穏やかな壁
翌朝、湊は冒険者ギルドへ向かった。
依頼板の前では止まらず、受付へ進む。
昨日までと同じ兎族の女性が、書類から顔を上げた。
「おはよう。今日は依頼?」
「いえ。ギルドマスターに会いたいです」
長い耳がぴくりと動く。
「ギルドマスターに? どのような御用件でしょうか」
「行方不明者の捜索依頼について、直接お話ししたいです」
「その件でしたら、以前お話しした通り、今のところギルドとしては——」
「分かってます」
湊は一度言葉を切った。
「受付では判断できないことだと思うので。ギルドマスター本人に伺いたいです」
受付嬢は湊の顔を見た。
やがて、小さく頷く。
「……確認してきます。少し待っていて」
奥へ消え、しばらくして戻ってきた。
「お会いになるそうです。二階の執務室へどうぞ」
「ありがとうございます」
*
階段を上がる。
一階の酒場から聞こえていた笑い声や食器の音が、二階へ来ると急に遠くなった。
廊下の突き当たりに、木の扉がある。
湊がノックすると、柔らかな声が返った。
「どうぞ」
扉を開けた。
執務室は整然としていた。机の上には書類がきれいに分けて積まれ、壁にはバルム周辺の地図が掛けられている。窓から入る光の中で、紙と乾いたインクの匂いがした。
机の向こうに、一人の男が座っていた。
四十代半ばほど。短く整えた茶髪。細い目に、柔らかな笑み。革鎧ではなく、仕立てのいい麻の服を着ている。
人間だった。
「初めまして。バルム支部のギルドマスター、ヨークです」
男は立ち上がった。
「君が、銀狼を連れているという冒険者かな」
「湊です」
「ミナト君。どうぞ、座って」
声も表情も穏やかだった。
湊は椅子へ腰を下ろす。
肩の上で、クロの耳がわずかに動いた。
《マッピング》を意識する。
ヨークの位置に、緑の印があった。
今、湊へ敵意を向けてはいない。
分かるのは、それだけだ。
「それで、捜索依頼の件だったね」
「あの行方不明者について、ギルドでもう少し動けませんか」
ヨークはすぐには答えなかった。
両手を机の上で組む。
「事情は把握しているよ。ここ半年で十人以上。ほとんどがスラムの住人だ」
「捜索依頼も残ったままです」
「そうだね」
ヨークの声は変わらない。
「私も心を痛めている。ただ、冒険者ギルドは依頼と報酬で動く組織だ。報酬額は基本的に依頼主の資力に左右される。スラムの人々が出せる額には、どうしても限界がある」
「ギルド側で上乗せはできませんか」
「制度上は可能だよ」
ヨークは否定しなかった。
「ただ、今は北の街道で魔物の出没が増えている。商隊護衛や討伐依頼も滞り始めていてね。限られた予算と人員を、そちらへ回している」
机の端に置かれた書類へ手を伸ばす。
何枚かを湊の方へ向けた。
街道警備。
護衛。
魔物討伐。
紙には受付印が並んでいる。
「こちらを放置すれば、街へ物資が入らなくなる。そうなれば、スラムの人々も困る」
筋は通っていた。
湊は紙を見た。
嘘かどうかは分からない。
少なくとも、目の前に出されたものだけなら、ヨークの言う通りだった。
「……分かりました」
立ち上がる。
「力になれず、すまない」
ヨークも立った。
「君がスラムで炊き出しを手伝っていることも、自主的に捜索を続けていることも聞いているよ。立派なことだ」
机を回り込み、手を差し出す。
「何か進展があれば、いつでも報告に来てほしい。ギルドとしても、できる範囲では協力する」
湊はその手を握った。
乾いた手だった。
握る力まで、強すぎず弱すぎない。
「お願いします」
「もちろん」
ヨークは穏やかに笑った。
*
執務室を出た。
扉が閉じる。
廊下を歩き始めてから、クロが小さく口を開いた。
「……どう思う」
「分からない」
「ふむ」
階段へ向かう。
「何一つ、おかしなことは言っていなかったな」
「ああ」
必要な仕事がある。
使える金にも人にも限りがある。
だから優先順位をつける。
どれも、間違ってはいない。
「でも」
湊は足を止めなかった。
「何も変わらない」
クロは返事をしなかった。
《マッピング》には、二階の執務室に留まるヨークの緑の印が見える。
敵意はない。
それ以上は分からない。
湊は地図を閉じた。
*
一階の酒場で、カイルを見つけた。
朝から麦酒を飲んでいる。
「どうだった」
「断られた。丁寧に」
カイルが苦笑した。
「だろうな」
湊は向かいの椅子へ座った。
「前からああなのか」
「ヨークか?」
「ああ」
カイルは麦酒の杯を置いた。
「いや。あの人が来たのは半年くらい前だ」
湊の目が上がる。
「前のギルドマスターが急に異動になってな。引き継ぎもろくにないまま、本部から送られてきた」
「前のギルドマスターは?」
「熊族の婆さんだった。口は悪いけど、面倒見のいい人でさ」
カイルの声が少し落ちる。
「中央の本部に呼ばれたって聞いた。それっきり戻ってない」
「急に?」
「ああ」
酒場の奥で、椅子を引く音がした。
誰かが笑う。
その合間に、カイルの声が続く。
「人間が獣人国の支部長をやってても、制度上は別に問題ない。冒険者ギルドは国とは別の組織だからな」
「ヨークは、前はどこにいたんだ」
「知らない」
「カイルも?」
「ああ。聞いたことはあるけど、当たり障りのない返事しか返ってこなかった」
カイルは肩をすくめた。
「仕事はできるし、別に嫌われてもいない。ギルドマスターが冒険者一人一人に身の上話する必要もないしな」
「そうか」
湊はそれ以上聞かなかった。
半年。
行方不明者が増え始めた頃。
前のギルドマスターがいなくなった頃。
ヨークが来た頃。
同じ時期だった。
肩の上で、クロの金色の目が細くなる。
「……覚えておけ」
「ああ」
カイルが首を傾げた。
「何か言ったか?」
「いや」
湊は立ち上がった。
「ありがとう、カイル」
「おう。何かあったら言えよ」
*
ギルドを出ると、日差しが目に刺さった。
通りはいつもと変わらない。
荷車が軋み、屋台から肉の焼ける匂いが流れてくる。獣人たちの笑い声が、乾いた風に混じっていた。
湊はスラムの方へ歩き出す。
肩の上で、クロが一度だけ後ろを振り返った。
湊は振り返らなかった。




