小さなシロ
苦無を受け取った翌日。
宿の部屋で、湊は苦無を一本ずつ確認していた。刃の状態、環の歪み、紐の巻き具合。六本とも問題ない。ガルドの仕事は正確だった。
クロが窓枠に座っている。
「苦無六本、短剣一本。お前の手札が増えたな」
「ああ」
「次は使い方を体に馴染ませろ。投げるだけではない。近接で刺す、抉る、受ける。短剣との切り替えも練習しろ」
湊は頷いた。
その日の夕方、右手の紋様が淡く光った。
湊は苦無の手入れをしていた。布で刃を拭い、一本ずつ傷がないか確かめているうちに、光は静かに消えた。
窓枠のクロはそれを見ていたが、何も言わなかった。
翌日の午後は、街外れの空き地で苦無を投げ続けた。
十歩。十五歩。少し離れるだけで、指を離す位置が変わる。真っ直ぐ刺さったと思えば、次は柄が木板を叩いた。
六本を拾い、また投げる。
短剣を抜いて踏み込み、途中で苦無へ持ち替える。逆の手でも投げてみる。クロは木陰から眺め、時々短い指示だけを飛ばした。
日が傾く頃には、肩から腕にかけて鈍い張りが残っていた。
宿へ戻り、装備を外す。
寝台へ腰を下ろしたところで、紋様が光った。
湊が意識を向ける。
何も現れなかった。
代わりに、温かなものが体の中を流れた。肩の張りがほどけ、腕の痛みが引く。歩き回って熱を持っていた足の裏まで軽くなった。
「……また直接効いた」
クロの尻尾が揺れる。
「また、ちょうど疲れている時か」
「偶然だろ」
「偶然にしては、出来すぎている気もするがな」
湊は光の消えた右手を見た。
答えは出ない。
それでも、痛みの消えた肩を一度回してから、苦無を拾い上げた。
その翌朝。
紋様が光り、湊は右手を握った。
今度も物は現れない。代わりに、隠密を得た時と同じ感覚が体の奥へ刻まれた。
意味が流れ込む。
——《認識阻害》。
自分という存在を、周囲の認識から薄くする力。
「認識阻害」
クロが顔を上げた。
「試せ」
湊は部屋の中央に立った。
まず《隠密》で気配を薄くする。《音操》で服の擦れる音や呼吸を消す。そこへ《認識阻害》を重ねた。
クロの金色の目が、湊へ向く。
すぐに、わずかに横へ逸れた。
また戻る。
「……妙だな」
「どう見える?」
「見えている。そこにいることも分かる。だが、意識が勝手にお前から外れる。目の前にいるのに、見落としそうになる」
湊は一歩動いた。
クロの目が追う。だが、追い切れずにまたずれた。
しばらくすると、胸が重くなった。呼吸も浅い。
湊は三つの力を解いた。
途端にクロの視線がまっすぐ戻る。
「一分くらいだ」
「三つ同時なら、それが限界か」
「ああ」
クロは少し考えた。
「短いが使える。近づく時、離れる時。それだけあれば十分な場面もある」
湊は自分の手を見る。
透明になるわけではない。
そこにいるのに、意識から滑り落ちる。
「隠密と音操だけじゃ、見られれば終わりだった」
「今度は、その目まで抜けられる」
クロの耳が動いた。
「使いどころを間違えるなよ。一分は長くない」
「ああ」
次の日、紋様は光ったが引かなかった。
その翌日の昼過ぎ。
掌に現れたのは、小さな硝子瓶だった。中には透明な液体が入っている。
——万能油。
刃物に塗れば切れ味を保ち、革へ使えば硬くなるのを防ぐ。金属なら錆も抑えられる。
「……地味だな」
クロが瓶を覗き込んだ。
「地味だが、お前には要るだろう。苦無が六本に短剣まである」
「そうだな」
湊は栓を確かめ、マジックバッグへしまった。
六日目の朝。
目を覚ました時、シロがいなかった。
湊は寝台から起き上がる。
いつも寝ている部屋の隅には、銀の毛が何本か落ちているだけだった。
「シロ」
返事がない。
胸の奥へ意識を向ける。
パスはある。
しかも近い。
すぐそばにいる。
湊は部屋を見回した。
毛布の上に、銀色の塊があった。
子犬ほどの大きさしかない。丸くなって眠っている。
「……シロ?」
小さな耳がぴくりと立った。
青い目が開く。
——おはよう。
声はシロだった。
クロも寝台から降り、毛布の上を覗き込む。
「……何だ、それは」
銀色の塊が伸びをした。小さな前脚を突き出し、背中を反らす。尻尾がぱたぱたと毛布を叩いた。
——できた。
「何ができた」
——ちいさく、なれた。
シロは起き上がり、湊の膝へ前脚を掛けた。
持ち上げる。
片手で足りた。
銀の毛皮は同じように柔らかく、掌に小さな心臓の鼓動が伝わってくる。
「……軽い」
——みなと、おおきい。
「俺が大きくなったんじゃない」
クロがシロの周りを歩く。鼻先を近づけ、匂いを確かめた。
「シロだな。匂いもパスも変わっていない」
「どういうことだ?」
クロはすぐには答えなかった。
「体の大きさを変える魔獣はいる。だが、かなり珍しい。上位種で見られる性質だ」
「上位種」
「普通の銀狼にできる芸当ではない」
それだけ言って、クロは窓枠へ戻った。
シロは湊の掌の上で丸くなる。
——あったかい。
「元の大きさに戻れる?」
——もどれる。
シロが目を閉じた。
次の瞬間、腕の中で銀の毛皮が膨らんだ。
「うわ」
湊は慌てて手を離す。
大型の銀狼が部屋いっぱいに立っていた。いつものシロだ。
——おおきい。
「分かった。小さくなって。部屋が狭い」
——うん。
また体が縮む。
子犬サイズになったシロが、今度は湊の膝へ飛び乗った。
クロが見下ろす。
「小さい時は力も落ちるだろう」
——うん。ちいさいと、よわい。
「なら、戦う時は戻れ。小さいまま噛みついても大した力は出ん」
——わかった。
小さな尻尾が膝の上で揺れる。
湊はシロの頭を撫でた。掌に収まる頭。耳が指の間に挟まる。
——きもちいい。
「これなら、店にも入れるな」
クロが言った。
「宿も楽になる。街を歩いても、前ほど騒がれんだろう」
湊は膝の上のシロを見る。
銀の毛皮は目立つ。それでも、この大きさなら珍しい犬で通りそうだった。
「街では小さくしていようか。戦う時は戻る」
——うん。
シロは膝から飛び降りた。
小さな足で部屋を一周する。途中で自分の尻尾が目に入ったらしく、くるりと回った。
もう一度。
——くるくる。
クロが目を逸らす。
「……見ていられない」
湊は少しだけ笑った。
一人と二匹で宿を出た。
小さなシロが湊の足元を歩く。通りを行く人が振り返ったが、今までのように距離を取る者はいない。
すれ違った女性が足を緩めた。
「可愛い犬ね」
シロの尻尾が勢いよく振れる。
——ほめられた。
「調子に乗るな」
——シロ、かわいい。
肩の上で、クロの爪が少しだけ食い込んだ。
「……次の話をしよう。この街でやることは終わったか」
湊は前を見た。
「そろそろ、次の街へ行こう」
「北か東だな。どちらにも冒険者ギルドの支部がある。依頼を受けながら進めばいい」
「ああ」
腰の苦無が、歩くたびに揺れる。
足元でシロが駆けた。
肩の上でクロが欠伸をした。




