黒猫と銀狼
─クロ視点─
クロは走っていた。
黒い小さな体で、バルムの大通りを駆ける。人の足の間を抜け、荷車を避け、石畳を蹴った。
城は遠くない。
それでも、今の体では一歩が短い。
ようやく城門が見えた。槍を持った虎族と鹿族の衛兵が、左右に立っている。
クロは速度を落とさず、その足元を抜けようとした。
「おい、猫——」
虎族の衛兵が足を動かす。
避けきれず、脛へぶつかった。
「こら。城内に野良猫は入れん」
クロは起き上がり、衛兵を見上げた。
金色の目が細くなる。
だが、ここで時間を使っている暇はない。
踵を返し、城壁沿いを走った。
裏手へ回る。
石壁の継ぎ目へ爪をかけ、小さな体を持ち上げる。今の体は軽い。わずかな凹凸を足場にして登り、城壁の上へ出た。
見張りが反対を向いた隙に、内側へ飛び降りる。
中庭へ着地した。
城の構造は知らない。
それでも、ラグナの気配は覚えている。何度か近くで会った獅子の獣人。その存在を探しながら、回廊の奥へ進んだ。
大きな扉の前に、近衛兵が二人立っている。
正面からは入れない。
柱の影から様子を窺うと、扉の下に細い隙間があった。
クロは体を伏せ、その下へ滑り込んだ。
*
そこは謁見の間ではなかった。
私室らしい。
ラグナが窓際の椅子に座り、机いっぱいに広げた書類を渋い顔で読んでいた。
クロが床を歩く。
爪の音に、ラグナが顔を上げた。
「……猫?」
クロはその足元まで進み、金色の目で見上げる。
ラグナが眉を寄せた。
「お前——ミナトの猫か」
クロは一度、はっきり頷いた。
ラグナの顔が変わる。
椅子から立ち上がった。
「ミナトに何かあったか」
もう一度頷く。
クロは踵を返し、扉へ向かって数歩進んだ。
振り返る。
「——案内するってことか」
頷いた。
それだけで十分だった。
ラグナは机の書類を放り出し、扉を開ける。
近衛兵が驚いて振り返った。
「陛下、どちらへ——」
「出る」
「しかし——」
ラグナはもう走り出していた。
クロが前を走る。
黒い小さな体と、金色のたてがみが城の回廊を駆け抜けた。
城門を飛び出したところで、ラグナが声を飛ばす。
「ギルドか」
クロは走りながら頷いた。
ラグナの琥珀色の目から、笑いが消えた。
*
─シロ視点─
シロは困っていた。
カイルを見つけるのは簡単だった。
水路沿いの見回りをしている。あの匂いは覚えている。隣には、大きな盾を持った男もいた。
問題は、その先だった。
「きゃん!」
カイルが足元を見る。
「おう、シロ。どうした。湊は?」
「きゃん! きゃん!」
「腹減ったのか?」
違う。
シロはカイルの裾を咥え、引いた。
「おいおい。破れるって」
カイルは動かない。
もう一度引く。
やっぱり動かない。
シロは裾を離した。
少し考える。
それから、体を元の大きさへ戻した。
銀の毛が広がり、四肢が太くなる。狭い水路沿いの道が、急に窮屈になった。
カイルが一歩下がる。
「うおっ……!」
盾の男も目を見開いた。
シロはカイルの前で伏せた。
背中を見せる。
振り返る。
「……乗れってことか?」
尻尾を振った。
カイルの顔から笑いが消えた。
「湊に何かあったんだな」
シロは強く頷いた。
「分かった」
カイルが背へ乗る。
「頼む。——でも少し加減して」
シロは走り出した。
「速っ……! ちょ、待て!」
知らない。
急げと言われた。
風が銀の毛を流れる。道を歩いていた獣人たちが驚いて左右へ避けた。
後ろから盾の男の声が飛ぶ。
「カイル! どこ行く!」
「たぶん湊だ! みんな呼べ!」
角を曲がったところで、残りの三人がこちらを見て固まった。
カイルが背中から叫ぶ。
「説明は後! ついてきてくれ!」
三人も走り出した。
シロはさらに地面を蹴った。
「だから速いって!」
カイルの声は、すぐ後ろへ流れていった。
*
ギルド裏の通りで、黒い影と銀の巨体が鉢合わせた。
クロだった。
その後ろにはラグナがいる。
シロが止まり、カイルも背中から滑り降りた。
「……死ぬかと思った」
「お前、冒険者か」
ラグナがカイルを見る。
カイルの顔が引きつった。
「へ、陛下!?」
「驚くのは後だ」
ラグナの目がギルドへ向く。
足元では、クロが裏口を見ていた。
「中に湊がいるのか」
クロが頷く。
カイルも剣へ手をかけた。
「湊が?」
クロがシロを見る。
——湊は先に入った。
——みなと、だいじょうぶ?
——大丈夫だ。だが、急ぐぞ。
——うん。
シロは小さな姿へ戻った。
ラグナが正面へ回る。
「俺は表から入る」
「俺たちも行きます」
カイルたちが続く。
クロとシロは顔を見合わせ、そのまま裏口へ走った。
*
─湊視点─
湊はギルドの裏口から中へ入った。
《隠密》で気配を沈め、《音操》で足音を消す。
ヨークの緑の印は、一階を通り抜けたあと、下へ移動していた。
地下。
物置の奥に、細い階段がある。
少し間を空けて追う。
湿った石の匂いが強くなった。地上の酒場の音も、ここまではほとんど届かない。
階段の先には、狭い通路が伸びていた。
《マッピング》には、ヨークの印と、見覚えのない光点が一つある。
扉の向こうだった。
湊は壁へ背を寄せた。
声が聞こえる。
「遅かったな」
知らない男の声だった。
「街が少し騒がしくてね」
ヨークの声は、いつもと変わらない。
何かを床へ置くような、小さな音がした。
その瞬間。
《マッピング》の中に、光が一つ戻った。
湊の息が止まる。
ルゥ。
消えていた名前が、ヨークのすぐそばに浮かんでいる。
「今日の分だ。子供一人。狼族」
「子供か。値は落ちるな」
「魔力の質は悪くない。若い分、純度が高い」
衣擦れの音。
続いて、小さな呻き声がした。
「……にい、ちゃ……」
ルゥだった。
湊の指が拳へ沈む。
「おい、起きてるぞ」
「薬が残っている。しばらくまともには動けない」
ヨークの声は、最後まで穏やかだった。
クロとの約束が頭を掠めた。
皆が来るまで動かない。
だが、もう一度、扉の向こうでルゥが呻いた。
湊は息を吐いた。
扉を蹴り開けた。
*
地下倉庫の中に、三人いた。
ヨーク。
フードを被った人間の男。
そして、床に転がされたルゥ。
灰色の小さな体には縄が巻かれている。目は虚ろだった。
それでも湊を見た瞬間、その目が大きく開いた。
「にい……ちゃん……!」
湊は一歩、前へ出た。
ヨークが振り返る。
穏やかな顔が、初めてわずかに崩れた。
「……ミナト君。どうしてここに」
「追ってきた」
湊はヨークから目を離さない。
「お前とルゥの印が重なった直後、ルゥが消えた。そのままお前を追ってここまで来た」
ヨークの目が細くなる。
「……印?」
「今、ここでルゥの印が戻った」
短い沈黙。
ヨークの視線が、わずかに湊の右手へ落ちた。
「そうか。そういう能力か」
声から、柔らかさが消えた。
「厄介だな」
《マッピング》の中で、ヨークの印はまだ緑だった。
フードの男が腰の短剣へ手を伸ばす。
湊は先に苦無を抜いた。
投げる。
金属音が弾けた。
苦無が男の手首を掠め、抜きかけた短剣が石床へ転がる。
「ぐっ……!」
男が手首を押さえて後ずさった。
ヨークは動かなかった。
その時。
頭上で轟音が響いた。
正面扉が、何かに蹴り破られる音だった。
「ギルドマスター・ヨーク! 出てこい!」
ラグナの声が建物を震わせる。
フードの男の顔から血の気が引いた。
「獣王……!? なんで——」
階段から複数の足音が近づく。
湊はルゥの前へ立ち、短剣を抜いた。
「逃がさない」
ヨークが湊を見た。
笑みのない顔で、小さく息を吐く。
「……会いに行ったのは、失敗だったか」
地下の扉が開いた。
ラグナが入ってくる。
その後ろにカイルたち。
足元から、黒と銀の小さな影も駆け込んできた。
「にいちゃん……!」
ルゥの声が震える。
湊はすぐに膝をつき、縄を切った。
小さな体を抱き上げる。
灰色の毛が、胸へ押しつけられた。
「にいちゃん……にいちゃん……」
「大丈夫だ」
背中へ手を回す。
「もう大丈夫だ」
ルゥの肩が震えた。
ラグナは、その横を通り過ぎた。
ヨークの前で止まる。
琥珀色の目が、人間の男を見下ろした。
「——お前が内通者か」
ヨークは答えなかった。
ラグナの声が低く落ちる。
「俺の国で、俺の民を売ったな」
地下倉庫に、ルゥの泣き声だけが残った。




