影を纏う者
翌朝から、湊は歩きながら《影魔法》を試した。
日が高くなると影は短くなる。それでも輪郭ははっきりしていた。木の影、岩の影、道端の草が落とす細い影。進む先を目で確かめながら、一つずつ渡っていく。
最初は三歩ほどしか届かなかった。何度か繰り返すうちに五歩へ伸び、昼を過ぎる頃には十歩ほど先の影から出られるようになった。
「距離を伸ばすより、出入りを速くした方がいいな」
肩の上からクロが言う。
「戦いで使うなら、遠くへ飛ぶより近い影を細かく繋いだ方が扱いやすい。行き先を見失う危険も少ない」
「やってみる」
三歩先へ沈み、すぐに浮く。次の影を見つけ、また沈む。初めは一度立ち止まる必要があったが、繰り返すうちに歩調を崩さず渡れるようになってきた。
夕方には、歩いていた湊の姿が一瞬だけ消え、数歩先へ現れるところまで動きが繋がった。
「今度は《認識阻害》も重ねてみろ」
クロに言われ、湊は頷いた。
周囲の認識から滑り落ちる感覚を保ったまま影へ沈む。数歩先から出ても、そのまま《認識阻害》を切らない。
シロがきょろきょろと周囲を見回したあと、鼻をひくつかせた。少し迷ってから、湊がいる方へ顔を向ける。
「匂いでは分かるみたいだな」
「ああ。《音操》で足音は消せるけど、匂いは残る」
「なら、それは覚えておけ。目と耳だけ消して安心するなよ」
湊は頷き、もう一度影へ沈んだ。
*
五日目の夜は、攻撃に使う影を試した。
焚き火の前で足元の影を伸ばす。昨夜より動かしやすくなっていたが、黒い形を硬いまま保とうとすると、すぐに額へ汗が滲んだ。十秒ほどで集中が切れ、影が足元へ戻る。
「伸ばしている間まで固める必要はないだろう」
クロが炎越しに影を眺める。
「当たる瞬間だけ実体にした方がいい」
湊は影を柔らかいまま地面へ這わせた。五歩ほど先の石へ触れる。その瞬間だけ、先端へ意識を集める。
影が硬くなり、石の脇の土を抉った。
「……こっちの方が楽だ」
「だろうな。あとは動く相手に当てられるかだ」
その答えは、翌日に出た。
*
六日目。街道は深い森へ入った。
左右から木々が迫り、木漏れ日が足元へ複雑な影を落としている。歩くには涼しい場所だったが、しばらく進んだところで湊は足を止めた。
音が少ない。
《音操》で周囲を拾う。風が葉を擦る音はある。枝も鳴っている。
鳥がいない。
足元でシロが低く唸った。銀の毛が逆立っている。
「いるな」
クロの耳も前を向いた。
湊は短剣を抜き、《隠密》を使う。《マッピング》には、木々の間を動く匿名の光点が四つ映っていた。道の左右から、こちらを囲むように近づいてくる。
木の根元で、影が揺れた。
黒い狼のようなものが、地面の影から滑り出す。輪郭は煙のように揺らぎ、赤い目だけがはっきり見えた。
「影狼か」
クロが小さく息を吐く。
「影に潜る魔物だ。お前と似たことをするぞ」
四体の影狼が距離を詰めた。
最初の一体が木陰を蹴る。湊は足元へ沈み、三歩先の木の影から浮いた。そのまま背後へ回り、短剣を脇腹へ走らせる。
刃は通った。
だが、肉を切った感触が薄い。黒い体が大きく揺れただけで、影狼は倒れなかった。
「影にいる間は実体が薄い。出てきた瞬間を狙え」
二体目が横から跳んだ。
湊は身を捻って爪を避け、足元から影を伸ばす。黒い先端が影狼の影へ触れた瞬間だけ硬化させた。
影を縫い止められた影狼の四肢が止まる。揺らいでいた体の輪郭が濃くなった。
湊は踏み込み、首へ短剣を走らせた。今度は確かな手応えがあり、黒い体が崩れて影の染みのように消えていく。
残り三体が動いた。
二体が左右から同時に跳ぶ。湊は影へ沈み、離れた木陰から浮き上がった。
その瞬間、真横の影が膨らんだ。
さっき傷を負わせた一体が、同じように影を渡って追ってきていた。
湊は身を引いたが、爪が左腕を掠めた。熱い痛みが走り、皮膚に細い血の線が浮く。
「同じところを通れば、待たれるか」
一度、影の外へ出る。
日差しの当たる道へ立つと、三体は木陰からこちらを窺った。赤い目だけが暗がりに並ぶ。
湊は足元の影を見る。
三体は別々の木陰にいる。
なら、まとめて止める。
自分の影を三つに分けた。黒い筋が地面を走り、それぞれの木陰へ伸びていく。一本でも意識が逸れると形が崩れそうになり、こめかみの奥が鈍く痛んだ。
三本が届く。
同時に硬化させた。
三体の影が地面へ縫い止められ、黒い体が木陰から引き出される。湊の視界が狭くなった。拘束を保つだけで、ほかへ意識を向ける余裕がほとんどない。
その横を銀色が走った。
シロが一体目の喉へ食らいつく。振り向きざまに二体目の脚を噛み、地面へ引き倒した。
湊は残った一体へ踏み込んだ。短剣で首を断つと、すぐに影の拘束を解く。
二体目へシロがとどめを刺した。
最後の一体も、地面へ黒く滲むように消えていった。
森に静けさが戻る。
湊は息を吐き、左腕を見た。浅い傷だった。水で血を流していると、クロが肩からその手元を覗き込む。
「三体まとめては、少し欲張ったな」
「……周りを見る余裕がなかった」
「自分で分かっているならいい。一匹でいる時に同じことはするな」
湊は隣へ目を向けた。シロが得意そうに尾を振っている。口元には、黒い影の残滓が少しだけ付いていた。
「今日はシロがいたから試せた」
「なら、なおさらシロに礼を言っておけ」
湊はしゃがみ、銀色の頭を撫でた。
「助かった」
——うん。しろ、つよい。
「知ってる」
尾がさらに大きく振られた。
クロがその様子を見て、鼻を鳴らす。
「同じく影を渡る相手には、出る場所を読まれる。複数を縛れば、その分お前の意識も持っていかれる。今日分かったのは、その二つで十分だ」
「ああ」
湊は腕へ布を巻き、立ち上がった。
*
森を抜ける頃には、夕日が草原を赤く染めていた。
三人分の影が、長く道へ伸びている。
湊は歩きながら、自分の影を一度見た。朝までは移動の足場にしか見えなかったものが、今は距離を詰める道にも、相手を止める手にも見える。
「明日も少しやる」
「そのくらいでいい。慣れるのは早い方だ」
湊が肩のクロを見る。
「そうか?」
「ああ。だからこそ、出来るようになった時ほど慎重になれ」
「分かった」
クロは満足したように目を細め、肩の上で欠伸をした。
足元ではシロが軽い足取りでついてくる。
三つの影が、夕暮れの道を同じ方向へ揺れていた。




