剣聖 ─リーネ視点─
ドラウグ山脈への街道を、リーネは一人で歩いていた。
朝のうちにエルダを出た。荷物は小さな革袋一つ。剣は腰に一本。それだけで十分だった。数百年の旅で、持ち物は減り続けた。必要なものは、いつも思ったより少ない。
北へ向かう街道は空いていた。古竜の噂が広まったのだろう。商人の馬車も、旅人の姿もない。風だけが草原を渡っていた。
——ミナトは、もうどこへ行っても大丈夫。
自分で書いた言葉が、まだ指先に残っていた。
あの一行を書くのに、三度書き直した。最初は「また会おう」と書いた。消した。次は「待っていて」と書いた。それも消した。
最後に残ったのが、あの言葉だった。
送り出す言葉。
手紙を受付に預けた時、自分が何をしているのかは分かっていた。三十年前と同じだ。大切な人を見送る時、自分はいつも手紙を残す。
直接言えないから。
顔を見たら、行けなくなるから。
*
歩きながら、ミナトのことを考えていた。
ギルドの図書室で初めて会った日のことを覚えている。窓際の椅子で本を読んでいたら、扉が開いた。黒い髪の少年が入ってきた。肩に黒猫を乗せて。
最初に目を引いたのは、目だった。
暗い目。
何も映していない目。生きているのに、生きることに興味がない目。
——ああ、この子は壊れている。
そう思った。同時に、胸の奥で何かが動いた。
あの目を、知っていた。
三十年前。初めて会った時の、あの人の目に似ていた。
*
世界樹の森を出たのは、もう何百年も前のことだ。
ハイエルフの王宮。白い石の回廊。世界樹の根が壁を這い、天井まで届いている。葉の隙間から落ちる光が、床へ緑の影を揺らしていた。
末の娘だった。
兄と姉が七人。王位継承権は遥か遠い。政治にも、外交にも、戦にも関わる必要がなかった。
自由だった。
自由すぎた。
剣を握ったのは、退屈だったからだ。
ハイエルフの王族は魔法を学ぶ。それが伝統で、格式で、正しいとされていた。末の娘が剣を振るうのは異端だったが、誰も止めなかった。
末の娘だから。好きにさせておけばいい。どうせ飽きる。
飽きなかった。
百年で、王宮の剣士を全て超えた。二百年で、大陸に並ぶ者がいなくなった。
退屈だった。
世界樹の森は美しかった。妖精たちが枝の間を飛び、光の粒が空気に溶けていた。エルフの民は穏やかで、争いを好まず、千年の時を静かに生きていた。
美しくて、退屈だった。
国を出た。
父王は何も言わなかった。母は少しだけ泣いた。兄たちは呆れた顔をした。姉の一人だけが、門まで見送りに来た。
「帰っておいで。いつでも」
「うん」
帰らなかった。
*
世界を歩いた。
人間の街。ドワーフの鍛冶場。獣人の草原。山を越え、海を渡った。その先で砂漠を越え、氷の大地も踏んだ。
どこへ行っても、同じだった。
強い者と戦った。勝った。また歩いた。名前が広まった。白銀のリーネ。大陸最強の剣士。
退屈だった。
何百年も生きて、ほとんどのものに飽きた。景色も、食べ物も、人も。
人間は短い。五十年、六十年で死ぬ。仲良くなっても、すぐにいなくなる。最初は悲しかった。そのうち、悲しむことにも慣れた。
慣れることが、一番怖かった。
*
勇者に会ったのは、偶然だった。
小さな村の酒場。リーネが一人で飲んでいた。隅の席に、見慣れない男が座っていた。
黒い髪。この大陸では珍しい。服装も奇妙だった。この世界にはない布地。この世界にはない縫い方。
——異世界人だ。
すぐに分かった。何百年も生きていれば、この世界にないものは目につく。
男はリーネに気づいた。目が合った。
暗い目だった。
何かを背負っている目。何かを失った目。それでいて、折れていない目。
「隣、いいですか」
男が言った。
「いいよ」
それだけだった。
名前を聞いた。教えてくれた。どこから来たのか聞いた。
「遠くから」
そう答えた。
ミナトと同じだった。
酒を飲んだ。男は強くなかった。二杯で顔が赤くなった。リーネは十杯飲んでも変わらなかった。ハイエルフの肝臓は頑丈だ。
「あなた、強いんですか」
「強いよ。たぶん、この大陸で一番」
「へえ」
男は驚かなかった。信じていないのではない。強さそのものに、あまり興味がないようだった。
「俺は弱いです。でも、やらなきゃいけないことがある」
「何を」
「魔王を、倒さなきゃいけない」
リーネは杯を置いた。
「一人で?」
「一人しかいないので」
「馬鹿だね」
「よく言われます」
男が笑った。
暗い目のまま、笑った。
——ああ。
その笑い方を見た時、胸の奥で、何百年も固く閉じていた何かが音もなく壊れた。
「あたしも行く」
自分の声が聞こえた。
男が目を見開く。
「え」
「暇だから」
嘘だった。
暇だから行くのではなかった。でも、本当の理由は言えなかった。言葉にしたら、壊れそうだった。
*
仲間が増えた。
一人、また一人。勇者の周りに人が集まった。種族も、性格も、目的もばらばらだった。それでも、あの人の隣にいると、不思議と一つになれた。
楽しかった。
何百年ぶりかの、楽しい日々だった。
戦いは厳しかった。何度も死にかけた。仲間を庇って傷を負った。仲間に庇われて泣いた。
泣いたのは、百年ぶりだった。
魔王との最後の戦いが近づいた頃、リーネは怖かった。
戦いが怖いのではない。終わることが怖かった。
これが終わったら、あの人はどうなるのだろう。この旅が終わったら、みんなはどこへ行くのだろう。
——また、一人になるのだろうか。
*
魔王は倒れた。
旅は終わった。
そして、あの人はいなくなった。
気づいた時には、もうどこにもいなかった。荷物も、手紙も、何も残っていなかった。
探した。
三十年、探し続けた。
あの人と巡った土地を、一つずつ訪ね直した。あの酒場。あの村。あの山道。あの海辺。
どこにもいなかった。
手がかりは、何もなかった。
仲間たちも探していた。でも、誰も見つけられなかった。
三十年。
人間にとっては一世代。リーネにとっては、まばたきほどの時間。
なのに、こんなに長い三十年は初めてだった。
*
ミナトに会った時、心臓が止まるかと思った。
同じだった。
黒い髪。暗い目。この世界のものではない気配。「遠くから来た」と言うところまで。
違う人間だと分かっていた。顔も、声も、年齢も違う。あの人はもっと背が高くて、もっと不器用で、もっと——。
でも、目が同じだった。
何かを失って、それでも歩いている目。
文字を教えた。隣を歩いた。戦い方を見守った。
暇だから、と言い続けた。
嘘だった。
三十年前と同じ嘘だった。
ミナトは怖がらなかった。白銀の剣聖だと知っても、「いや」と即答した。あの人も、そうだった。リーネの強さに興味がなかった。隣にいることだけを、当たり前のように受け入れた。
——ああ、駄目だ。
重ねている。
あの人の影を、この子に重ねている。
分かっていた。分かっていて、止められなかった。
だから手紙を書いた。
送り出す言葉を。
直接言えないから。
顔を見たら、行けなくなるから。
*
日が傾いていた。
街道の先に、ドラウグ山脈の影が見え始めていた。灰色の岩肌が夕日に染まっている。古竜がいるのは、あの山の奥だ。
リーネは足を止めなかった。
腰の剣に手を触れる。柄が掌に馴染む。何百年も握り続けた感触。
古竜。
面倒な相手だ。
でも、負ける気はしない。
負ける気がしないことが、退屈の正体だった。
——ミナト。
あの子は今頃、何をしているだろう。あの不思議な黒猫に、小言を言われているだろうか。
少しだけ笑った。
「早く終わらせよう」
誰に言っているのか、自分でも分からなかった。
山脈が近づいていた。風が冷たくなり、岩の匂いに獣の匂いが混じる。
古い、強い匂い。
竜の匂いだ。
リーネは剣の柄を握り直した。
夕日が山脈の向こうへ沈んでいく。影が長く伸び、銀色の髪が風に揺れた。
リーネは歩き続けた。
一人で。
いつものように。




