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獣王の耳打ち

翌日、ラグナは本当に来た。


昼過ぎ。昨日と同じ革の上着一枚で、スラムの広場へ歩いてくる。王冠も紋章もない。


その後ろを、サダムと三人の近衛兵が追っていた。


「陛下! せめて馬車を——」


「うるせえ。足があるのに、なんで馬車に乗るんだ」


広場の獣人たちは、昨日ほど固まらなかった。子供たちが遠巻きに見守る中、ルゥだけが目を輝かせて駆け寄る。


「獣王さま! また来た!」


「おう、小僧。元気だな」


ラグナの大きな手が、灰色の頭を掴むように撫でた。ルゥの体がぐらぐら揺れる。


湊は炊き出しの鍋の前で、柄杓を持ったままラグナを見た。


「来たのか」


「来ると言っただろう。——飯、食えるか」


「食える。並べ」


ラグナが目を丸くした。


次の瞬間、腹の底から笑う。


「はっはっは! 王に並べと言う奴は初めてだ!」


サダムが額を押さえ、近衛兵たちが顔を見合わせた。


それでもラグナは本当に列の最後尾へ並んだ。前にいた兎の青年が振り返り、そのまま固まる。


「へ、陛下……?」


「気にするな。順番だ」


やがて椀を受け取ると、ラグナは広場の端へ腰を下ろした。湊も隣に座る。


「美味いな、これ」


「セドルじいさんの味だ」


「あの山羊の爺さんか。昔から変わらんな」


湊は横を見る。


「知り合いなのか」


「ガキの頃、城を抜け出してここで遊んでた。あの爺さんに飯を食わせてもらったことがある」


ラグナは粥を啜った。


「あの頃は、もっと賑やかだった」


さっきまでの笑い声が、少しだけ低くなった。





食べ終えると、ラグナの目がシロへ向いた。


子犬ほどの姿で湊の足元に座り、銀の尻尾を揺らしている。


「昨日から気になってたんだが。おい、人間。こいつ、本当の姿を見せてくれねえか」


湊はシロを見る。


——シロ。大きくなれるか。


——なる? おおきく?


——ああ。この人に見せてやってくれ。


シロは首を傾げたあと、体を大きく膨らませた。


銀色の毛皮が広がり、四肢が地面を踏みしめる。肩は人間の腰を越え、青い目がラグナの琥珀色の瞳と向き合った。


広場から声が消えた。


ラグナが息を呑む。


「——やはり、そうか」


昨日までの豪快さとは違う、低い声だった。


サダムも歩み寄る。老いたゴリラの目が、大きく見開かれていた。


「銀の毛皮。青い双眸。……まさか、フェンリルの」


「幼体だ」


ラグナはシロから目を離さなかった。


「間違いねえ。ガキの頃、古い話を何度も聞かされた。数百年に一度、幼い姿で生まれ変わる神話の獣。銀の毛皮を持つ、獣人の守護者だ」


サダムの視線が、今度は湊へ向いた。


「この御方を……テイムしたのですか」


「テイムというか」


湊は少し考える。


「森で会った。三日、肉を持って通った。四日目にシロから近づいてきた」


サダムの口が開いたまま止まる。


ラグナは膝を折り、シロの顔を覗き込んだ。鼻先が近づくと、シロはぺろりとその鼻を舐める。


「……まだ小せえな。力も眠ってる」


肩の上で、クロが湊にだけ聞こえる声を落とした。


「フェンリルは幼体の間、本来の力の大半が眠っている。今のシロなら銀級、よくて金級ほどだ」


一度、シロを見る。


「だが成長すれば、国一つでは止められんほどになる」


湊は声に出さず頷いた。


ラグナの大きな手が、シロの頭を撫でる。シロは気持ちよさそうに目を細めた。


「なあ、お前。なんでこの人間と一緒にいるんだ」


シロが首を傾げる。


——ひとりだった。さむかった。おなか、すいた。


——みなと、きた。にく、くれた。あったかかった。


——だから、いっしょ。


途切れ途切れの言葉と一緒に、寂しさと温かさがパスを流れてきた。


「一人で寂しかったらしい。腹も減ってた。俺が肉を持っていったら、一緒に来た」


ラグナが湊を見る。


「……それだけか」


「それだけだ」


数秒、沈黙した。


やがてラグナが立ち上がる。


「神話の獣が、腹が減って寂しかったから人間についていった。——最高じゃねえか」


また、大きな笑い声が広場へ戻った。


サダムは何か言いたそうな顔をしたが、結局口を閉じた。





日が傾き始めた頃、ラグナが湊へ声をかけた。


「少し歩かねえか」


近衛兵が動く。


ラグナは振り返った。


「二人でだ」


「陛下、それは——」


琥珀色の目を向けられ、近衛兵の口が閉じる。


サダムが深く溜息をついた。


「……十分だけですぞ」


「分かってる」


ラグナと湊は、スラムの細い路地へ入った。シロはまた小さくなって足元を歩き、クロは肩の上にいる。


ラグナの大きな体では、両側の壁が近い。


しばらく歩いてから、ラグナが口を開いた。


「お前、行方不明者を探してるんだったな」


「ああ」


「——俺もだ」


湊が横を見る。


ラグナは前を向いたまま歩いていた。


「半年で十人以上。全員、獣人。全員、昼間に消えてる。王の耳にも入る」


「調べてたのか」


「自分の足でな」


ラグナが振り返る。口元は笑っていたが、目は違った。


「スラムだけじゃねえ。街の外も、交易路も、国境沿いも歩いた。そこで、少し見えてきた」


足が止まる。


ラグナが声を落とした。


「人間だ」


湊の眉が寄る。


「裏で、人間の奴隷狩りが動いてる。獣人を攫って、国外へ流してるらしい」


「証拠は」


「まだない」


即答だった。


「だが、国境沿いの村でも似た消え方をしてる。消えるのは獣人ばかりだ。偶然で片づけるには多すぎる」


クロの声が耳元へ落ちる。


「……奴隷狩りか。獣人は魔力の濃い者が多い。買う側には、それだけでも値をつける理由になる」


湊の指が、ゆっくり拳になる。


ラグナは路地の奥へ視線を向けた。


「もう一つある。昼間に、人目のないところだけを狙ってる。街の道も、獣人の暮らしも知ってる奴じゃなきゃ難しい」


それは、クロと話していたことと同じだった。


「つまり」


ラグナの声が低くなる。


「この国の中に、手を貸してる奴がいる」


狭い路地を、乾いた風が抜けた。


「俺がここをうろついてる間は、向こうも動きにくい。だが、いつまでもスラムに張りついてるわけにもいかねえ」


「ああ」


「俺が離れれば、また動く。なら、その時に尻尾を掴む」


ラグナが湊を見る。


「お前は人間だ。奴らも、獣人よりは警戒しにくい。それに銀狼を連れた人間が行方不明を嗅ぎ回ってるって噂は、もう広がり始めてる」


「シロを囮にする気か」


湊の声が低くなった。


ラグナが首を振る。


「違う。噂を使うだけだ」


一瞬だけ、表情が真面目になる。


「向こうが焦れば動く。動けば、見つけやすくなる」


湊はラグナを見た。


豪快なだけの男ではない。


「……分かった」


「頼む」


そこでラグナがふと眉を上げた。


「そういや、お前の名前をちゃんと聞いてなかったな」


「湊。ミナトだ」


「ミナト」


一度、確かめるように繰り返す。


「いい名だ。頼んだぞ、ミナト」


大きな手が肩へ乗った。重い。


「あと、この話はまだ他へ出すな。サダムにも言ってねえ」


「サダムにも?」


「信用してねえわけじゃない。どこから漏れるか分からんうちは、知ってる奴を増やしたくねえんだ。城の中だって例外じゃない」


ラグナは苦く笑った。


「王ってのは、不便だな」





広場へ戻ると、サダムが腕を組んで待っていた。三人の近衛兵も、その横で直立している。


「陛下。十分と申しましたが、二十分経っております」


「すまんすまん」


まるで悪びれていない。


「帰るぞ、サダム。——ミナト、またな」


ラグナが手を振って歩き出す。


「陛下、お待ちを」


サダムが追い、近衛兵たちも甲冑を鳴らして続いた。


ルゥがすぐに駆け寄ってくる。


「にいちゃん、獣王さまと何話してたの?」


「秘密だ」


「えー!」


足元ではシロが尻尾を振っている。


肩の上のクロが、小さな声で言った。


「重い荷を背負ったな」


「……ああ」


「だが、お前は一人ではない」


湊はクロを見る。


金色の目が、まっすぐこちらを見返していた。


「私がいる。シロがいる。ゴルツがいる。カイルたちもいる。スラムの連中もな」


湊は何も言わなかった。


ただ、シロの頭へ手を置いた。


小さな銀の耳が、指の下で動く。


夕日が路地の向こうへ沈んでいった。


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