マッピング
朝、右手の甲が淡く光った。
まだ早い。窓の外は薄暗く、通りから獣人たちの声も聞こえてこない。湊が寝台の上で身を起こすと、枕元のクロも金色の目を開いた。
「引くか」
「ああ」
湊は右手を握った。
光が弾ける。
何も現れなかった。代わりに、新しい感覚が体の奥へ流れ込み、意味だけが頭へ届く。
——《マッピング》。
湊は手を開いた。
「……地図?」
意識を向けると、胸の前に淡い光が浮かんだ。
半透明の板だった。手のひら二つ分ほどの大きさで、青白い光の中を細い線が走っていく。建物。道。広場。井戸。
バルムの街だった。
湊が視線を動かすと、地図も滑るように動いた。意識を広げれば、宿を中心に街路や建物、細い路地まで立体的に浮かび上がる。
端は、およそ三百メートル先で途切れていた。
「何が見える」
クロが湊の顔を見上げている。地図そのものは見えていないらしい。
「宿の周り。道も、建物の中も見える。三百メートルくらい」
意識を宿の部屋へ戻す。
光点が二つあった。
足元に一つ。枕元に一つ。
どちらも緑色で、意識を向けるとシロとクロだと分かった。
「お前たちも映ってる」
「色は?」
「緑」
クロの尻尾がゆっくり揺れる。
「今のお前への敵意で変わるのかもしれんな」
湊は窓の外へ意識を伸ばした。
三百メートルの範囲には、名のない光点がいくつも散っている。人なのか、獣なのか、それだけでは分からない。
一度会った相手は違った。
詳細な地図の外へ意識を向ける。街の少し離れたところに、カイルの位置が浮かんだ。地形はもう細かく見えない。それでも、名前のついた緑の印だけは残っている。
感覚を探る。
十キロほどまでなら、会った相手を追えるらしい。
「カイルもいる」
「便利な力だな」
クロの耳が動く。
「ただし、見えるからといって何でも分かると思うなよ」
「ああ」
床でシロが伸びをした。
——みなと。あさ?
「ああ。朝だ」
——ルゥ、いく?
「行く」
意識を離すと、半透明の地図は静かに消えた。
*
朝のバルムは、昨日より静かだった。
屋台はまだ支度の途中で、肉を焼く匂いも薄い。通りを歩く獣人たちの足音を聞きながら、湊は冒険者ギルドへ向かった。
扉を開けると、すでに何人かの冒険者がいた。熊の獣人が依頼板を眺め、狐の耳を持つ女が受付へ書類を出している。
兎の受付嬢が湊に気づいた。
「おはよう。依頼を受ける?」
「ああ。それと、一つ聞きたいことがある」
「何?」
「この街で、行方不明者が出てるって聞いた。ギルドに届けはある?」
長い耳の動きが止まった。
「……どこで聞いたの?」
「スラムで」
受付嬢は少しだけ周囲を見て、声を落とした。
「あるわ。ここ半年で十件以上。全部スラムの住人で、獣人ばかり」
「捜索依頼は?」
「出てる。でも手がかりがなくて、誰も受けないの。報酬も安いし……スラムの人たちが出せる額には限りがあるから」
受付嬢が依頼板の端を指した。
他の紙より色褪せた依頼書が、何枚も残っている。
湊は一枚へ目を落とした。
「行方不明者捜索。ラット通り在住、山羊族の男性。四十代。三ヶ月前に仕事へ出たまま帰宅せず」
隣には、犬族の女性。その隣にも別の名前。
出かけたまま帰らない。
手がかりなし。
どれも同じだった。
「共通点は?」
「全員が獣人。全員がスラムの住人。それ以外は……正直、分からない」
兎の耳が伏せられる。
「私も気になってる。でも、ギルドとしては手がかりがないと動きようがなくて。——あなた、調べるつもり?」
「依頼をやりながら、少し」
「……そう」
受付嬢は少し黙った。
「ありがとう。気をつけてね」
湊は依頼板から、別の紙を一枚取った。街の近くへ出る魔物の討伐。銀級相当。
「これを受ける」
「了解。行方不明の件も、何か分かったら教えて」
「ああ」
*
街を出ると、風が強くなった。
草原が波のようにうねり、青臭い匂いが流れてくる。
湊は《マッピング》を開いた。
半透明の地図に、街の外縁から続く草原が浮かぶ。丘。窪地。岩場。細い水の流れ。
「見えるか」
「ああ。この辺りの地形が分かる。——向こうに窪地がある」
クロが頷く。
「偵察には使えそうだな」
今回の討伐対象は、畑を荒らす角猪の群れだった。五頭。
窪地の奥に、名のない光点が五つ固まっている。
「五つ」
「数は合うな」
湊は《隠密》を発動し、《音操》で足音を抑えた。小さなシロも横を歩き、鼻先を草へ近づけている。
窪地まで寄り、草の隙間から覗く。
角猪が五頭、太い牙で地面を掘り返していた。硬そうな毛に覆われた体は、湊の背丈ほどもある。
「シロ」
銀の体が膨らんだ。
元の大きさへ戻ったシロが草を踏みしめる。青い目が角猪へ向いた。
五頭が一斉に顔を上げた。
シロが地面を蹴る。
一頭目の首へ噛みつき、そのまま振って地面へ叩きつけた。横から突っ込んできた二頭目には前脚を叩き込み、重い体を草の上へ転がす。
湊も《隠密》を解いて踏み込んだ。
三頭目が頭を下げ、牙を向けて走ってくる。湊は正面を外し、半歩ずらして突進をかわす。すれ違う首筋へ短剣を走らせると、手へ硬い感触が返り、角猪は数歩先で崩れた。
次の一頭が向きを変える。湊は腰から苦無を抜き、そのまま投げた。短い風切り音のあと、刃が眉間へ刺さる。
最後の一頭へ目を向けた時には、シロの牙に押さえ込まれていた。ほどなく、その体からも力が抜けた。
湊は息を整えながら《マッピング》を見る。
窪地にあった五つの光点は消えていた。周囲には、近づいてくる別の反応もない。
「……便利だな」
肩へ戻ったクロが小さく笑う。
「隠密、音操、認識阻害。それに今の力か。お前は斥候には向いている」
「斥候か」
「嫌か?」
「いや」
湊は短剣についた血を拭った。
「合ってる気がする」
角猪の牙と皮を回収し、マジックバッグへ入れた。
*
ギルドへ戻り、依頼を完了した。
報酬は銀貨五枚。
その足でスラムへ向かうと、広場ではセドルが大鍋を洗っていた。昼の炊き出しは、もう終わったらしい。
「おお、来たか。今日は遅かったな」
「仕事があった」
「そうかい。ルゥが待っておったよ」
広場の隅から灰色の耳が飛び出した。
「来た!」
ルゥが駆けてくる。シロを見ると、尻尾がすぐに揺れた。
「ああ」
湊はマジックバッグから銀貨を二枚出し、セドルの前へ置いた。
「炊き出しに使ってくれ」
セドルが目を丸くする。
「……いいのかい」
「依頼の報酬だ。余ってる」
余ってはいない。
セドルは何も言わず、皺だらけの手で銀貨を受け取った。
「ありがたい。明日は、もう少しいい粥が炊けるな」
ルゥが湊を見上げる。
「……にいちゃん、また来る?」
「来る」
灰色の尻尾が大きく揺れた。
湊は《マッピング》を開いた。
広場の中に、いくつもの光点がある。ルゥ。セドル。昨日もいた鹿の女性。子供たち。
名前を知っている相手には名が浮かび、顔を覚えた者の位置も、周囲の名もない反応とは区別できた。どれも今は緑色だった。
湊はルゥの印を見る。
これなら、突然いなくなれば気づける。
地図を閉じた。
「明日も来る。手伝えることがあれば言ってくれ」
セドルが笑う。
「水汲みを頼むよ。わしの腰がもたん」
「ああ」
*
帰り道、クロが口を開いた。
「ピンをつけたな」
「ああ」
「すでに消えた者は追えん。だが、これからなら」
「最後にいた場所は分かる」
クロの金色の目が細くなる。
「待つしかないのは歯がゆいな」
「待つだけじゃない。明日からもっと顔を覚える」
「……お前は」
クロが小さく笑った。
「甘いのか、したたかなのか、分からんな」
「両方だ」
宿へ戻る道で、湊はもう一度を開いた。
夕暮れのバルムが、半透明の光の中に浮かぶ。
その中で、ルゥの名が小さく光っていた。
——見つける。




