無銘
七日目の夜。
焚き火のそばで、湊は短剣の手入れをしていた。万能油を染み込ませた布で刃を拭く。昨日、影狼を四体斬った。それでも刃こぼれ一つなく、銀色の刃は新品のように滑らかだった。
この短剣を手にしてから、もう随分になる。
エルダへ辿り着いた日に二度目のガチャで引いた。握った時に流れ込んできたのは、使い方と一つの言葉だけだった。
——名は未だ無し。心を通わせよ。さすれば真の力が目覚める。
それからずっと腰にあった。盗賊とも魔物とも戦った。死にかけた時も、何度もこの刃に助けられた。
けれど、短剣自身から何かを伝えてきたことはない。話しかけても、青い紋様がわずかに揺れるくらいだった。
「お前、その短剣をどう思っている」
焚き火の向こうで、クロが丸くなったまま聞いた。
「どうって」
「道具として使っているだけか。それとも、もう少し何かあるか」
湊は手を止めた。炎を映した刃が、橙色に揺れている。
「……助けられてる。こいつがなかったら、たぶん何度か死んでた」
「それなら充分大事にはしているな。ただ、あれが言った『心を通わせる』が礼を言うことだけかは分からん」
クロは尾の先をゆっくり揺らした。
「意志を持つ武具なら、使い手がどう刃を振るうかくらいは見ているだろう。何を斬るのか。何のために斬るのか。そこに何かを待っているのかもしれん」
「何を待ってるんだろうな」
「そこから先は私にも分からん。本人に聞け」
湊は短剣を握ったまま、焚き火へ目を戻した。
隣ではシロが丸くなり、静かな寝息を立てている。風が草を撫でる音と、薪の爆ぜる音だけが夜に残っていた。
柄は冷たい。それでも、手にはよく馴染む。最初に握った時から、自分の指の形を知っていたように収まった。
——お前は、何を待ってる。
心の中で問いかけた。
返事はなかった。
*
八日目。
歩きながら、湊は短剣のことを考えていた。
《影魔法》を得てから、戦い方は少し変わった。影で距離を詰め、動きを止め、最後に短剣を届かせる。昨日の影狼との戦いでも、仕留めるところはこの刃に任せていた。
湊は街道脇の開けた場所で足を止め、短剣を抜いた。
右から左へ薙ぐ。返して逆へ。突き、引く。
体は動く。実戦でも使えている。
ただ、自分でも雑なのは分かった。リーネから基礎を教わって以来、まとまった形で剣を習ったことはない。実戦のたびに生き残れる動きを拾ってきただけだ。
もう一度、刃を振ろうとした時だった。
——お前の剣は。
湊の腕が止まった。
クロではない。シロでもない。パスを通じた声でもなかった。
手の中から、直接言葉が届く。
——雑だ。
短剣が、かすかに震えた。
「……お前か」
返事はない。
それでも、今の言葉がどこから来たのかは分かった。
肩の上でクロの耳が立つ。
「来たか」
「分かるのか」
「声までは聞こえん。だが、その顔なら何か言われたんだろう」
「『雑だ』って」
クロの喉が小さく鳴った。
「……まあ、否定はできんな」
「分かってる」
「なら、教える気になったのかもしれん。黙っているよりは一歩進んだ」
湊は短剣を握り直した。
「どうすればいい」
「私に聞くより、そいつに聞いた方が早いだろう」
クロは短剣へ目を向け、それ以上口を挟まなかった。
湊も意識を刃へ戻した。
——教えてくれ。
しばらく何も返ってこなかった。
やがて、言葉ではなく一つの形が頭へ浮かぶ。足の位置。重心。短剣を握る角度。肩と肘の置き方。
湊はその通りに立った。右足を半歩引き、膝をわずかに曲げる。短剣を逆手に持ち、左手を前へ出した。
——違う。
右足の向きがずれている。
直すと、今度は肩の力を抜けと感覚が返ってきた。呼吸が浅い。重心が高い。直すたびに、次のずれを示される。
ただ立っているだけなのに、額へ汗が滲んだ。今まで無意識に力で誤魔化していた場所を、一つずつ組み直されているようだった。
「……厳しいな」
短剣は答えない。
代わりに、また次の修正が届いた。
日が傾くまで、湊は歩いては止まり、構えを作り直した。クロは肩の上から黙って見守り、シロだけが不思議そうに湊の周りを行ったり来たりしていた。
*
夜。焚き火の前へ座った時には、体のあちこちが痛んでいた。
戦闘で疲れた時とは違う。背中や腰、脚の内側まで、普段あまり意識しない場所が熱を持っている。
「一日で直るものではないな」
クロが言った。
「ああ。でも、教えてくれるなら続けられる」
湊は膝の上の短剣へ触れた。
柄は、昨日より少しだけ温かく感じた。
クロもそれを見て、目を細める。
「名前を聞いてみたらどうだ」
「前に、名前は俺がつけるものだって言ってなかったか」
「あの時は、そいつが何も名乗らなかったからな。お前が名をつければいいと思っていた」
クロは短剣へ視線を落とした。
「だが、今は自分から口を開いた。なら、そいつ自身が持っている名があるかもしれん」
「なるほど」
湊は短剣へ意識を向けた。
——お前の名前は。
沈黙が続く。
焚き火が小さく爆ぜた。
やがて、一つの言葉が流れ込んできた。
——無銘。
「……無銘?」
今度は、続きがあった。
——名はない。名がないことが、我が名だ。
湊は刃を見た。
名前がないことが名前。
妙な言葉なのに、不思議とその短剣には合っている気がした。
「無銘、か」
手の中で、短剣がかすかに震えた。
返事のようだった。
「これからも、よろしく」
——馴れ合うつもりはない。お前の剣を直す。それだけだ。
「分かった」
クロが喉を鳴らした。
「ずいぶん気難しい師匠が増えたな。私が知識を叩き込み、無銘が剣を直す。お前、ますます休む暇がなくなるぞ」
「今でもそんなにないけどな」
「なら大差ない」
湊は少し笑った。
師匠が一匹と一本。どちらも容赦がない。
シロが膝へ頭を乗せてきた。銀色の毛が、疲れた脚に温かい。
湊は空いた手で、その頭をゆっくり撫でた。
膝の上では、無銘がもう何も言わず、静かな温もりだけを残していた。




