獣王の耳打ち
翌日、ラグナは本当に来た。
昼過ぎ。昨日と同じ革の上着一枚で、スラムの広場へ歩いてくる。王冠も紋章もない。
その後ろを、サダムと三人の近衛兵が追っていた。
「陛下! せめて馬車を——」
「うるせえ。足があるのに、なんで馬車に乗るんだ」
広場の獣人たちは、昨日ほど固まらなかった。子供たちが遠巻きに見守る中、ルゥだけが目を輝かせて駆け寄る。
「獣王さま! また来た!」
「おう、小僧。元気だな」
ラグナの大きな手が、灰色の頭を掴むように撫でた。ルゥの体がぐらぐら揺れる。
湊は炊き出しの鍋の前で、柄杓を持ったままラグナを見た。
「来たのか」
「来ると言っただろう。——飯、食えるか」
「食える。並べ」
ラグナが目を丸くした。
次の瞬間、腹の底から笑う。
「はっはっは! 王に並べと言う奴は初めてだ!」
サダムが額を押さえ、近衛兵たちが顔を見合わせた。
それでもラグナは本当に列の最後尾へ並んだ。前にいた兎の青年が振り返り、そのまま固まる。
「へ、陛下……?」
「気にするな。順番だ」
やがて椀を受け取ると、ラグナは広場の端へ腰を下ろした。湊も隣に座る。
「美味いな、これ」
「セドルじいさんの味だ」
「あの山羊の爺さんか。昔から変わらんな」
湊は横を見る。
「知り合いなのか」
「ガキの頃、城を抜け出してここで遊んでた。あの爺さんに飯を食わせてもらったことがある」
ラグナは粥を啜った。
「あの頃は、もっと賑やかだった」
さっきまでの笑い声が、少しだけ低くなった。
*
食べ終えると、ラグナの目がシロへ向いた。
子犬ほどの姿で湊の足元に座り、銀の尻尾を揺らしている。
「昨日から気になってたんだが。おい、人間。こいつ、本当の姿を見せてくれねえか」
湊はシロを見る。
——シロ。大きくなれるか。
——なる? おおきく?
——ああ。この人に見せてやってくれ。
シロは首を傾げたあと、体を大きく膨らませた。
銀色の毛皮が広がり、四肢が地面を踏みしめる。肩は人間の腰を越え、青い目がラグナの琥珀色の瞳と向き合った。
広場から声が消えた。
ラグナが息を呑む。
「——やはり、そうか」
昨日までの豪快さとは違う、低い声だった。
サダムも歩み寄る。老いたゴリラの目が、大きく見開かれていた。
「銀の毛皮。青い双眸。……まさか、フェンリルの」
「幼体だ」
ラグナはシロから目を離さなかった。
「間違いねえ。ガキの頃、古い話を何度も聞かされた。数百年に一度、幼い姿で生まれ変わる神話の獣。銀の毛皮を持つ、獣人の守護者だ」
サダムの視線が、今度は湊へ向いた。
「この御方を……テイムしたのですか」
「テイムというか」
湊は少し考える。
「森で会った。三日、肉を持って通った。四日目にシロから近づいてきた」
サダムの口が開いたまま止まる。
ラグナは膝を折り、シロの顔を覗き込んだ。鼻先が近づくと、シロはぺろりとその鼻を舐める。
「……まだ小せえな。力も眠ってる」
肩の上で、クロが湊にだけ聞こえる声を落とした。
「フェンリルは幼体の間、本来の力の大半が眠っている。今のシロなら銀級、よくて金級ほどだ」
一度、シロを見る。
「だが成長すれば、国一つでは止められんほどになる」
湊は声に出さず頷いた。
ラグナの大きな手が、シロの頭を撫でる。シロは気持ちよさそうに目を細めた。
「なあ、お前。なんでこの人間と一緒にいるんだ」
シロが首を傾げる。
——ひとりだった。さむかった。おなか、すいた。
——みなと、きた。にく、くれた。あったかかった。
——だから、いっしょ。
途切れ途切れの言葉と一緒に、寂しさと温かさがパスを流れてきた。
「一人で寂しかったらしい。腹も減ってた。俺が肉を持っていったら、一緒に来た」
ラグナが湊を見る。
「……それだけか」
「それだけだ」
数秒、沈黙した。
やがてラグナが立ち上がる。
「神話の獣が、腹が減って寂しかったから人間についていった。——最高じゃねえか」
また、大きな笑い声が広場へ戻った。
サダムは何か言いたそうな顔をしたが、結局口を閉じた。
*
日が傾き始めた頃、ラグナが湊へ声をかけた。
「少し歩かねえか」
近衛兵が動く。
ラグナは振り返った。
「二人でだ」
「陛下、それは——」
琥珀色の目を向けられ、近衛兵の口が閉じる。
サダムが深く溜息をついた。
「……十分だけですぞ」
「分かってる」
ラグナと湊は、スラムの細い路地へ入った。シロはまた小さくなって足元を歩き、クロは肩の上にいる。
ラグナの大きな体では、両側の壁が近い。
しばらく歩いてから、ラグナが口を開いた。
「お前、行方不明者を探してるんだったな」
「ああ」
「——俺もだ」
湊が横を見る。
ラグナは前を向いたまま歩いていた。
「半年で十人以上。全員、獣人。全員、昼間に消えてる。王の耳にも入る」
「調べてたのか」
「自分の足でな」
ラグナが振り返る。口元は笑っていたが、目は違った。
「スラムだけじゃねえ。街の外も、交易路も、国境沿いも歩いた。そこで、少し見えてきた」
足が止まる。
ラグナが声を落とした。
「人間だ」
湊の眉が寄る。
「裏で、人間の奴隷狩りが動いてる。獣人を攫って、国外へ流してるらしい」
「証拠は」
「まだない」
即答だった。
「だが、国境沿いの村でも似た消え方をしてる。消えるのは獣人ばかりだ。偶然で片づけるには多すぎる」
クロの声が耳元へ落ちる。
「……奴隷狩りか。獣人は魔力の濃い者が多い。買う側には、それだけでも値をつける理由になる」
湊の指が、ゆっくり拳になる。
ラグナは路地の奥へ視線を向けた。
「もう一つある。昼間に、人目のないところだけを狙ってる。街の道も、獣人の暮らしも知ってる奴じゃなきゃ難しい」
それは、クロと話していたことと同じだった。
「つまり」
ラグナの声が低くなる。
「この国の中に、手を貸してる奴がいる」
狭い路地を、乾いた風が抜けた。
「俺がここをうろついてる間は、向こうも動きにくい。だが、いつまでもスラムに張りついてるわけにもいかねえ」
「ああ」
「俺が離れれば、また動く。なら、その時に尻尾を掴む」
ラグナが湊を見る。
「お前は人間だ。奴らも、獣人よりは警戒しにくい。それに銀狼を連れた人間が行方不明を嗅ぎ回ってるって噂は、もう広がり始めてる」
「シロを囮にする気か」
湊の声が低くなった。
ラグナが首を振る。
「違う。噂を使うだけだ」
一瞬だけ、表情が真面目になる。
「向こうが焦れば動く。動けば、見つけやすくなる」
湊はラグナを見た。
豪快なだけの男ではない。
「……分かった」
「頼む」
そこでラグナがふと眉を上げた。
「そういや、お前の名前をちゃんと聞いてなかったな」
「湊。ミナトだ」
「ミナト」
一度、確かめるように繰り返す。
「いい名だ。頼んだぞ、ミナト」
大きな手が肩へ乗った。重い。
「あと、この話はまだ他へ出すな。サダムにも言ってねえ」
「サダムにも?」
「信用してねえわけじゃない。どこから漏れるか分からんうちは、知ってる奴を増やしたくねえんだ。城の中だって例外じゃない」
ラグナは苦く笑った。
「王ってのは、不便だな」
*
広場へ戻ると、サダムが腕を組んで待っていた。三人の近衛兵も、その横で直立している。
「陛下。十分と申しましたが、二十分経っております」
「すまんすまん」
まるで悪びれていない。
「帰るぞ、サダム。——ミナト、またな」
ラグナが手を振って歩き出す。
「陛下、お待ちを」
サダムが追い、近衛兵たちも甲冑を鳴らして続いた。
ルゥがすぐに駆け寄ってくる。
「にいちゃん、獣王さまと何話してたの?」
「秘密だ」
「えー!」
足元ではシロが尻尾を振っている。
肩の上のクロが、小さな声で言った。
「重い荷を背負ったな」
「……ああ」
「だが、お前は一人ではない」
湊はクロを見る。
金色の目が、まっすぐこちらを見返していた。
「私がいる。シロがいる。ゴルツがいる。カイルたちもいる。スラムの連中もな」
湊は何も言わなかった。
ただ、シロの頭へ手を置いた。
小さな銀の耳が、指の下で動く。
夕日が路地の向こうへ沈んでいった。




