頭を下げるということ
翌朝、湊はギルドへ向かった。
依頼板の前ではなく、酒場の奥へ進む。カイルたちがいつも使っている席には、五人全員が揃っていた。
カイルが手を上げる。
「おう、湊。珍しいな、朝から来るなんて」
「話がある」
隣には盾を立てかけた大柄な男。向かいには杖を持った二人の女性。壁際には、フードを被った細身の男が座っている。
五人の視線が集まった。
湊は立ったまま口を開く。
「スラムで獣人が消えてる。半年で十人以上。全員、日中に消えて、手がかりがない」
カイルの表情から笑みが消えた。他の四人も、黙って続きを待っている。
「俺は今、スラムの住人と一緒に探してる。でも、人手が足りない」
一度、息を吸った。
「——力を貸してほしい」
湊は頭を下げた。
酒場のざわめきが、少し遠くなった。
盾の男が腕を組む。
「報酬は」
「出せない」
「依頼でもないのか」
「ない。捜索依頼は出てる。でも報酬が安くて、誰も受けてない」
フードの男が鼻を鳴らした。
「スラムの獣人だろ。俺たちが首を突っ込む理由がない」
湊は頭を下げたまま、何も言わなかった。
椅子が床を擦った。
「俺は行く」
カイルだった。
盾の男が眉を寄せる。
「カイル。報酬もない。依頼でもない。——なんで」
「こいつが頭を下げてるからだ」
カイルの手が、湊の肩へ乗った。
「商隊護衛の時、こいつがどう動いたか見てただろ。こいつが頭を下げるってのは、よっぽどだ」
杖を持った女性の一人が、隣と目を合わせた。
「……私は構わない。回復が必要になるかもしれないし」
もう一人も頷く。
「私も。——面白そうだし」
盾の男が長く息を吐いた。
「……三対二か。多数決で負けだな」
壁際で、短い舌打ちがした。
フードの男が立ち上がる。
「斥候がいなきゃ話にならんだろ。——行くよ」
カイルが笑った。
「決まりだ」
湊は顔を上げた。
「……ありがとう」
「礼はいい。——で、どう動く?」
*
ギルドの隅の卓へ、紙の地図を広げた。
《マッピング》で見た街路を書き写したものだ。スラムの路地、広場、井戸、建物の隙間。袋小路には線を引き、人目から外れやすい場所には印をつけてある。
「消えた人は、みんな日中にいなくなってる。仕事や買い物に出たあと、帰ってこない」
湊は三つの印を指でなぞった。
「最後に見た場所を聞いて回った。重なるのが、この辺りだ」
カイルが身を乗り出す。
「市場の裏、水路沿い、それと南門近くの廃屋か」
「ああ」
フードの男が地図を覗き込んだ。
「どこも死角が多いな。スラム全部を見るのは無理だぞ」
「全部は見ない。この三カ所を中心に見張る」
「人数は?」
「ゴルツっていう熊族が一人、手伝ってくれる」
盾の男が指を折った。
「俺たち五人、お前、ゴルツ。七人か。三カ所なら二人か三人ずつ置ける」
「犯人が一人とは限らない」
湊は顔を上げた。
「見つけても、一人では追わないでくれ。合図を決めよう」
フードの奥で目が細くなる。
「……段取りはいいな」
「クロに教わった」
肩の上で、クロが欠伸をした。
「褒められているぞ」
「お前がな」
「当然だ」
*
その日から、見回りが始まった。
市場の裏手は湊とゴルツ。水路沿いにはカイルと盾の男。南門近くを、フードの男と二人の女性が受け持つ。
湊は歩きながら《マッピング》を開いた。
近くの路地と建物が淡く浮かぶ。その外にも、登録した者たちの印は残っている。カイルたち。ゴルツ。スラムの住人。ルゥ、ティナ、ミーラ、セドル。
緑の光が、一つも途切れないように。
三日間、何も起きなかった。
四日目も同じだった。
市場の裏手で、ゴルツが壁へ背を預ける。朝から何度も通りを見ていた目には、疲れが滲んでいた。
「……来ないな」
「来ない方がいい」
「分かってる」
大きな拳が握られる。
「誰も消えないのは、いいことだ。でも俺は……女房を攫った奴を見つけたい」
爪が掌へ食い込んでいた。
湊はその拳を見た。
「……見つける。必ず」
ゴルツが顔を上げる。
しばらくして、拳から力が抜けた。
「ああ」
*
五日目の夕方。
湊はスラムの広場で、炊き出しの鍋を運んでいた。
その時、空気が変わった。
話していた獣人たちが口を閉じる。子供たちも同じ方向を見た。ルゥが灰色の耳を伏せ、湊の後ろへ回り込む。
路地の向こうから、重い足音が近づいてきた。
急いではいない。
一歩ごとに、固い土を踏む音がする。
やがて影から、一人の男が現れた。
獅子の獣人だった。
金色のたてがみ。琥珀色の目。湊より頭一つは高く、肩幅も広い。身につけているのは革の上着だけで、王族らしい飾りは何もない。
それでも、広場にいた誰もが道を空けた。
セドルの手から柄杓が落ちる。
からん、と乾いた音がした。
「……ラグナ陛下」
獅子の男が、にやりと笑う。
「よう、爺さん。久しぶりだな」
その後ろから、老いたゴリラ族の男が駆け込んできた。息を切らし、そのさらに後ろを三人の近衛兵が甲冑を鳴らして追っている。
「陛下! お待ちください! せめて近衛を——」
「うるせえ、サダム。連れてきてるだろうが」
ラグナは振り返りもしない。
「自分の足で見に来て何が悪い」
サダムが額を押さえた。
ラグナは広場を見回した。
子供たち。古い井戸。大鍋。炊き出しを手伝う獣人たち。
そして、湊で目を止める。
「お前か。銀狼を連れてるっていう人間は」
《マッピング》に、新しい名が浮かんだ。
ラグナ。
光は緑だった。
「……そうだ」
「どこだ、銀狼は」
湊は足元を見る。
小さなシロが、尻尾を振っていた。
ラグナも見る。
「……これか?」
「犬だ」
「犬?」
ラグナが膝を折り、シロと目の高さを合わせる。
シロが鼻を近づけた。
次の瞬間、ぺろりとラグナの鼻を舐めた。
一拍置いて。
「はっはっは!」
大きな笑い声が広場へ響いた。
「こいつが銀狼!? 小さいな!」
「陛下、お戯れを……」
サダムの声が疲れている。
「戯れじゃねえよ」
ラグナは立ち上がり、湊を見た。
さっきまでの笑いが少しだけ薄れる。
「おい、人間。お前、ここで行方不明者を探してるんだってな。人間の冒険者まで集めて」
「……ああ」
「なんでだ」
琥珀の目がまっすぐ向く。
「お前には関係ないだろう」
湊は少し考えた。
大鍋から、まだ湯気が上がっている。足元にはシロ。背後にはルゥがいる。
「関係なくはない」
「ほう?」
「——ここで飯を食ってる」
ラグナの目が細くなった。
数秒。
それから、口元が上がる。
「気に入った」
サダムが何か言いかけたが、ラグナが片手を上げて止めた。
「明日、また来る。——お前の話、もっと聞かせろ」
「分かった」
ラグナは来た時と同じように歩き出した。
金色のたてがみが、夕日に光る。
湊は、その背中に向かって頭を下げた。
「陛下、お待ちを!」
サダムが慌てて追い、三人の近衛兵も甲冑を鳴らして続いていく。
広場には、しばらく誰も声を出さなかった。
やがてルゥが袖を引く。
「……にいちゃん。今の、獣王さま?」
「みたいだな」
「すげえ……」
湊は《マッピング》を開いた。
ラグナの緑の光が、路地を進んでいる。その後ろを、サダムと近衛兵たちの印が追っていた。
肩の上でクロが小さく笑う。
「面白い王だ」
「ああ」
「——お前と、少し似ている」
「どこがだ」
「止めても聞かないところ」
湊は何も言わなかった。
夕日が、広場を橙色に染めていた。




