バルムの街
商隊がバルムへ着いたのは、草原に出てから二日目の夕方だった。
街道の先に、少しずつ建物が増えていく。
荷車。家畜。行き交う獣人たち。グランデルの関所のように列を止められることもなく、草原を進んでいたはずの馬車は、気づけば街の中へ入っていた。
「ずいぶん開けてるな」
「獣人の国だからな」
クロが肩の上で目を細める。
「グランデルとは考え方が違う。見れば分かる」
通りへ出ると、その意味が少し分かった。
犬の耳を持つ男が荷車を引き、鷹の翼を背に畳んだ女が屋台で串を焼いている。虎の縞模様が腕に走る大男は、道端で子供と腕相撲をしていた。向かい合う子供にも同じ虎柄がある。
声が大きい。
笑い声も多い。
エルダは多種族が混じり合う街だった。ここは違う。獣人たち自身の暮らしの中へ、人間や他種族が混ざっている。
足元で、小さなシロが鼻を上げた。
——いいにおい。にく、やいてる。
「後でな」
——いまでもいい。
「後で」
カイルが横へ並んだ。
「俺たちはここで解散だ。ミナト、ギルドには行くか?」
「ああ。護衛の完了手続きがある」
「なら一緒に行こう。場所は分かる」
*
バルムの冒険者ギルドは、街の中心に近い広場へ面していた。
木と石を組み合わせた大きな建物だった。扉は広く、天井も高い。中へ入ると、酒と汗、それに革の匂いが混じっていた。
冒険者のほとんどは獣人だった。
熊の獣人が卓で酒を飲み、狐の耳を持つ女が依頼書を眺めている。人間の姿もあるが、数は少ない。
カウンターの向こうでは、兎の獣人の女性が書類を整理していた。薄茶色の髪の上で、長い耳がゆらゆら動いている。
「いらっしゃい。護衛依頼の完了手続き?」
「ああ」
湊が依頼書を出すと、兎の耳がぴくりと立った。
「グラーツからの商隊護衛ね。お疲れ様。報酬は銀貨十五枚。ここで受け取れるわ」
受け取った革袋が、掌へ重みを返す。
隣ではカイルも手続きを済ませていた。
「冒険者登録はエルダね。ラグナ国内でもそのまま有効よ。ランクも引き継がれるから、依頼はいつでも受けられるわ」
「分かった」
受付嬢の目が、湊の肩と足元へ動いた。
「猫と犬も一緒なのね。可愛い」
シロの尻尾が勢いよく振れた。
——また、ほめられた。
クロは欠伸をした。
カイルが笑う。
「その犬、褒められるの好きだな」
「調子に乗るから、あまり言わない方がいい」
——のってない。
「乗ってる」
受付嬢がくすりと笑った。
カイルは手続きを終えると、肩越しに手を振った。
「俺はしばらくこの街にいる。何かあったら声かけてくれ」
「ああ」
「……相変わらず短いな」
そう言って、今度こそ仲間たちの方へ戻っていった。
*
ギルドの近くで宿を取った。
二階の角部屋。窓を開けると広場が見え、下から獣人たちの声が上がってくる。
荷物を置いて、街へ出た。
夕暮れの通りには屋台が並んでいた。
炭火で焼ける肉の匂い。香辛料。煮込み料理の湯気。エルダやグラーツより、鼻に残る香りが強い。
湊は一軒の屋台で足を止めた。
鷹の翼を持つ女が、太い串へ肉を刺して焼いている。炭へ脂が落ちるたび、じゅっと音がして煙が上がった。
「一本ください」
「あいよ。銅貨三枚」
受け取った串は熱かった。
一口齧る。
肉汁と一緒に辛味が広がった。舌が少し痺れる。それでも旨い。
足元から、視線を感じた。
——にく。
「見れば分かる」
——シロも。
「従魔肉があるだろ」
——あれはあれ。これはこれ。
「駄目」
——けち。
肩の上でクロが鼻を動かした。
「……確かに悪くない匂いだな」
「食べる?」
「一口だけなら」
少しちぎって差し出す。
クロは慎重に匂いを嗅いでから口にした。
「辛い」
「だろ」
「だが悪くない」
シロの耳が立つ。
——シロも。
「駄目」
——ずるい。
騒ぐシロを連れて、また歩き出した。
体格の大きい獣人が多かった。熊族や牛族は、湊より頭二つほど大きい。それでも、すれ違えば自然に肩を避ける。目が合えば軽く顎を引く者もいた。
誰も、湊が人間だからと足を止めなかった。
「いい街だな」
「言っただろう。お前には合うと思う、と」
夕日が通りを橙色に染めていた。
湊は残った肉を齧った。
*
賑やかな通りから一本外れた。
少し進んだだけで、匂いが変わった。
焼いた肉や香辛料の匂いが遠のき、湿った木と古い土の匂いが強くなる。
建物も古い。崩れかけた壁。板で塞がれた窓。細い路地には日が届かず、さっきまで聞こえていた笑い声も遠かった。
「……こんな場所もあるのか」
「どの街にもある」
クロの声が低くなる。
「獣人の国だからといって、皆が同じ暮らしをしているわけではない」
路地の奥に、子供が三人いた。
痩せた獣人の子供たちが、壁際にしゃがんでいる。湊を見ると、すぐに目を逸らした。
湊も足を止めずに歩いた。
その時。
小さな影が、横から飛び出した。
肩が腰へぶつかる。
右手が急に軽くなった。
「——あ」
肉串がない。
振り向いた時には、影はもう路地の奥へ入っていた。
クロの尻尾が跳ねる。
「湊。ポーチも見ろ」
腰へ手をやる。
口が開いていた。
さっき受け取った釣りの銅貨も消えている。
「……速いな」
「感心している場合か」
クロが暗い路地を見る。
「シロ」
小さな銀の耳が立った。
「追え」
——うん。
シロが駆け出した。
子犬ほどの銀色の影が、路地の奥へ消える。
湊も走った。
左。
右。
また左。
建物の隙間を抜け、垂れ下がる洗濯物を避ける。
角を曲がった先で、シロが止まっていた。
行き止まりだった。
壁を背にして、小さな子供がうずくまっている。
灰色の毛並み。頭の上に尖った狼の耳。ぼろぼろの服に裸足。七つか八つくらいの、痩せた男の子だった。
右手には、半分ほど齧られた肉串。
左手には、銅貨が握られている。
シロはその前に立ち、尻尾を振っていた。
追いついただけで、唸ってもいない。
子供の目がシロへ向く。
その時、シロの体が膨らんだ。
「シロ」
止めるより早かった。
子犬ほどだった体が一気に大きくなり、銀色の毛皮が狭い路地を埋める。肩は湊の腰を越え、青い目が薄暗がりの中で光った。
——あ。
シロ自身が固まった。
追いかけることに夢中で、戻してしまったらしい。
子供の顔から血の気が引く。
肉串が落ちた。
銅貨が地面へ散る。
「ぎ……」
唇が震えた。
「銀、狼……?」
そのまま膝をつく。
次いで、額まで地面へ押しつけた。
「大いなる狼の……神獣、さま……!」
クロが小さく息を吐いた。
「……やってくれたな、馬鹿犬」
——みなと。このこ、こわがってる。シロ、なにもしてない。
「分かってる」
湊はしゃがんだ。
「顔を上げろ」
子供は動かない。
「シロは噛まない」
ようやく、灰色の耳が少し動いた。
恐る恐る顔が上がる。涙が頬を伝っていた。
シロが鼻先を近づけ、匂いを嗅ぐ。
——このこ、おなか、すいてる。
湊は地面へ落ちた肉串を拾った。
砂がついている。
もう食べられない。
「……名前は」
「……ルゥ」
掠れた声だった。
「ルゥ。これは返してもらう」
手の中の肉串を見せる。
「もう食べられないけどな」
ルゥの目に、また涙が溜まった。
「ご、ごめんなさい……おなか、すいて……」
湊は散らばった銅貨を拾った。
一枚。
二枚。
砂を払って、小さな手へ戻す。
「これで新しいのを買ってこい」
ルゥが目を丸くした。
「……いいの?」
「腹、減ってるんだろ」
小さな指が銅貨を握る。
その横で、シロがまだ大きいまま立っていた。
路地いっぱいの銀色だ。
ルゥが見上げる。
「……神獣さまは、この人の……?」
「犬だ」
「犬……?」
クロが溜息をついた。
「犬ではない。……まあ、今はそういうことにしておけ」
ルゥには聞こえないくらいの声だった。
湊はシロの首へ手を置く。
「小さくなれ」
——せまい。
「そこで縮めるだけだろ」
——……うん。
銀色の巨体が小さくなる。
子犬ほどのシロへ戻ると、路地にようやく隙間ができた。
ルゥが口を開けたまま見ている。
「ち、縮んだ……」
「肉、買ってこい」
ルゥが我に返った。
銅貨を握りしめ、路地を走っていく。
「走るなよ」
もう遅かった。
裸足の足音が遠ざかる。
クロが言う。
「戻ってこないかもしれないぞ」
「かもな」
「……お前は甘い」
「知ってる」
しばらく待った。
シロは小さな姿のまま、道の先を見ている。
——もどるよ。
「分かるのか」
——におい。まだ、ちかい。
やがて、足音が戻ってきた。
ルゥだった。
肉串を二本抱え、息を切らしている。
「か、買ってきた……! お釣りも……!」
差し出された銅貨を、湊は受け取った。
肉串も一本だけ取る。
「もう一本はお前の」
「……え」
「食え」
ルゥはしばらく肉串を見ていた。
それから、大きく齧った。
頬が膨らむ。
目から涙が落ちた。
今度は、さっきとは違う涙だった。
湊も肉を齧る。
辛い。
さっきと同じ味がした。
足元では、シロがルゥのそばへ座っている。
ルゥが恐る恐る手を伸ばした。
小さな銀の頭へ触れる。
シロの尻尾が揺れた。
「……ほんとに、神獣さま……?」
「犬だ」
「でも、さっき、おっきくなって……銀色で……伝承の、大いなる狼と……」
肩の上で、クロの尾が一度だけ動いた。
「広まるな、これは」
湊は答えず、肉串をもう一口齧った。
夕日が細い路地へ差し込んだ。
古びた壁と、灰色の耳と、小さくなった銀の毛を、同じ橙色に染めていた。




