影の中
草原の道を三日歩いた。
バルムの街が見えなくなってからは、人の気配もほとんどない。時折、遠くを荷馬車が横切るだけで、昼は歩き、夜は街道を外れた木陰で眠った。シロが足元に丸くなり、クロが腹の上で眠る。もう慣れた旅の形だった。
獣人国にいる間も、右手の紋様はほぼ毎日光っていた。ただ、事件に追われて引かなかった日も多い。引いたところで従魔肉や回復薬などの消耗品が続き、目立ったものは出ていなかった。
四日目の夜、街道から少し外れた丘で野営した。大きな岩が風を遮り、焚き火の向こうでは草が低く波打っている。
干し肉を齧り、シロには従魔肉を渡した。クロは湊の膝の上で丸くなっている。
食事を終え、マジックバッグの中身を整理していると、右手の甲が淡く光った。
「……引くか」
意識を紋様へ向ける。
光が弾けた。
手の中には何もない。
代わりに、体の奥へ何かが流れ込んできた。熱くも冷たくもない。ただ重い。黒い水が体の芯へ注がれ、骨の隙間を影が這い上がってくるような感覚に、湊は息を止めた。
声でも文字でもない意味が、頭へ落ちてくる。
——影を渡れ。影を操れ。影を縛れ。
湊は右手を見た。焚き火の揺れる光が、自分と岩とシロの影を地面へ落としている。
「……能力型か」
膝の上でクロが目を開けた。
「何が来た」
「影の魔法。影から影へ移れる。影を攻撃に使える。相手の影を刺せば、動きも止められる」
クロは消えていく紋様の光を見た。
「影魔法か。またずいぶんと、お前向きだな」
「そうか?」
「隠密に音操、認識阻害。それに影魔法だ。ますます見つけにくくなったな」
「便利ならいいだろ」
「まあな」
湊は立ち上がった。
まず、影を渡ってみる。
足元の影と、五歩ほど先に落ちた岩の影を見比べる。行き先を確かめてから、自分の影へ意識を沈めた。
体が地面へ落ちた。
いや、沈んだ。
視界も音も消える。冷たさはない。ただ世界との境目が薄くなり、自分の輪郭まで曖昧になったような感覚がある。
外は見えない。
そこで《マッピング》へ意識を重ねる。焚き火。シロ。クロ。さっき見ておいた岩。位置と形だけが頭の中に浮かんだ。
岩の影を意識する。
体が引かれた。
次の瞬間、湊は五歩先の岩陰から立ち上がっていた。足音もなく、移動した感覚さえ一瞬だった。
シロが首を傾げ、鼻をひくつかせながら駆け寄ってくる。
クロは目を細めた。
「速いな。だが、影がなければ使えんのだろう」
「ああ。影のない場所には出られない」
次は、影そのものを動かした。
自分の足元から伸びる黒を意識すると、焚き火とは無関係に影が地面を這い始める。先端を細く尖らせ、土へ突き立てた。
鈍い音とともに、地面が抉れた。
「……実体になるのか」
「そうみたいだ」
クロの言う通り、扱いは簡単ではなかった。少し伸ばしただけで額に汗が滲み、意識が逸れると影はすぐ足元へ戻る。
最後に拘束を試す。
「シロ。少し動くな」
——うん?
シロは尾を振ったまま湊を見上げた。
自分の影を伸ばし、焚き火に照らされたシロの影へ重ねる。その影を、細い針のように地面へ刺した。
シロの体が止まった。
前脚も、尾も動かない。首だけを動かし、不思議そうな青い目が湊を見る。
「……効いた」
すぐに影を抜くと、シロはぶるりと体を震わせた。
——みなと。なにしたの。
「悪い。試した」
頭を撫でると、少し遅れて尾が揺れた。
クロが湊の肩へ飛び乗った。
「使えはするな。だが、影渡りはまだ近距離だ。攻撃も思うようには動いていない。拘束も、相手が変われば同じように効くとは限らん」
「ああ」
「道中で慣らしていけばいい。急いで失敗するよりは、その方がましだ」
湊は焚き火の前へ座り直した。
炎が揺れるたび、自分たちの影も長くなったり縮んだりする。
さっきまで、ただそこにあるだけだった黒い形が、今は別のものに見えた。
道にもなる。
刃にもなる。
相手を止めることもできる。
使いこなせれば強い。
けれど、手に入れただけではまだ足りない。隠密も音操も、最初から思い通りに使えたわけではなかった。
「寝ろ。明日は長い」
クロが腹の上で丸くなる。シロも足元へ体を寄せ、銀の毛の温かさが靴越しに伝わった。
湊は目を閉じた。
影へ沈んだ時の、世界から音だけが消えたような感覚が、まだ体の奥に残っていた。




