解放
九日目。朝から、無銘の修行が始まった。
昨日ひたすら直された構えは、一晩眠ると少しだけ体に馴染んでいた。右足の向きも、肩の力を抜く感覚も、考えずに近い形へ持っていける。
——次だ。
無銘から、新しい形が伝わってきた。逆手に持った刃を下から斜めへ切り上げる軌道。手首の返し。肘の角度。刃が空気を裂くまでの、最短の道筋。湊はその通りに振った。
——遅い。力みすぎだ。肘が開いている。
一度振るたび、どこかを直される。同じ斬撃を何十回も繰り返すうちに指摘は少しずつ減ったが、無銘が「良い」と言うことはなかった。
「……褒めないんだな」
——褒める段階ではない。
肩の上でクロが欠伸をした。
「少し私に似てきたな」
——一緒にするな。
湊は短剣を見下ろした。
「無銘は嫌みたいだ」
「そうか。残念だな」
握った柄が、ほんの少しだけ熱を持った。
昼を過ぎると、今度は足運びを教えられた。踏み込みで間合いを詰め、その一歩の中で斬り、すぐ離れる。三つを一つの動きにまとめなければならない。
踏み込みを深くすれば刃が流れ、斬撃へ意識を向ければ離脱が遅れる。何度試しても、どこか一つが崩れた。
「影渡りを使ってみたらどうだ。踏み込みの代わりに影で距離を詰める。お前にはその手がある」
——邪道だ。
湊は短剣へ目を落とした。
「無銘は邪道だって」
「だろうな」
クロは湊の足元へ伸びる影を見る。
「でも、足で詰めることだけが正解でもない。影を使って刃へ意識を残せるなら、その方が湊には合う」
湊がもう一度無銘へ意識を向けると、少し間を置いて返事が来た。
——好きにしろ。ただし、影に任せて刃まで雑になるなら教えるのはやめる。
「分かった」
湊はもう一度構えた。影へ沈み、目標の背後から浮く。出た瞬間に斬り、また別の影へ沈んで距離を取る。最初は刃の角度がぶれたが、三度目には昨日までより滑らかに動けた。
——斬撃は悪くない。
「……今、褒めたか?」
——褒めていない。悪くないと言っただけだ。
湊が少し笑うと、クロが首を傾げた。
「何だ」
「褒めてないらしい」
「面倒な師匠だな」
——余計なお世話だ。
湊はもう一度だけ笑って、また構えた。
*
十日目。修行は朝から続いた。
切り上げ、切り下ろし、横薙ぎ、突き、引き斬り。それぞれの軌道と呼吸を繰り返し、時々《影魔法》も混ぜる。夕方には短剣を握る腕が重くなり、指先にも力が入りにくくなっていた。
「今日はそこまでだ」
クロが肩から湊の手元を見る。
「まだ少しなら」
「形が崩れてきている。続けても悪い癖を覚えるだけだ」
無銘からも次の指示は来なかった。湊は草の上へ腰を下ろす。すぐにシロが寄ってきて膝へ頭を置き、銀色の毛を撫でながら、もう片方の手で無銘を膝へ寝かせた。
二日間で、今まで自分がどれだけ力任せに動いていたのか分かった。無銘はその癖を一つずつ拾い、何度でも同じ場所を直してくる。
「無銘」
——何だ。
「お前は、誰に作られたんだ」
返事まで少し間があった。
——知らん。目覚めた時には、もうこの形だった。作り手の記憶はない。刃であることと、斬ることだけは最初から知っていた。
湊は短剣を見た。焚き火の光が、銀の刃を揺らしている。
「……少し似てるな」
——何がだ。
「俺も、目が覚めた時にはもう全部始まってた。何も分からないまま、とにかく生き延びるしかなかった」
——私は刃だ。お前は人間だ。同じではない。
「そうだな」
湊はそれ以上重ねなかった。しばらくして、無銘から低い声が届く。
——だが、何も知らずに始まったという一点だけなら、似ているのかもしれん。
湊は無銘の柄へ指を置いた。
「そっか」
クロは口を挟まず、焚き火の向こうで目を閉じていた。
*
十一日目の朝。湊が目を覚ますと、枕元に置いた無銘からすぐ声が届いた。
——起きたか。今日は一つ、先へ進む。
「先?」
——見せるものがある。お前が受け取れるかは、まだ分からん。
湊は短剣を握った。掌へ収まる感触は、数日前よりずっと馴染んでいる。
「やってみる」
——その返事だけは早いな。
朝から始まったのは、構えでも斬撃でもなかった。
——刃へ意識を通せ。
「意識を?」
——力を押し込むな。柄を握っている手の先まで、自分の意志が続いていると思え。
湊は目を閉じ、呼吸を整えた。手の中の柄へ意識を向けるが、何かを流そうとした途端に腕と肩へ余計な力が入る。何も起きなかった。
——力んでいる。
もう一度。今度は力を抜いたつもりだったが、やはり何も変わらない。何度繰り返しても、短剣は短剣のままだった。
昼を過ぎた頃には、握っているだけなのに腕が重くなっていた。集中し続けたせいか、こめかみも鈍く痛む。
「……分からない」
——考えすぎだ。
「考えないと、何をすればいいかも分からない」
草の上で見ていたクロが顔を上げた。
「力を押し込むなと言われたんだろう」
「ああ」
「なら、何かをしようとするのをやめればいいんじゃないか。ずっと一緒に使ってきたんだ。今さら正しい流し方を頭で作る必要もないだろう」
——……余計なことを言う。
湊は短剣を見た。
「図星みたいだ」
クロは鼻を鳴らした。
「なら試せ」
湊は短剣へ目を落とした。エルダで手に入れてから、ずっと腰にあった。盗賊と戦った時も、地下牢へ入った時も、魔物に襲われた時も。危ない時ほど、無意識にこの柄へ手を伸ばしていた。
考えるのをやめた。
ただ、握る。
これまで何度もそうしてきたように。
掌が、熱くなった。
刃の根元に淡い光が灯り、ゆっくり切っ先へ走る。握った短剣全体が細かく震え、そのまま刀身が音もなく長さを増していった。柄も手の中でわずかに形を変え、片手で扱える小太刀ほどの長さで止まる。
銀色だった刀身は、朝の光を受けて澄んだ白銀に見えた。
「……無銘」
——聞こえている。
声が、今までより近かった。意味を拾うというより、隣から話しかけられたようにはっきり届く。
——よくやった。
湊は一瞬、言葉を返せなかった。
「今、褒めた?」
——聞き間違いではない。二度は言わん。
クロが小太刀を見上げ、金色の目を細める。
「なるほど。これが真の姿か」
湊は教えられた通りに構えた。右足を引き、肩の力を抜く。三日間直され続けた形へ、自然に体が収まる。
刃を振った。
ひゅ、と遠くで空気が裂けた。
十歩ほど先の枯れ木が、少し遅れて斜めにずれた。上半分が地面へ落ち、乾いた枝が砕ける。
湊は無銘と、切れた木を見比べた。
「……届いた」
——斬撃飛ばしだ。これが私の力の一つだ。
「今までと同じように振ればいいのか」
——形だけならな。今は、お前の意志がこちらまで届いている。途切れれば、この姿も戻る。
湊は一度だけ呼吸をほどいた。白銀の刀身が淡く揺らぎ、元の短剣へ縮んでいく。
もう一度柄を握り直して無銘へ意識を向けると、今度は先ほどより早く刀身が伸びた。
「……分かった」
——分かったなら、浮かれるな。姿が変わっても、お前の腕まで勝手に上がるわけではない。
「うん」
——明日からは、この長さでも振れるようにする。
クロが喉を鳴らした。
「休みはなさそうだな」
「最初から期待してない」
「それでいい」
シロが駆け寄り、長くなった鞘へ鼻先を近づけた。何度か匂いを嗅いでから、不思議そうに湊を見る。
「無銘だよ。変わったのは形だけだ」
シロは鞘へ鼻をつけ、尾を一度振った。
*
夜。焚き火の前で、湊は元の短剣へ戻った無銘を膝に置いていた。
必要な時に意識を通せば、小太刀へ変わる。長いまま保とうとすれば、その分だけ無銘へ意識を向け続ける必要があった。
「無銘」
——何だ。
「お前と出会えてよかった」
返事はすぐには来なかった。薪が小さく爆ぜる。
——……馴れ合うつもりはないと言った。
「知ってる。ただ言いたかっただけ」
——勝手にしろ。
柄へ触れた指先に、わずかな温かさが返った。
クロは焚き火の向こうで丸くなり、シロは湊の脚へ背中をつけて眠っている。
湊も横になった。腰には無銘がある。
明日からまた、続きを教えられる。
それでいいと思った。




