炊き出し
翌朝、湊はまたスラム街へ向かった。
理由は、自分でもうまく説明できなかった。ただ、昨日見た灰色の耳が頭に残っている。裸足の足。細い腕。肉串を頬張りながら、ぽろぽろ涙を落とした顔。
「行くのか」
肩の上でクロが言った。
「ああ」
「……お前は本当に甘いな」
呆れた声だったが、止めはしなかった。
賑やかな通りから一本外れる。焼いた肉や香辛料の匂いが遠のき、湿った木と土の匂いへ変わった。
昨日と同じ路地の角に、灰色の影があった。
ルゥだった。
壁に背を預け、膝を抱えている。湊と目が合うと、狼の耳がぴくりと立った。
「……来た」
「待ってたのか」
ルゥは答えなかった。
立ち上がると、そのまま湊の横へ並ぶ。足元へ寄ってきたシロには、昨日より迷わず手を伸ばした。
「……神獣さま、今日はちっちゃいね」
「犬だ」
「犬じゃないよ。昨日、おっきくなったもん」
クロが小さく笑った。
*
ルゥの後について、スラムの奥へ入った。
進むほど路地は細くなり、建物も古くなる。剥がれた壁。頭上に垂れる洗濯物。朝だというのに、路地の底まではほとんど日が届かない。
角を曲がると、小さな空き地があった。
建物と建物の隙間にできた広場だった。地面は固い土で、隅には古い井戸がある。壁際には木箱と薪が積まれていた。
大きな鍋から、白い湯気が上がっている。
穀物と根菜を煮た匂いだった。薄い匂いなのに、冷えた朝の空気の中では妙に腹へ響く。
鍋の前に、老いた山羊の獣人が立っていた。曲がった角と白い髭。その横では、若い鹿の獣人の女性が野菜を刻んでいる。
その前に、子供たちが並んでいた。
五人、六人。犬の耳。猫の尻尾。小さな羽根。種族は違っても、皆、服は擦り切れ、裸足の子が多かった。
「炊き出し」
ルゥが言った。
「じいちゃんが毎朝やってくれる。教会の人」
山羊の老人が顔を上げた。
「おお、ルゥ。今日は早いな。——おや」
視線が湊で止まる。
「人間の子かい。珍しいね、こんなところに」
「……通りがかりです」
「通りがかりで、ここまでは来んよ」
老人の皺だらけの顔が柔らかく崩れた。
「まあいい。食べていくかい? まだあるよ」
「いえ、俺は——」
「食え」
クロが耳元で言った。ルゥたちには聞こえないくらいの声だった。
「断るな。ここでは、一緒に食べることにも意味がある」
湊は差し出された木の椀を受け取った。
穀物の粥だった。具は少ない。塩気も薄い。それでも湯気の立つ一口を飲み込むと、腹の奥がゆっくり温まった。
子供たちの間へ腰を下ろす。
ルゥが隣に座り、シロはその足元で丸くなった。
すぐに、いくつもの視線が小さな銀毛へ集まる。
「ルゥ、その犬なに?」
「犬じゃないよ。神獣さまだよ」
「うそだあ」
「ほんとだよ! 昨日、おっきくなったんだから!」
誰も信じていなかった。
シロだけが意味も分からず尻尾を振っていた。
*
食べ終わると、湊は山羊の老人のところへ行った。
「手伝えることはありますか」
老人が少し目を丸くする。
「……本気かい」
「暇なので」
「暇、ねえ」
老人は笑い、井戸を指した。
「じゃあ、水を汲んできておくれ。鍋が大きいから、わしの腰では何往復もつらくてな」
湊は桶を井戸へ落とした。
縄が軋み、水へ落ちる音が返ってくる。引き上げた桶は冷たく重かった。
井戸と鍋の間を何度か往復する。
鹿の女性が剥いた野菜を運び、火へ薪を足す。気づけば、昨日まで知らなかった場所で普通に働いていた。
ルゥがその横をうろうろしている。
何かしたいらしい。
「薪、持ってきて」
「うん!」
すぐに走っていった。
しばらくして、細い腕いっぱいに薪を抱えて戻ってくる。灰色の尻尾が揺れていた。
湊は一本受け取って火へ入れた。
「……お前、ここに毎日来てるのか」
「うん」
「一人で?」
ルゥの耳が少し下がった。
「……おとうも、おかあも、いないから」
湊の手が止まる。
「いない?」
「いなくなった。ずっと前に。——帰ってこない」
泣かなかった。
声もほとんど変わらない。
だから余計に、何も言えなかった。
湊は残りの薪を受け取り、火へくべた。
ぱち、と乾いた音がした。
肩の上で、クロが静かに目を閉じていた。
*
昼を過ぎ、子供たちがいなくなった頃。
山羊の老人は、大鍋を井戸水で洗っていた。
「セドルじいさん、と呼んでおくれ」
「セドルさん」
「じいさんでいいよ」
セドルは笑って、濡れた鍋を布で拭う。
「ここで炊き出しをしているのは、街外れの教会でな。わしはそこの世話役だ。もう何十年になるかのう」
湊は空になった広場を見る。
「子供が多いですね」
「ああ。——最近、増えた」
セドルの手が止まった。
少しの間、鍋から落ちる水音だけが続く。
「親がいなくなる子が、増えとるんだ」
「行方不明ですか」
「そうだ」
セドルは布を握ったまま、低く続けた。
「仕事へ出たきり帰らない。買い物へ出たまま戻らない。ある日、突然いなくなる。——ルゥの親御さんも、そうだった」
「捜索は?」
「ギルドへ届けは出しとる。だが、手がかりがない」
白い髭の奥から、細い息が漏れた。
「スラムで暮らす者が消えたところで、街の上の方はなかなか動かん。最初は一人、二人だった。それが、この半年で十人を超えた」
セドルは顔を上げた。
穏やかな目の奥に、消えていないものがあった。
「何かが起きとる。わしには、そう思えてならん」
皺だらけの手が、濡れた布を強く握る。
「わしは老いぼれだ。できることは、こうして鍋を炊くくらいだ。……だがな」
視線が、子供たちの去った路地へ向いた。
「あの子たちの親を、返してやりたい」
湊はしばらく黙っていた。
「少し、調べてみます」
セドルが振り返る。
「……本気かい」
「暇なので」
同じ言葉を返した。
セドルは一度だけ瞬きをして、それから笑った。
さっきより、少し深い皺が目尻にできた。
*
宿へ戻る頃には、夕日が窓から長く差し込んでいた。
クロが寝台へ移り、シロは床の毛布の上で丸くなる。
「どう思う」
湊が聞いた。
「行方不明、か」
クロの尻尾がゆっくり揺れた。
「スラムの住人ばかりで、この半年に十人以上。偶然と見るには多い」
「ああ」
「だが、まだ何も分からん。消えた者の共通点。場所。時間。誰かに見られていたかどうか」
「ギルドで聞いてみる」
「それがいい」
クロはそこで言葉を切った。
金色の目が湊へ向く。
「それで、お前は調べるつもりなのだな」
「もう調べるって言った」
「セドルに、だろう」
「ああ」
「……やはり甘い」
「知ってる」
クロは鼻を鳴らした。
それから、少しだけ声を落とす。
「ルゥの親も、その中にいる」
湊は答えなかった。
窓の外を見る。
夕日に染まった屋根の向こうに、昼間のスラムがある。古い井戸と、大きな鍋と、灰色の耳。
「調べよう」
「ああ」
クロが小さく頷いた。
「ただし慎重にな。半年も見つかっていない相手だ。スラムの住人ばかり消えているのなら、なおさらな」
床でシロが寝返りを打った。
小さな青い目が開く。
——みなと。ルゥ、また、あえる?
「ああ。また行く」
——よかった。
尻尾が毛布を叩いた。
——ルゥ、いいにおい、する。なかま。
湊は少しだけ笑い、小さな銀の背を撫でた。
窓の外では、スラムの屋根が夕日の中へ沈んでいた。




