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穏やかな壁

翌朝、湊は冒険者ギルドへ向かった。


依頼板の前では止まらず、受付へ進む。


昨日までと同じ兎族の女性が、書類から顔を上げた。


「おはよう。今日は依頼?」


「いえ。ギルドマスターに会いたいです」


長い耳がぴくりと動く。


「ギルドマスターに? どのような御用件でしょうか」


「行方不明者の捜索依頼について、直接お話ししたいです」


「その件でしたら、以前お話しした通り、今のところギルドとしては——」


「分かってます」


湊は一度言葉を切った。


「受付では判断できないことだと思うので。ギルドマスター本人に伺いたいです」


受付嬢は湊の顔を見た。


やがて、小さく頷く。


「……確認してきます。少し待っていて」


奥へ消え、しばらくして戻ってきた。


「お会いになるそうです。二階の執務室へどうぞ」


「ありがとうございます」



階段を上がる。


一階の酒場から聞こえていた笑い声や食器の音が、二階へ来ると急に遠くなった。


廊下の突き当たりに、木の扉がある。


湊がノックすると、柔らかな声が返った。


「どうぞ」


扉を開けた。


執務室は整然としていた。机の上には書類がきれいに分けて積まれ、壁にはバルム周辺の地図が掛けられている。窓から入る光の中で、紙と乾いたインクの匂いがした。


机の向こうに、一人の男が座っていた。


四十代半ばほど。短く整えた茶髪。細い目に、柔らかな笑み。革鎧ではなく、仕立てのいい麻の服を着ている。


人間だった。


「初めまして。バルム支部のギルドマスター、ヨークです」


男は立ち上がった。


「君が、銀狼を連れているという冒険者かな」


「湊です」


「ミナト君。どうぞ、座って」


声も表情も穏やかだった。


湊は椅子へ腰を下ろす。


肩の上で、クロの耳がわずかに動いた。


《マッピング》を意識する。


ヨークの位置に、緑の印があった。


今、湊へ敵意を向けてはいない。


分かるのは、それだけだ。


「それで、捜索依頼の件だったね」


「あの行方不明者について、ギルドでもう少し動けませんか」


ヨークはすぐには答えなかった。


両手を机の上で組む。


「事情は把握しているよ。ここ半年で十人以上。ほとんどがスラムの住人だ」


「捜索依頼も残ったままです」


「そうだね」


ヨークの声は変わらない。


「私も心を痛めている。ただ、冒険者ギルドは依頼と報酬で動く組織だ。報酬額は基本的に依頼主の資力に左右される。スラムの人々が出せる額には、どうしても限界がある」


「ギルド側で上乗せはできませんか」


「制度上は可能だよ」


ヨークは否定しなかった。


「ただ、今は北の街道で魔物の出没が増えている。商隊護衛や討伐依頼も滞り始めていてね。限られた予算と人員を、そちらへ回している」


机の端に置かれた書類へ手を伸ばす。


何枚かを湊の方へ向けた。


街道警備。


護衛。


魔物討伐。


紙には受付印が並んでいる。


「こちらを放置すれば、街へ物資が入らなくなる。そうなれば、スラムの人々も困る」


筋は通っていた。


湊は紙を見た。


嘘かどうかは分からない。


少なくとも、目の前に出されたものだけなら、ヨークの言う通りだった。


「……分かりました」


立ち上がる。


「力になれず、すまない」


ヨークも立った。


「君がスラムで炊き出しを手伝っていることも、自主的に捜索を続けていることも聞いているよ。立派なことだ」


机を回り込み、手を差し出す。


「何か進展があれば、いつでも報告に来てほしい。ギルドとしても、できる範囲では協力する」


湊はその手を握った。


乾いた手だった。


握る力まで、強すぎず弱すぎない。


「お願いします」


「もちろん」


ヨークは穏やかに笑った。



執務室を出た。


扉が閉じる。


廊下を歩き始めてから、クロが小さく口を開いた。


「……どう思う」


「分からない」


「ふむ」


階段へ向かう。


「何一つ、おかしなことは言っていなかったな」


「ああ」


必要な仕事がある。


使える金にも人にも限りがある。


だから優先順位をつける。


どれも、間違ってはいない。


「でも」


湊は足を止めなかった。


「何も変わらない」


クロは返事をしなかった。


《マッピング》には、二階の執務室に留まるヨークの緑の印が見える。


敵意はない。


それ以上は分からない。


湊は地図を閉じた。



一階の酒場で、カイルを見つけた。


朝から麦酒を飲んでいる。


「どうだった」


「断られた。丁寧に」


カイルが苦笑した。


「だろうな」


湊は向かいの椅子へ座った。


「前からああなのか」


「ヨークか?」


「ああ」


カイルは麦酒の杯を置いた。


「いや。あの人が来たのは半年くらい前だ」


湊の目が上がる。


「前のギルドマスターが急に異動になってな。引き継ぎもろくにないまま、本部から送られてきた」


「前のギルドマスターは?」


「熊族の婆さんだった。口は悪いけど、面倒見のいい人でさ」


カイルの声が少し落ちる。


「中央の本部に呼ばれたって聞いた。それっきり戻ってない」


「急に?」


「ああ」


酒場の奥で、椅子を引く音がした。


誰かが笑う。


その合間に、カイルの声が続く。


「人間が獣人国の支部長をやってても、制度上は別に問題ない。冒険者ギルドは国とは別の組織だからな」


「ヨークは、前はどこにいたんだ」


「知らない」


「カイルも?」


「ああ。聞いたことはあるけど、当たり障りのない返事しか返ってこなかった」


カイルは肩をすくめた。


「仕事はできるし、別に嫌われてもいない。ギルドマスターが冒険者一人一人に身の上話する必要もないしな」


「そうか」


湊はそれ以上聞かなかった。


半年。


行方不明者が増え始めた頃。


前のギルドマスターがいなくなった頃。


ヨークが来た頃。


同じ時期だった。


肩の上で、クロの金色の目が細くなる。


「……覚えておけ」


「ああ」


カイルが首を傾げた。


「何か言ったか?」


「いや」


湊は立ち上がった。


「ありがとう、カイル」


「おう。何かあったら言えよ」



ギルドを出ると、日差しが目に刺さった。


通りはいつもと変わらない。


荷車が軋み、屋台から肉の焼ける匂いが流れてくる。獣人たちの笑い声が、乾いた風に混じっていた。


湊はスラムの方へ歩き出す。


肩の上で、クロが一度だけ後ろを振り返った。


湊は振り返らなかった。


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