表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/64

国境

数週間が過ぎた。


グラーツでの暮らしにも、すっかり慣れていた。朝は街外れで苦無を投げ、昼は依頼をこなし、夜は装備を手入れする。


右手の紋様は、毎日一度光った。


その頃、よく出るようになったものがある。


従魔肉だった。


最初に出た時、掌に現れたのは拳ほどの赤黒い肉の塊だった。触れると、意味が流れ込んでくる。


従魔専用の高栄養肉。従魔の体を養い、成長を促す。


「……肉か」


クロが鼻先を寄せる。


「従魔肉だな。普通の肉とは違う。市場ではまず手に入らん」


足元で、小さなシロの鼻がひくひく動いた。


——にく。おいしそう。


「お前のだ」


渡すと、三口で消えた。


——おいしい。もっと。


「今日は一個」


翌日も従魔肉だった。


その次の日も。


三日続いたところで、湊は掌の肉を見下ろした。


「……また肉か」


窓枠のクロが欠伸をする。


「お前の能力は、シロを太らせたいらしい」


——ふとらない。


シロの耳が立つ。


「食費が浮くのは助かる」


それは本当だった。元の大きさへ戻れば、シロは人間の腰を越える銀狼だ。食べる量も多い。従魔肉が出た日は、市場で買う肉を減らせる。


数週間で、従魔肉は十回以上出た。直接体へ効く回復や回復薬が出た日もあり、紋様を見送った日も何度かある。


シロの銀毛には以前より艶が出ていた。青い目も、どこか澄んで見える。


——みなと。シロ、つよくなった。


「分かるのか」


——うん。からだ、あったかい。


クロが尻尾を揺らした。


「従魔肉の影響かもしれんな。成長を促すものだっただろう」


湊はシロを見る。


子犬ほどの体で座り、前脚を舐めて顔をこすっている。


クロと同じ仕草だった。


「……真似したのか」


——きれいに、する。


クロが目を逸らした。


「私は何も教えていない」



ある夜、湊が苦無へ万能油を薄く塗っていると、クロが窓辺から口を開いた。


「湊。そろそろ、この国を出るぞ」


手が止まる。


「国を?」


「お前が召喚された国だ。いつまでも中にいる必要はない」


「でも、今は——」


「《存在消去》が効いている。王城でお前を見た者がいても、その記憶と今のお前を簡単には結び付けられんはずだ」


クロの金色の目が細くなる。


「だからといって、わざわざ近くに居続ける理由もない。万が一は減らしておけ」


湊は苦無の刃を布で拭った。


「それに」


クロが窓の外を見る。


夜のグラーツに、炉の赤い光がまだいくつか残っている。


「お前はこの世界を見たいのだろう。この国の外へ出なければ、見えないものもある」


「……どこへ行く」


「南西だ。国境の先に緩衝地帯がある。そこを抜ければ獣人国だ」


「獣人国」


「今の国名はラグナ。王の名を国名にする国でな。王が代われば、国の名も変わる」


「変わってるな」


「私もそう思う」


クロの尻尾が一度揺れる。


「だが、悪くない国だ。強い者を敬う。種族で人を決めつける者も、グランデルよりはずっと少ない」


クロが湊を見る。


「お前には合うと思うぞ」



翌日、冒険者ギルドで南西へ向かう方法を聞いた。


一番確実なのは、商隊へ護衛として加わることだった。


「ちょうど出てるわよ」


眼鏡の職員が依頼書を広げた。


「ラグナ国のバルムまで。馬車十二台の大きな商隊で、護衛の冒険者も三組つく予定。報酬は片道で銀貨十五枚。道中の食事も商隊持ち」


「受ける」


返事が早かったのか、職員が少し笑った。


「ミナトくん、国境を越えるのね」


「ああ」


「寂しくなるわね」


湊は何と返せばいいか分からず、黙った。


「冗談よ。出発は明後日の朝。南門集合ね」



出発の朝。


南門前には十二台の幌馬車が並び、馬の嘶きと荷を積む声が重なっていた。革と干し草、それに土埃の匂いがする。


護衛の冒険者たちも集まっている。


剣士。大盾を背負った男。二人の女性魔術師。フードを深く被った斥候。ほかにも槍や弓を持った者がいて、皆、旅慣れた動きをしていた。


湊は商隊の後方へ回った。


肩にはクロ。足元には子犬ほどのシロ。


「お前も護衛か?」


声をかけてきたのは、剣を背負った若い男だった。


「ああ」


「一人?」


「ああ」


男が少し眉を上げる。


すぐ横にいた女性が、その脇を肘で小突いた。


「やめなよ。ソロなんて珍しくないでしょ」


「いや、若いなと思っただけだって」


男は笑って、手を差し出した。


「俺はカイル。よろしくな」


「湊」


「ミナト。変わった名前だな」


カイルの目が足元へ落ちる。


「その犬、可愛いな」


シロの尻尾が振れた。


——ほめられた。


「調子に乗るな」


「犬に話しかけてるのか?」


湊は答えなかった。


肩の上でクロが小さく鼻を鳴らした。



商隊が動き出した。


石畳だった道は、やがて土へ変わる。車輪が乾いた音を立て、十二台の馬車が長い列になって南西へ進んだ。


グラーツの煙が、少しずつ遠ざかる。


湊は後方の馬車に沿って歩いた。列の中に紛れている方が楽だった。


「国境では、商隊単位で書類を出す」


クロが声を落とす。


「荷は調べられるだろうが、護衛一人一人を細かく詮索することは少ない」


「分かってる」


「なら普通にしていろ。変に隠れれば、そちらの方が目立つ」


「ああ」


道中は穏やかだった。


一度、街道脇の林から角猪の群れが出た。前方の護衛たちがすぐに動き、湊が短剣へ手をかける前に片付いた。


動く必要がないなら、動かない。


二度目は、夜営中だった。


眠りの浅かったシロが先に耳を立て、少し遅れて湊も草を擦る音に気づいた。


大蜥蜴が一匹、荷馬車の陰へ回り込もうとしている。


湊は《隠密》で気配を薄くし、《音操》で足音を消した。


暗がりを詰める。


大蜥蜴が首を持ち上げるより先に、苦無を投げた。


短い風切り音。


刃は首の付け根へ深く刺さり、大蜥蜴が一度だけ地面を掻いた。


それで終わった。


遅れてカイルたちが駆けつける。


「……いつの間に」


「気づいたから」


湊は苦無を抜き、布で血を拭った。


カイルが地面と湊を交互に見る。


「いや、そうじゃなくて。近づく音すらしなかったぞ」


「消してた」


「消してた?」


湊は苦無を腰へ戻した。


カイルは何か聞きたそうな顔をしたが、結局やめた。


それ以降、余計な質問はなかった。



五日目の昼。


街道の先に、石造りの関所が見えた。


高い門。その両側に兵士が立ち、グランデル王国の旗が風を受けている。


馬車の速度が落ちた。


商人たちが書類を取り出し、列を整える。


湊は馬車と馬車の間へ入った。


肩のクロは目を閉じている。小さなシロは、荷車の横を歩く犬たちに混じっていた。


「落ち着け」


クロが耳元で言う。


「お前は商隊の護衛だ。それだけだ」


「ああ」


理屈では、気づかれないはずだった。


それでも。


あの紋章を目にすると、地下牢の冷たい石の匂いが一瞬だけ蘇った。


商隊の先頭で、書類の確認が始まる。


幌が一台ずつ開かれ、荷が調べられていく。


護衛たちは横を歩いて、そのまま門を抜けていた。


湊の番が近づく。


足を止めない。


兵士の前を通る。


視線が一度だけ向いた。


黒い髪。


肩の黒猫。


足元の銀色の子犬。


兵士の目は、そこで止まらなかった。


「次」


声が後ろへ飛ぶ。


湊は歩き続けた。


振り返らない。


馬車の車輪が石を鳴らし、人足たちの話し声が続く。その音に紛れたまま、門を抜けた。


しばらくして、クロが小さく息を吐く。


「——終わった」


湊も息を吐いた。


肩に入っていた力が、ようやく抜けた。



国境の先には、荒れた土地が続いていた。


どちらの国にも属さない緩衝地帯。低い草の間から岩が突き出し、吹きつける風には乾いた土の匂いが混じる。


商隊の列が少し詰まった。


ここでは盗賊も出るらしい。


護衛たちの会話が減り、視線が街道の左右へ散る。


何事もないまま、一日が終わった。


二日目も同じだった。


夕方近くになって、荒れ地の先から緑が増え始めた。


そして、緩衝地帯を抜ける。


草原が広がった。


見渡す限りの緑だった。


風が草を押し、一斉に傾けていく。波が走るように色が変わる。遮る壁も、林もない。


空が広い。


シロが足を止めた。


青い目が草原を映している。


次の瞬間、小さな体が膨らんだ。


銀の毛が伸び、四肢が太くなる。人間の腰を越える大きさへ戻ると、シロは一度だけ湊を見た。


——ひろい。


「ああ」


それだけで十分だったらしい。


シロが走り出した。


銀色の影が、緑の中を駆けていく。草を蹴る音が風に混じり、長い尾が大きく揺れた。


近くを歩いていたカイルが、口を開けた。


「……あの子犬、何だ?」


「銀狼」


「銀狼って、あの銀狼か?」


「ああ」


「……でかくなるのか」


「元はこっち」


カイルはしばらく、草原を走り回るシロを見ていた。


「ソロの理由が、ちょっと分かった気がする」


湊は答えなかった。


肩の上で、クロが風に目を細める。


「獣人国だ」


前方には、まだ街は見えない。


草原だけが続いている。


「ここから先は、お前の知らない場所だ」


湊は草を踏んだ。


柔らかい土が、靴の下で沈む。


シロが戻ってきた。息を弾ませ、湊の横へ並ぶ。


——たのしい。


「そうか」


——みなと、はしらないの?


「走らない」


——つまらない。


クロが溜息をつく。


「先は長いぞ。バルムまで、あと二日だ」


風が吹いた。


草の匂いがした。


草原の風が、三人の上を吹き抜けていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ