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炊き出し

翌朝、湊はまたスラム街へ向かった。


理由は、自分でもうまく説明できなかった。ただ、昨日見た灰色の耳が頭に残っている。裸足の足。細い腕。肉串を頬張りながら、ぽろぽろ涙を落とした顔。


「行くのか」


肩の上でクロが言った。


「ああ」


「……お前は本当に甘いな」


呆れた声だったが、止めはしなかった。


賑やかな通りから一本外れる。焼いた肉や香辛料の匂いが遠のき、湿った木と土の匂いへ変わった。


昨日と同じ路地の角に、灰色の影があった。


ルゥだった。


壁に背を預け、膝を抱えている。湊と目が合うと、狼の耳がぴくりと立った。


「……来た」


「待ってたのか」


ルゥは答えなかった。


立ち上がると、そのまま湊の横へ並ぶ。足元へ寄ってきたシロには、昨日より迷わず手を伸ばした。


「……神獣さま、今日はちっちゃいね」


「犬だ」


「犬じゃないよ。昨日、おっきくなったもん」


クロが小さく笑った。



ルゥの後について、スラムの奥へ入った。


進むほど路地は細くなり、建物も古くなる。剥がれた壁。頭上に垂れる洗濯物。朝だというのに、路地の底まではほとんど日が届かない。


角を曲がると、小さな空き地があった。


建物と建物の隙間にできた広場だった。地面は固い土で、隅には古い井戸がある。壁際には木箱と薪が積まれていた。


大きな鍋から、白い湯気が上がっている。


穀物と根菜を煮た匂いだった。薄い匂いなのに、冷えた朝の空気の中では妙に腹へ響く。


鍋の前に、老いた山羊の獣人が立っていた。曲がった角と白い髭。その横では、若い鹿の獣人の女性が野菜を刻んでいる。


その前に、子供たちが並んでいた。


五人、六人。犬の耳。猫の尻尾。小さな羽根。種族は違っても、皆、服は擦り切れ、裸足の子が多かった。


「炊き出し」


ルゥが言った。


「じいちゃんが毎朝やってくれる。教会の人」


山羊の老人が顔を上げた。


「おお、ルゥ。今日は早いな。——おや」


視線が湊で止まる。


「人間の子かい。珍しいね、こんなところに」


「……通りがかりです」


「通りがかりで、ここまでは来んよ」


老人の皺だらけの顔が柔らかく崩れた。


「まあいい。食べていくかい? まだあるよ」


「いえ、俺は——」


「食え」


クロが耳元で言った。ルゥたちには聞こえないくらいの声だった。


「断るな。ここでは、一緒に食べることにも意味がある」


湊は差し出された木の椀を受け取った。


穀物の粥だった。具は少ない。塩気も薄い。それでも湯気の立つ一口を飲み込むと、腹の奥がゆっくり温まった。


子供たちの間へ腰を下ろす。


ルゥが隣に座り、シロはその足元で丸くなった。


すぐに、いくつもの視線が小さな銀毛へ集まる。


「ルゥ、その犬なに?」


「犬じゃないよ。神獣さまだよ」


「うそだあ」


「ほんとだよ! 昨日、おっきくなったんだから!」


誰も信じていなかった。


シロだけが意味も分からず尻尾を振っていた。



食べ終わると、湊は山羊の老人のところへ行った。


「手伝えることはありますか」


老人が少し目を丸くする。


「……本気かい」


「暇なので」


「暇、ねえ」


老人は笑い、井戸を指した。


「じゃあ、水を汲んできておくれ。鍋が大きいから、わしの腰では何往復もつらくてな」


湊は桶を井戸へ落とした。


縄が軋み、水へ落ちる音が返ってくる。引き上げた桶は冷たく重かった。


井戸と鍋の間を何度か往復する。


鹿の女性が剥いた野菜を運び、火へ薪を足す。気づけば、昨日まで知らなかった場所で普通に働いていた。


ルゥがその横をうろうろしている。


何かしたいらしい。


「薪、持ってきて」


「うん!」


すぐに走っていった。


しばらくして、細い腕いっぱいに薪を抱えて戻ってくる。灰色の尻尾が揺れていた。


湊は一本受け取って火へ入れた。


「……お前、ここに毎日来てるのか」


「うん」


「一人で?」


ルゥの耳が少し下がった。


「……おとうも、おかあも、いないから」


湊の手が止まる。


「いない?」


「いなくなった。ずっと前に。——帰ってこない」


泣かなかった。


声もほとんど変わらない。


だから余計に、何も言えなかった。


湊は残りの薪を受け取り、火へくべた。


ぱち、と乾いた音がした。


肩の上で、クロが静かに目を閉じていた。



昼を過ぎ、子供たちがいなくなった頃。


山羊の老人は、大鍋を井戸水で洗っていた。


「セドルじいさん、と呼んでおくれ」


「セドルさん」


「じいさんでいいよ」


セドルは笑って、濡れた鍋を布で拭う。


「ここで炊き出しをしているのは、街外れの教会でな。わしはそこの世話役だ。もう何十年になるかのう」


湊は空になった広場を見る。


「子供が多いですね」


「ああ。——最近、増えた」


セドルの手が止まった。


少しの間、鍋から落ちる水音だけが続く。


「親がいなくなる子が、増えとるんだ」


「行方不明ですか」


「そうだ」


セドルは布を握ったまま、低く続けた。


「仕事へ出たきり帰らない。買い物へ出たまま戻らない。ある日、突然いなくなる。——ルゥの親御さんも、そうだった」


「捜索は?」


「ギルドへ届けは出しとる。だが、手がかりがない」


白い髭の奥から、細い息が漏れた。


「スラムで暮らす者が消えたところで、街の上の方はなかなか動かん。最初は一人、二人だった。それが、この半年で十人を超えた」


セドルは顔を上げた。


穏やかな目の奥に、消えていないものがあった。


「何かが起きとる。わしには、そう思えてならん」


皺だらけの手が、濡れた布を強く握る。


「わしは老いぼれだ。できることは、こうして鍋を炊くくらいだ。……だがな」


視線が、子供たちの去った路地へ向いた。


「あの子たちの親を、返してやりたい」


湊はしばらく黙っていた。


「少し、調べてみます」


セドルが振り返る。


「……本気かい」


「暇なので」


同じ言葉を返した。


セドルは一度だけ瞬きをして、それから笑った。


さっきより、少し深い皺が目尻にできた。



宿へ戻る頃には、夕日が窓から長く差し込んでいた。


クロが寝台へ移り、シロは床の毛布の上で丸くなる。


「どう思う」


湊が聞いた。


「行方不明、か」


クロの尻尾がゆっくり揺れた。


「スラムの住人ばかりで、この半年に十人以上。偶然と見るには多い」


「ああ」


「だが、まだ何も分からん。消えた者の共通点。場所。時間。誰かに見られていたかどうか」


「ギルドで聞いてみる」


「それがいい」


クロはそこで言葉を切った。


金色の目が湊へ向く。


「それで、お前は調べるつもりなのだな」


「もう調べるって言った」


「セドルに、だろう」


「ああ」


「……やはり甘い」


「知ってる」


クロは鼻を鳴らした。


それから、少しだけ声を落とす。


「ルゥの親も、その中にいる」


湊は答えなかった。


窓の外を見る。


夕日に染まった屋根の向こうに、昼間のスラムがある。古い井戸と、大きな鍋と、灰色の耳。


「調べよう」


「ああ」


クロが小さく頷いた。


「ただし慎重にな。半年も見つかっていない相手だ。スラムの住人ばかり消えているのなら、なおさらな」


床でシロが寝返りを打った。


小さな青い目が開く。


——みなと。ルゥ、また、あえる?


「ああ。また行く」


——よかった。


尻尾が毛布を叩いた。


——ルゥ、いいにおい、する。なかま。


湊は少しだけ笑い、小さな銀の背を撫でた。


窓の外では、スラムの屋根が夕日の中へ沈んでいた。


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