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剣聖 ─リーネ視点─

ドラウグ山脈への街道を、リーネは一人で歩いていた。


朝のうちにエルダを出た。荷物は小さな革袋一つ。剣は腰に一本。それだけで十分だった。数百年の旅で、持ち物は減り続けた。必要なものは、いつも思ったより少ない。


北へ向かう街道は空いていた。古竜の噂が広まったのだろう。商人の馬車も、旅人の姿もない。風だけが草原を渡っていた。


——ミナトは、もうどこへ行っても大丈夫。


自分で書いた言葉が、まだ指先に残っていた。


あの一行を書くのに、三度書き直した。最初は「また会おう」と書いた。消した。次は「待っていて」と書いた。それも消した。


最後に残ったのが、あの言葉だった。


送り出す言葉。


手紙を受付に預けた時、自分が何をしているのかは分かっていた。三十年前と同じだ。大切な人を見送る時、自分はいつも手紙を残す。


直接言えないから。


顔を見たら、行けなくなるから。



歩きながら、ミナトのことを考えていた。


ギルドの図書室で初めて会った日のことを覚えている。窓際の椅子で本を読んでいたら、扉が開いた。黒い髪の少年が入ってきた。肩に黒猫を乗せて。


最初に目を引いたのは、目だった。


暗い目。


何も映していない目。生きているのに、生きることに興味がない目。


——ああ、この子は壊れている。


そう思った。同時に、胸の奥で何かが動いた。


あの目を、知っていた。


三十年前。初めて会った時の、あの人の目に似ていた。



世界樹の森を出たのは、もう何百年も前のことだ。


ハイエルフの王宮。白い石の回廊。世界樹の根が壁を這い、天井まで届いている。葉の隙間から落ちる光が、床へ緑の影を揺らしていた。


末の娘だった。


兄と姉が七人。王位継承権は遥か遠い。政治にも、外交にも、戦にも関わる必要がなかった。


自由だった。


自由すぎた。


剣を握ったのは、退屈だったからだ。


ハイエルフの王族は魔法を学ぶ。それが伝統で、格式で、正しいとされていた。末の娘が剣を振るうのは異端だったが、誰も止めなかった。


末の娘だから。好きにさせておけばいい。どうせ飽きる。


飽きなかった。


百年で、王宮の剣士を全て超えた。二百年で、大陸に並ぶ者がいなくなった。


退屈だった。


世界樹の森は美しかった。妖精たちが枝の間を飛び、光の粒が空気に溶けていた。エルフの民は穏やかで、争いを好まず、千年の時を静かに生きていた。


美しくて、退屈だった。


国を出た。


父王は何も言わなかった。母は少しだけ泣いた。兄たちは呆れた顔をした。姉の一人だけが、門まで見送りに来た。


「帰っておいで。いつでも」


「うん」


帰らなかった。



世界を歩いた。


人間の街。ドワーフの鍛冶場。獣人の草原。山を越え、海を渡った。その先で砂漠を越え、氷の大地も踏んだ。


どこへ行っても、同じだった。


強い者と戦った。勝った。また歩いた。名前が広まった。白銀のリーネ。大陸最強の剣士。


退屈だった。


何百年も生きて、ほとんどのものに飽きた。景色も、食べ物も、人も。


人間は短い。五十年、六十年で死ぬ。仲良くなっても、すぐにいなくなる。最初は悲しかった。そのうち、悲しむことにも慣れた。


慣れることが、一番怖かった。



勇者に会ったのは、偶然だった。


小さな村の酒場。リーネが一人で飲んでいた。隅の席に、見慣れない男が座っていた。


黒い髪。この大陸では珍しい。服装も奇妙だった。この世界にはない布地。この世界にはない縫い方。


——異世界人だ。


すぐに分かった。何百年も生きていれば、この世界にないものは目につく。


男はリーネに気づいた。目が合った。


暗い目だった。


何かを背負っている目。何かを失った目。それでいて、折れていない目。


「隣、いいですか」


男が言った。


「いいよ」


それだけだった。


名前を聞いた。教えてくれた。どこから来たのか聞いた。


「遠くから」


そう答えた。


ミナトと同じだった。


酒を飲んだ。男は強くなかった。二杯で顔が赤くなった。リーネは十杯飲んでも変わらなかった。ハイエルフの肝臓は頑丈だ。


「あなた、強いんですか」


「強いよ。たぶん、この大陸で一番」


「へえ」


男は驚かなかった。信じていないのではない。強さそのものに、あまり興味がないようだった。


「俺は弱いです。でも、やらなきゃいけないことがある」


「何を」


「魔王を、倒さなきゃいけない」


リーネは杯を置いた。


「一人で?」


「一人しかいないので」


「馬鹿だね」


「よく言われます」


男が笑った。


暗い目のまま、笑った。


——ああ。


その笑い方を見た時、胸の奥で、何百年も固く閉じていた何かが音もなく壊れた。


「あたしも行く」


自分の声が聞こえた。


男が目を見開く。


「え」


「暇だから」


嘘だった。


暇だから行くのではなかった。でも、本当の理由は言えなかった。言葉にしたら、壊れそうだった。



仲間が増えた。


一人、また一人。勇者の周りに人が集まった。種族も、性格も、目的もばらばらだった。それでも、あの人の隣にいると、不思議と一つになれた。


楽しかった。


何百年ぶりかの、楽しい日々だった。


戦いは厳しかった。何度も死にかけた。仲間を庇って傷を負った。仲間に庇われて泣いた。


泣いたのは、百年ぶりだった。


魔王との最後の戦いが近づいた頃、リーネは怖かった。


戦いが怖いのではない。終わることが怖かった。


これが終わったら、あの人はどうなるのだろう。この旅が終わったら、みんなはどこへ行くのだろう。


——また、一人になるのだろうか。



魔王は倒れた。


旅は終わった。


そして、あの人はいなくなった。


気づいた時には、もうどこにもいなかった。荷物も、手紙も、何も残っていなかった。


探した。


三十年、探し続けた。


あの人と巡った土地を、一つずつ訪ね直した。あの酒場。あの村。あの山道。あの海辺。


どこにもいなかった。


手がかりは、何もなかった。


仲間たちも探していた。でも、誰も見つけられなかった。


三十年。


人間にとっては一世代。リーネにとっては、まばたきほどの時間。


なのに、こんなに長い三十年は初めてだった。



ミナトに会った時、心臓が止まるかと思った。


同じだった。


黒い髪。暗い目。この世界のものではない気配。「遠くから来た」と言うところまで。


違う人間だと分かっていた。顔も、声も、年齢も違う。あの人はもっと背が高くて、もっと不器用で、もっと——。


でも、目が同じだった。


何かを失って、それでも歩いている目。


文字を教えた。隣を歩いた。戦い方を見守った。


暇だから、と言い続けた。


嘘だった。


三十年前と同じ嘘だった。


ミナトは怖がらなかった。白銀の剣聖だと知っても、「いや」と即答した。あの人も、そうだった。リーネの強さに興味がなかった。隣にいることだけを、当たり前のように受け入れた。


——ああ、駄目だ。


重ねている。


あの人の影を、この子に重ねている。


分かっていた。分かっていて、止められなかった。


だから手紙を書いた。


送り出す言葉を。


直接言えないから。


顔を見たら、行けなくなるから。



日が傾いていた。


街道の先に、ドラウグ山脈の影が見え始めていた。灰色の岩肌が夕日に染まっている。古竜がいるのは、あの山の奥だ。


リーネは足を止めなかった。


腰の剣に手を触れる。柄が掌に馴染む。何百年も握り続けた感触。


古竜。


面倒な相手だ。


でも、負ける気はしない。


負ける気がしないことが、退屈の正体だった。


——ミナト。


あの子は今頃、何をしているだろう。あの不思議な黒猫に、小言を言われているだろうか。


少しだけ笑った。


「早く終わらせよう」


誰に言っているのか、自分でも分からなかった。


山脈が近づいていた。風が冷たくなり、岩の匂いに獣の匂いが混じる。


古い、強い匂い。


竜の匂いだ。


リーネは剣の柄を握り直した。


夕日が山脈の向こうへ沈んでいく。影が長く伸び、銀色の髪が風に揺れた。


リーネは歩き続けた。


一人で。


いつものように。


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