国境
数週間が過ぎた。
グラーツでの暮らしにも、すっかり慣れていた。朝は街外れで苦無を投げ、昼は依頼をこなし、夜は装備を手入れする。
右手の紋様は、毎日一度光った。
その頃、よく出るようになったものがある。
従魔肉だった。
最初に出た時、掌に現れたのは拳ほどの赤黒い肉の塊だった。触れると、意味が流れ込んでくる。
従魔専用の高栄養肉。従魔の体を養い、成長を促す。
「……肉か」
クロが鼻先を寄せる。
「従魔肉だな。普通の肉とは違う。市場ではまず手に入らん」
足元で、小さなシロの鼻がひくひく動いた。
——にく。おいしそう。
「お前のだ」
渡すと、三口で消えた。
——おいしい。もっと。
「今日は一個」
翌日も従魔肉だった。
その次の日も。
三日続いたところで、湊は掌の肉を見下ろした。
「……また肉か」
窓枠のクロが欠伸をする。
「お前の能力は、シロを太らせたいらしい」
——ふとらない。
シロの耳が立つ。
「食費が浮くのは助かる」
それは本当だった。元の大きさへ戻れば、シロは人間の腰を越える銀狼だ。食べる量も多い。従魔肉が出た日は、市場で買う肉を減らせる。
数週間で、従魔肉は十回以上出た。直接体へ効く回復や回復薬が出た日もあり、紋様を見送った日も何度かある。
シロの銀毛には以前より艶が出ていた。青い目も、どこか澄んで見える。
——みなと。シロ、つよくなった。
「分かるのか」
——うん。からだ、あったかい。
クロが尻尾を揺らした。
「従魔肉の影響かもしれんな。成長を促すものだっただろう」
湊はシロを見る。
子犬ほどの体で座り、前脚を舐めて顔をこすっている。
クロと同じ仕草だった。
「……真似したのか」
——きれいに、する。
クロが目を逸らした。
「私は何も教えていない」
*
ある夜、湊が苦無へ万能油を薄く塗っていると、クロが窓辺から口を開いた。
「湊。そろそろ、この国を出るぞ」
手が止まる。
「国を?」
「お前が召喚された国だ。いつまでも中にいる必要はない」
「でも、今は——」
「《存在消去》が効いている。王城でお前を見た者がいても、その記憶と今のお前を簡単には結び付けられんはずだ」
クロの金色の目が細くなる。
「だからといって、わざわざ近くに居続ける理由もない。万が一は減らしておけ」
湊は苦無の刃を布で拭った。
「それに」
クロが窓の外を見る。
夜のグラーツに、炉の赤い光がまだいくつか残っている。
「お前はこの世界を見たいのだろう。この国の外へ出なければ、見えないものもある」
「……どこへ行く」
「南西だ。国境の先に緩衝地帯がある。そこを抜ければ獣人国だ」
「獣人国」
「今の国名はラグナ。王の名を国名にする国でな。王が代われば、国の名も変わる」
「変わってるな」
「私もそう思う」
クロの尻尾が一度揺れる。
「だが、悪くない国だ。強い者を敬う。種族で人を決めつける者も、グランデルよりはずっと少ない」
クロが湊を見る。
「お前には合うと思うぞ」
*
翌日、冒険者ギルドで南西へ向かう方法を聞いた。
一番確実なのは、商隊へ護衛として加わることだった。
「ちょうど出てるわよ」
眼鏡の職員が依頼書を広げた。
「ラグナ国のバルムまで。馬車十二台の大きな商隊で、護衛の冒険者も三組つく予定。報酬は片道で銀貨十五枚。道中の食事も商隊持ち」
「受ける」
返事が早かったのか、職員が少し笑った。
「ミナトくん、国境を越えるのね」
「ああ」
「寂しくなるわね」
湊は何と返せばいいか分からず、黙った。
「冗談よ。出発は明後日の朝。南門集合ね」
*
出発の朝。
南門前には十二台の幌馬車が並び、馬の嘶きと荷を積む声が重なっていた。革と干し草、それに土埃の匂いがする。
護衛の冒険者たちも集まっている。
剣士。大盾を背負った男。二人の女性魔術師。フードを深く被った斥候。ほかにも槍や弓を持った者がいて、皆、旅慣れた動きをしていた。
湊は商隊の後方へ回った。
肩にはクロ。足元には子犬ほどのシロ。
「お前も護衛か?」
声をかけてきたのは、剣を背負った若い男だった。
「ああ」
「一人?」
「ああ」
男が少し眉を上げる。
すぐ横にいた女性が、その脇を肘で小突いた。
「やめなよ。ソロなんて珍しくないでしょ」
「いや、若いなと思っただけだって」
男は笑って、手を差し出した。
「俺はカイル。よろしくな」
「湊」
「ミナト。変わった名前だな」
カイルの目が足元へ落ちる。
「その犬、可愛いな」
シロの尻尾が振れた。
——ほめられた。
「調子に乗るな」
「犬に話しかけてるのか?」
湊は答えなかった。
肩の上でクロが小さく鼻を鳴らした。
*
商隊が動き出した。
石畳だった道は、やがて土へ変わる。車輪が乾いた音を立て、十二台の馬車が長い列になって南西へ進んだ。
グラーツの煙が、少しずつ遠ざかる。
湊は後方の馬車に沿って歩いた。列の中に紛れている方が楽だった。
「国境では、商隊単位で書類を出す」
クロが声を落とす。
「荷は調べられるだろうが、護衛一人一人を細かく詮索することは少ない」
「分かってる」
「なら普通にしていろ。変に隠れれば、そちらの方が目立つ」
「ああ」
道中は穏やかだった。
一度、街道脇の林から角猪の群れが出た。前方の護衛たちがすぐに動き、湊が短剣へ手をかける前に片付いた。
動く必要がないなら、動かない。
二度目は、夜営中だった。
眠りの浅かったシロが先に耳を立て、少し遅れて湊も草を擦る音に気づいた。
大蜥蜴が一匹、荷馬車の陰へ回り込もうとしている。
湊は《隠密》で気配を薄くし、《音操》で足音を消した。
暗がりを詰める。
大蜥蜴が首を持ち上げるより先に、苦無を投げた。
短い風切り音。
刃は首の付け根へ深く刺さり、大蜥蜴が一度だけ地面を掻いた。
それで終わった。
遅れてカイルたちが駆けつける。
「……いつの間に」
「気づいたから」
湊は苦無を抜き、布で血を拭った。
カイルが地面と湊を交互に見る。
「いや、そうじゃなくて。近づく音すらしなかったぞ」
「消してた」
「消してた?」
湊は苦無を腰へ戻した。
カイルは何か聞きたそうな顔をしたが、結局やめた。
それ以降、余計な質問はなかった。
*
五日目の昼。
街道の先に、石造りの関所が見えた。
高い門。その両側に兵士が立ち、グランデル王国の旗が風を受けている。
馬車の速度が落ちた。
商人たちが書類を取り出し、列を整える。
湊は馬車と馬車の間へ入った。
肩のクロは目を閉じている。小さなシロは、荷車の横を歩く犬たちに混じっていた。
「落ち着け」
クロが耳元で言う。
「お前は商隊の護衛だ。それだけだ」
「ああ」
理屈では、気づかれないはずだった。
それでも。
あの紋章を目にすると、地下牢の冷たい石の匂いが一瞬だけ蘇った。
商隊の先頭で、書類の確認が始まる。
幌が一台ずつ開かれ、荷が調べられていく。
護衛たちは横を歩いて、そのまま門を抜けていた。
湊の番が近づく。
足を止めない。
兵士の前を通る。
視線が一度だけ向いた。
黒い髪。
肩の黒猫。
足元の銀色の子犬。
兵士の目は、そこで止まらなかった。
「次」
声が後ろへ飛ぶ。
湊は歩き続けた。
振り返らない。
馬車の車輪が石を鳴らし、人足たちの話し声が続く。その音に紛れたまま、門を抜けた。
しばらくして、クロが小さく息を吐く。
「——終わった」
湊も息を吐いた。
肩に入っていた力が、ようやく抜けた。
*
国境の先には、荒れた土地が続いていた。
どちらの国にも属さない緩衝地帯。低い草の間から岩が突き出し、吹きつける風には乾いた土の匂いが混じる。
商隊の列が少し詰まった。
ここでは盗賊も出るらしい。
護衛たちの会話が減り、視線が街道の左右へ散る。
何事もないまま、一日が終わった。
二日目も同じだった。
夕方近くになって、荒れ地の先から緑が増え始めた。
そして、緩衝地帯を抜ける。
草原が広がった。
見渡す限りの緑だった。
風が草を押し、一斉に傾けていく。波が走るように色が変わる。遮る壁も、林もない。
空が広い。
シロが足を止めた。
青い目が草原を映している。
次の瞬間、小さな体が膨らんだ。
銀の毛が伸び、四肢が太くなる。人間の腰を越える大きさへ戻ると、シロは一度だけ湊を見た。
——ひろい。
「ああ」
それだけで十分だったらしい。
シロが走り出した。
銀色の影が、緑の中を駆けていく。草を蹴る音が風に混じり、長い尾が大きく揺れた。
近くを歩いていたカイルが、口を開けた。
「……あの子犬、何だ?」
「銀狼」
「銀狼って、あの銀狼か?」
「ああ」
「……でかくなるのか」
「元はこっち」
カイルはしばらく、草原を走り回るシロを見ていた。
「ソロの理由が、ちょっと分かった気がする」
湊は答えなかった。
肩の上で、クロが風に目を細める。
「獣人国だ」
前方には、まだ街は見えない。
草原だけが続いている。
「ここから先は、お前の知らない場所だ」
湊は草を踏んだ。
柔らかい土が、靴の下で沈む。
シロが戻ってきた。息を弾ませ、湊の横へ並ぶ。
——たのしい。
「そうか」
——みなと、はしらないの?
「走らない」
——つまらない。
クロが溜息をつく。
「先は長いぞ。バルムまで、あと二日だ」
風が吹いた。
草の匂いがした。
草原の風が、三人の上を吹き抜けていった。




