噂
数日が過ぎた。
湊は毎朝スラムへ通った。水を汲み、薪を運び、セドルの炊き出しを手伝う。昼前にはギルドで依頼を受け、夕方にはまた戻って子供たちと飯を食った。
日ごとに、顔見知りが増えていった。
鹿の獣人の女性はミーラといった。長くセドルを手伝っているらしく、口数は少ない。湊が水を運ぶと、いつも小さく頭を下げた。
路地の奥には、犬の耳を持つ老婆が一人で暮らしていた。足が悪い。湊が薪を届けると、礼だと言って干し肉を一切れ押しつけられた。
猫の獣人の少女もいた。ルゥより少し年上で、名前はティナ。最初は湊を遠巻きに眺めていたが、三日目にシロの頭を撫で、四日目には自分から話しかけてきた。
「ルゥのにいちゃん?」
「ルゥのにいちゃんじゃない。湊だ」
「ルゥがそう呼んでるもん」
湊は《マッピング》を開いた。
広場の中に緑の光点が浮かぶ。ミーラ。老婆。ティナ。セドル。ルゥ。子供たち。
知っている名前が、少しずつ増えていた。
——この中から、誰も消えるな。
*
五日目の朝。
冒険者ギルドへ入ると、依頼板の前に人だかりができていた。
「おい、聞いたか。銀狼だってよ」
「銀狼?」
「スラムのガキが見たらしい。でっかい銀色の狼を、人間の冒険者が連れてるって」
「馬鹿言え。銀狼なんて伝承の話だろ」
「でも、南の草原で見た奴もいるぞ。角猪を一撃で仕留めたって」
湊は少し離れたところで足を止めた。
肩の上でクロが囁く。
「広まったな」
「ルゥか」
「だろうな。あの子は黙っていられる性格ではない」
湊は小さく息を吐いた。
足元のシロは子犬ほどの姿で尻尾を振っている。誰も、噂の銀狼が目の前にいるとは思っていないらしい。
「まあいい。噂は噂だ」
「今はな」
クロの尾が一度揺れた。
*
その日の依頼は、街の北にある丘陵地帯へ出る毒蜥蜴の駆除だった。
五匹。銀級相当。
街を離れて《マッピング》を開くと、低い丘と岩場、乾いた窪地が半透明の地図に浮かんだ。岩陰に赤い光点が三つ。少し離れた窪地に二つある。
「分かれてるな」
「毒蜥蜴は縄張り意識が強い。群れで固まる魔物ではない。一匹ずつやれ」
湊は《隠密》で気配を沈め、《音操》で足音を消した。
最初の一匹は、岩の上で陽を浴びていた。体長は湊の腕ほど。紫がかった鱗が光を鈍く返している。
間合いへ入る。
一歩。二歩。
毒蜥蜴はまだ動かない。
三歩目で踏み込み、短剣を首へ走らせた。硬い鱗の隙間を刃が抜け、頭が岩の上へ落ちる。
「一匹」
二匹目は岩の裏にいた。
顔を出した瞬間、口が大きく開く。湊は横へ跳んだ。飛んできた紫色の液が岩へ散り、じゅっと嫌な音と匂いを立てる。
腰から苦無を抜き、そのまま投げた。
刃が眉間へ刺さり、毒蜥蜴が岩陰へ崩れた。
三匹目は逃げた。
《マッピング》の赤い光点が丘を駆け上がる。
——シロ。
小さな銀色の体が草を蹴った。
子犬ほどの姿でも速い。丘の上で追いつくと、シロは毒蜥蜴の背へ前脚を乗せ、そのまま押さえ込んだ。
湊が追いついた時、シロは得意そうに尻尾を振っていた。
——みなと。つかまえた。
「ああ。ありがとう」
三匹目を仕留める。
窪地の二匹を相手にする時は、シロを元の大きさへ戻した。銀の巨体が斜面を駆け下りると、二匹は反対へ逃げようとしたが間に合わない。
一匹を前脚で押さえ、もう一匹の首へ牙が入る。
ほどなく、地図から二つの赤い光も消えた。
「終わりだ」
毒腺と鱗を回収し、マジックバッグへしまう。
帰り道、クロが口を開いた。
「戦うたびにシロを戻していれば、いずれ目撃者は増えるぞ」
「分かってる」
「分かっていて戻すのか」
「必要なら」
「……まあ、そうなるな」
クロはしばらく黙り、草原の先へ目を向けた。
「それに、噂が広まるのも悪いことばかりではない。この国には昔から、銀狼や『大いなる狼』を神獣として語る伝承がある」
「シロが?」
「それは知らん。私は伝承の話をしている」
足元を歩く小さなシロへ、クロの視線が落ちる。
「だが、銀狼を連れた人間という噂が広がれば、お前を見る目は変わるかもしれん」
「どうでもいい」
「お前自身にはな」
クロの声が少しだけ低くなった。
「行方不明者を探すなら、話を聞いてくれる者が増えるのは悪くない」
湊は返事をしなかった。
ただ、その言葉だけは覚えておいた。
*
スラムへ戻ると、広場の空気がいつもと違っていた。
子供だけではない。見覚えのない大人の獣人が何人も集まり、湊の方を見ている。
ルゥが駆けてきた。
「にいちゃん! みんなが聞きたいって!」
「何を」
「神獣さまのこと!」
湊は眉間を押さえた。
広場の隅に、熊の獣人の男が立っていた。大きな腕を組み、こちらを睨むように見ている。
「あんたが、銀狼を連れてるっていう人間か」
「……犬だ」
「犬?」
男の視線が、湊の足元へ落ちた。
小さな銀色のシロが尻尾を振っている。
「これが銀狼? 冗談だろ」
「冗談じゃないよ!」
ルゥが声を張った。
「おっきくなるんだよ! すっごくおっきくて、銀色で、かっこいいんだよ!」
「ガキの話をそのまま信じられるか」
男が鼻を鳴らす。周囲の大人たちも半信半疑の顔だった。
湊はシロを見る。
青い目が見上げてくる。
——みなと? おおきく、なる?
「いや。そのままでいい」
男へ向き直る。
「信じなくていい。証明する気もない」
「じゃあ、何しにここへ来てる。人間が」
「炊き出しの手伝い」
男が黙った。
周りも静かになる。
鍋の前から、セドルが声を上げた。
「この子は毎日来てくれとるよ。水汲みも薪運びも、嫌な顔一つせんでな」
熊の男はセドルを見て、それから湊を見る。
「……ふん」
腕を解いた。
疑いはまだ残っているようだったが、それ以上は何も言わなかった。
湊も水を汲みに向かった。
いつも通り、井戸から鍋まで桶を運ぶ。ルゥが薪を抱え、ティナが野菜を洗っていた。
*
炊き出しが終わり、人が減り始めた頃。
さっきの熊の男が近づいてきた。
「……ゴルツだ。俺の名前」
「湊」
「ミナト。——悪かったな、さっき」
「気にしてない」
ゴルツが頭を掻く。
「スラムに人間が来ること自体、珍しいんだ。しかも毎日だ。何か裏があるんじゃないかと思った」
「裏はない」
「……みたいだな」
ゴルツは湊の隣へ腰を下ろした。古い椅子がぎしりと鳴る。
少し黙ってから、低い声で聞いた。
「行方不明の件、調べてるって本当か」
「ああ」
「セドルじいさんから聞いた」
大きな手が膝の上で握られる。
「俺の女房も、三ヶ月前にいなくなった。買い物へ出て、そのまま帰ってこなかった」
湊は何も言わず、続きを待った。
「ギルドにも届けた。自分でも探した。でも、何も分からん」
ゴルツの拳に力が入る。
「俺は力ならある。だが、どこを探せばいいのかも分からない」
湊は《マッピング》を開いた。
目の前に、ゴルツの名がついた緑の光点が一つ増える。
「まだ、何も分かってない」
「ああ」
「それでも調べてる」
ゴルツはしばらく湊を見ていた。
やがて立ち上がる。
「何か手伝えることがあれば言ってくれ。力仕事なら任せろ」
「ああ」
大きな背中が路地へ消えていく。
肩の上でクロが言った。
「また増えたな」
「何が」
「お前に手を貸す奴だ」
湊はゴルツの消えた路地を見る。
「頼んでない」
「まだ、な」
クロが小さく欠伸をした。
*
その夜。
宿の寝台に腰を下ろし、《マッピング》を開いた。
バルムの街が半透明の光に浮かぶ。スラムの広場を中心に、名前のついた緑の点が以前より増えていた。
「消えた者のことを整理するぞ」
枕元のクロが言った。
「全員、獣人。全員、スラムの住人。仕事や買い物へ出たまま戻らない」
「ああ」
「人の少ない場所で攫われているなら、相手はこの街を知っている。道も、人通りの薄い時間もな」
湊は地図を動かした。
細い路地。建物の裏。水路。行き止まり。
人の目から外れやすい場所はいくらでもある。
「全部を見るのは無理だな」
「お前一人ではな」
クロの尾が寝台を一度叩いた。
湊は地図の中の緑の点を見た。
ルゥ。セドル。ミーラ。ティナ。ゴルツ。
昨日までは、知らなかった名前ばかりだった。
シロの小さな寝息が、床の毛布から聞こえてくる。
「……明日、話してみる」
クロは誰に、と聞かなかった。
ただ金色の目を細めた。
「そうしろ」
湊は地図を閉じた。




