゆっくり登った。


火口の縁へ戻ると、シロがすぐ近づいてきた。


鼻先が、服の上から卵のある場所へ触れる。


——いる。


「ああ」


——ちいさい。


「まだ卵だからな」


シロはもう一度匂いを嗅ぎ、尾を小さく振った。


クロは肩へ戻り、湊の胸元を見下ろす。


「フェニックスは卵から孵れば幼体になる。力も大きく落ちる。そこはシロと似ている」


「じゃあ、仲間になるかもしれないな」


「孵ってから考えろ」


「分かってる」


テイム手袋の光は、いつの間にか収まっていた。


胸元からは、小さな温もりだけが伝わってくる。


湊たちは歩き出した。


灰の道はまだ続いている。


さっきまで三人だった足音に変わりはない。


けれど胸の中には、もう一つ、小さな鼓動があった。


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