表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
32/64

黒猫と銀狼

─クロ視点─


クロは走っていた。


黒い小さな体で、バルムの大通りを駆ける。人の足の間を抜け、荷車を避け、石畳を蹴った。


城は遠くない。


それでも、今の体では一歩が短い。


ようやく城門が見えた。槍を持った虎族と鹿族の衛兵が、左右に立っている。


クロは速度を落とさず、その足元を抜けようとした。


「おい、猫——」


虎族の衛兵が足を動かす。


避けきれず、脛へぶつかった。


「こら。城内に野良猫は入れん」


クロは起き上がり、衛兵を見上げた。


金色の目が細くなる。


だが、ここで時間を使っている暇はない。


踵を返し、城壁沿いを走った。


裏手へ回る。


石壁の継ぎ目へ爪をかけ、小さな体を持ち上げる。今の体は軽い。わずかな凹凸を足場にして登り、城壁の上へ出た。


見張りが反対を向いた隙に、内側へ飛び降りる。


中庭へ着地した。


城の構造は知らない。


それでも、ラグナの気配は覚えている。何度か近くで会った獅子の獣人。その存在を探しながら、回廊の奥へ進んだ。


大きな扉の前に、近衛兵が二人立っている。


正面からは入れない。


柱の影から様子を窺うと、扉の下に細い隙間があった。


クロは体を伏せ、その下へ滑り込んだ。



そこは謁見の間ではなかった。


私室らしい。


ラグナが窓際の椅子に座り、机いっぱいに広げた書類を渋い顔で読んでいた。


クロが床を歩く。


爪の音に、ラグナが顔を上げた。


「……猫?」


クロはその足元まで進み、金色の目で見上げる。


ラグナが眉を寄せた。


「お前——ミナトの猫か」


クロは一度、はっきり頷いた。


ラグナの顔が変わる。


椅子から立ち上がった。


「ミナトに何かあったか」


もう一度頷く。


クロは踵を返し、扉へ向かって数歩進んだ。


振り返る。


「——案内するってことか」


頷いた。


それだけで十分だった。


ラグナは机の書類を放り出し、扉を開ける。


近衛兵が驚いて振り返った。


「陛下、どちらへ——」


「出る」


「しかし——」


ラグナはもう走り出していた。


クロが前を走る。


黒い小さな体と、金色のたてがみが城の回廊を駆け抜けた。


城門を飛び出したところで、ラグナが声を飛ばす。


「ギルドか」


クロは走りながら頷いた。


ラグナの琥珀色の目から、笑いが消えた。





─シロ視点─


シロは困っていた。


カイルを見つけるのは簡単だった。


水路沿いの見回りをしている。あの匂いは覚えている。隣には、大きな盾を持った男もいた。


問題は、その先だった。


「きゃん!」


カイルが足元を見る。


「おう、シロ。どうした。湊は?」


「きゃん! きゃん!」


「腹減ったのか?」


違う。


シロはカイルの裾を咥え、引いた。


「おいおい。破れるって」


カイルは動かない。


もう一度引く。


やっぱり動かない。


シロは裾を離した。


少し考える。


それから、体を元の大きさへ戻した。


銀の毛が広がり、四肢が太くなる。狭い水路沿いの道が、急に窮屈になった。


カイルが一歩下がる。


「うおっ……!」


盾の男も目を見開いた。


シロはカイルの前で伏せた。


背中を見せる。


振り返る。


「……乗れってことか?」


尻尾を振った。


カイルの顔から笑いが消えた。


「湊に何かあったんだな」


シロは強く頷いた。


「分かった」


カイルが背へ乗る。


「頼む。——でも少し加減して」


シロは走り出した。


「速っ……! ちょ、待て!」


知らない。


急げと言われた。


風が銀の毛を流れる。道を歩いていた獣人たちが驚いて左右へ避けた。


後ろから盾の男の声が飛ぶ。


「カイル! どこ行く!」


「たぶん湊だ! みんな呼べ!」


角を曲がったところで、残りの三人がこちらを見て固まった。


カイルが背中から叫ぶ。


「説明は後! ついてきてくれ!」


三人も走り出した。


シロはさらに地面を蹴った。


「だから速いって!」


カイルの声は、すぐ後ろへ流れていった。





ギルド裏の通りで、黒い影と銀の巨体が鉢合わせた。


クロだった。


その後ろにはラグナがいる。


シロが止まり、カイルも背中から滑り降りた。


「……死ぬかと思った」


「お前、冒険者か」


ラグナがカイルを見る。


カイルの顔が引きつった。


「へ、陛下!?」


「驚くのは後だ」


ラグナの目がギルドへ向く。


足元では、クロが裏口を見ていた。


「中に湊がいるのか」


クロが頷く。


カイルも剣へ手をかけた。


「湊が?」


クロがシロを見る。


——湊は先に入った。


——みなと、だいじょうぶ?


——大丈夫だ。だが、急ぐぞ。


——うん。


シロは小さな姿へ戻った。


ラグナが正面へ回る。


「俺は表から入る」


「俺たちも行きます」


カイルたちが続く。


クロとシロは顔を見合わせ、そのまま裏口へ走った。





─湊視点─


湊はギルドの裏口から中へ入った。


《隠密》で気配を沈め、《音操》で足音を消す。


ヨークの緑の印は、一階を通り抜けたあと、下へ移動していた。


地下。


物置の奥に、細い階段がある。


少し間を空けて追う。


湿った石の匂いが強くなった。地上の酒場の音も、ここまではほとんど届かない。


階段の先には、狭い通路が伸びていた。


《マッピング》には、ヨークの印と、見覚えのない光点が一つある。


扉の向こうだった。


湊は壁へ背を寄せた。


声が聞こえる。


「遅かったな」


知らない男の声だった。


「街が少し騒がしくてね」


ヨークの声は、いつもと変わらない。


何かを床へ置くような、小さな音がした。


その瞬間。


《マッピング》の中に、光が一つ戻った。


湊の息が止まる。


ルゥ。


消えていた名前が、ヨークのすぐそばに浮かんでいる。


「今日の分だ。子供一人。狼族」


「子供か。値は落ちるな」


「魔力の質は悪くない。若い分、純度が高い」


衣擦れの音。


続いて、小さな呻き声がした。


「……にい、ちゃ……」


ルゥだった。


湊の指が拳へ沈む。


「おい、起きてるぞ」


「薬が残っている。しばらくまともには動けない」


ヨークの声は、最後まで穏やかだった。


クロとの約束が頭を掠めた。


皆が来るまで動かない。


だが、もう一度、扉の向こうでルゥが呻いた。


湊は息を吐いた。


扉を蹴り開けた。





地下倉庫の中に、三人いた。


ヨーク。


フードを被った人間の男。


そして、床に転がされたルゥ。


灰色の小さな体には縄が巻かれている。目は虚ろだった。


それでも湊を見た瞬間、その目が大きく開いた。


「にい……ちゃん……!」


湊は一歩、前へ出た。


ヨークが振り返る。


穏やかな顔が、初めてわずかに崩れた。


「……ミナト君。どうしてここに」


「追ってきた」


湊はヨークから目を離さない。


「お前とルゥの印が重なった直後、ルゥが消えた。そのままお前を追ってここまで来た」


ヨークの目が細くなる。


「……印?」


「今、ここでルゥの印が戻った」


短い沈黙。


ヨークの視線が、わずかに湊の右手へ落ちた。


「そうか。そういう能力か」


声から、柔らかさが消えた。


「厄介だな」


《マッピング》の中で、ヨークの印はまだ緑だった。


フードの男が腰の短剣へ手を伸ばす。


湊は先に苦無を抜いた。


投げる。


金属音が弾けた。


苦無が男の手首を掠め、抜きかけた短剣が石床へ転がる。


「ぐっ……!」


男が手首を押さえて後ずさった。


ヨークは動かなかった。


その時。


頭上で轟音が響いた。


正面扉が、何かに蹴り破られる音だった。


「ギルドマスター・ヨーク! 出てこい!」


ラグナの声が建物を震わせる。


フードの男の顔から血の気が引いた。


「獣王……!? なんで——」


階段から複数の足音が近づく。


湊はルゥの前へ立ち、短剣を抜いた。


「逃がさない」


ヨークが湊を見た。


笑みのない顔で、小さく息を吐く。


「……会いに行ったのは、失敗だったか」


地下の扉が開いた。


ラグナが入ってくる。


その後ろにカイルたち。


足元から、黒と銀の小さな影も駆け込んできた。


「にいちゃん……!」


ルゥの声が震える。


湊はすぐに膝をつき、縄を切った。


小さな体を抱き上げる。


灰色の毛が、胸へ押しつけられた。


「にいちゃん……にいちゃん……」


「大丈夫だ」


背中へ手を回す。


「もう大丈夫だ」


ルゥの肩が震えた。


ラグナは、その横を通り過ぎた。


ヨークの前で止まる。


琥珀色の目が、人間の男を見下ろした。


「——お前が内通者か」


ヨークは答えなかった。


ラグナの声が低く落ちる。


「俺の国で、俺の民を売ったな」


地下倉庫に、ルゥの泣き声だけが残った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ