苦無
翌朝、岩場を発った。
夜露が岩の表面を濡らし、朝の空気は冷たかった。シロが大きく体を振ると、銀の毛先から水滴が散る。
——さむい。
「走れば温まる」
——はしる。
シロは岩場を駆け下り、そのまま森の入口まで走った。そこで振り返り、尻尾を大きく揺らす。
——みなと、おそい。
「お前が速い」
肩の上でクロが欠伸をした。
「帰りは楽だな。道が分かっている」
森へ入ると、行きに踏んだ草がまだ倒れていた。湿った土には、自分たちの足跡も薄く残っている。
昼過ぎ、グラーツへ戻った。
門番は湊の顔を見て、次にシロを見る。首輪の金属板を確かめると、それだけで道を開けた。
「二度目は楽だな」
クロが小さく言った。
市場を通ると、シロの鼻が忙しなく動いた。湊は昨日の約束を思い出し、肉を少し多めに買う。
——にく。
「宿に着いてからだ」
——いま。
「駄目だ」
銀の耳が伏せた。
宿へ戻って肉を渡すと、一塊目は三口で消えた。二塊目は少しだけ長く噛んでいた。
——おいしい。
「味わって食え」
——あじわった。
クロが溜息をついた。
午後、ガルドの店へ向かった。
鍛冶通りには、今日も鉄を打つ音が重なっている。炉の熱と煤の匂いが通りまで流れ、店の奥では赤い火が揺れていた。
扉を開けると、ガルドは金床の前にいた。湊を見ると、今度はすぐに槌を置く。
「戻ったか」
「ああ」
湊はマジックバッグへ手を入れ、蒼鉄鉱を一つ取り出した。拳ほどの石を金床の横へ置くと、鈍く重い音がした。
ガルドの目が変わった。
石を手に取り、青い筋を指でなぞる。爪で軽く叩くと、澄んだ音が返った。
「……いい石だ」
湊は残り六つも並べた。
ガルドは一つずつ手に取り、炉の光へかざし、重さを確かめていく。表情はほとんど変わらない。ただ、石を扱う指先だけが妙に丁寧だった。
「三年ぶりだ。この色を見るのは」
最後の一つを置き、湊を見る。
「岩蜥蜴はどうした」
「三匹倒した。残りは逃げた」
「三匹。——一人でか」
「シロがいた」
店の入口にいるシロへ視線が向く。大きな体は中へ入れず、外から顔だけを覗かせていた。
「……あの狼が噛んだのか」
「鱗を砕いた」
ガルドの眉が上がった。何か言いかけたが、結局そのまま棚へ向かう。
革袋を持って戻り、銀貨を数えて湊の前へ置いた。
「二十枚。約束通りだ」
受け取ると、ずしりと重かった。今まで手にした中で、一番まとまった額だった。
「それと、装備を一つ打つ。何がいい」
湊は少し黙った。
鉱山で岩蜥蜴と戦った時、短剣では届かない間合いがあった。近づかなければ刃を入れられない。シロが押さえてくれなければ、もっと苦戦していただろう。
「一つ、頼みたいものがある」
「言え」
「見たことのない形だと思う。描いていいか」
ガルドが作業台を顎で示した。端に木炭と平らな板が置いてある。
湊は木炭を取り、覚えている形を描いた。
掌より少し長い刃。両刃で、断面は菱形。柄は短く、末端には環をつける。鍔はいらない。刃と柄を一つの金属から作る。
ガルドが横から覗き込んだ。
「……何だ、これは」
「投げる刃だ。刺すこともできる」
「投擲用の刃なら、この街にもある。だが、この形は見たことがないな」
板を手に取り、目を細める。
「刃と柄を一体で打つのか」
「ああ。柄には紐を巻くだけでいい」
「この環は?」
「指を掛ける。持つ時にも使えるし、紐を通せば腰にも吊れる」
ガルドは木炭を取り、板の余白へ断面を描いた。湊の線よりずっと迷いがない。
「菱形か。刺すにはいい。横から力がかかっても折れにくい」
板から目を上げる。
「誰が考えた」
「俺の国にあった」
「お前の国。——聞いたことのない国だな」
湊は答えなかった。
ガルドも追わなかった。
「素材は」
「蒼鉄鉱で打てるか」
一つを手に取り、掌で重さを確かめる。
「打てる。硬くて軽いから、投げる刃にも向いてる。この大きさなら、一つの石から二本は取れる。何本要る」
「六本」
「なら三つ使う。残り四つは俺がもらう。それで約束の装備分は相殺だ。文句はあるか」
「ない」
ガルドが鼻を鳴らした。
「三日くれ。——いや、二日だ」
板へもう一度目を落とす。口元が少しだけ上がっていた。
「この形は面白い。早く打ちたい」
炉へ向かい、背中を向けたまま手を振る。
「帰れ。仕事の邪魔だ」
二日後。
ガルドの店へ入ると、金床の上に布が敷かれていた。
その上に、六本の刃が並んでいる。
青みがかった銀色。蒼鉄鉱の色だった。
隣には黒い革のホルダーがある。腰へ巻く帯型で、左右に三本ずつ差せるよう、斜めに溝が切られていた。
ガルドは何も言わない。
湊もホルダーについては聞かなかった。
一本を手に取る。
軽い。短剣の半分以下しかない。それでも薄い刃には硬い密度があり、指先へ冷たさが伝わった。
菱形の断面。両刃。針のように尖った先端。柄には黒い紐が巻かれ、末端の環には指が一本通る。
自分が描いた形と同じだった。
けれど、ずっと綺麗だった。刃から柄へ続く線に無駄がなく、握った時の重心も自然に指の間へ収まる。
「……すごいな」
ガルドが腕を組む。
「図面通りに打っただけだ。だが、面白い刃だった。重心が独特でな。投げた時の飛び方を考えながら調整した」
湊は環へ指を掛け、柄を摘まむように持つ。腕を引くと、知っていた形がそのまま手の中へ収まった。
ガルドの目が動く。
「……使い方を知っているな」
「形を知ってるから」
六本をホルダーへ差し、腰へ巻く。
左右三本ずつ。手を下ろした位置から、ほとんど動かさず指が届く。抜く時に隣の刃へ触れないよう、溝の角度までわずかにずらしてあった。
「試しに投げたい」
「裏に的がある」
店の裏手には、厚い木板が立てかけてあった。
湊は十歩離れた。
腰から一本抜く。環へ指を掛け、手首を固める。耳の横まで引き、そのまま腕をまっすぐ振り抜いた。
風を切る短い音。
刃は大きく回らず、木板へ突き刺さった。
中心から拳一つ分ほど外れている。それでも刃先は深く入り、裏へ抜けかけていた。
ガルドが的へ近づく。
「貫通力は十分だ。蒼鉄鉱の硬さと、この形のおかげだな」
刺さった刃を横から見る。
「初めて投げたにしては悪くない」
湊は二本目を抜いた。
苦無を投げた経験はない。それでも、知っている動きをなぞれば、さっきより指を離す位置が分かった。
投げる。
今度は中心へ近づいた。
三本目。
さらに中心へ寄る。
ガルドは黙って見ていた。
六本すべて投げ終える頃には、最後の三本が的の中央付近へ集まっていた。
湊は一本ずつ抜いて確かめる。刃こぼれはない。木へ深く刺さった刃先も、形を崩していなかった。
六本を腰へ戻した。
「いい武器だ」
ガルドが鼻を鳴らす。
「当たり前だ。俺が打った」
クロの尻尾が肩の上で揺れた。
「これで、離れた相手にも刃が届くな」
湊は腰の六本へ触れた。
まだ狙った場所へ確実に当てられるわけじゃない。
それでも、手札が一つ増えた。
ガルドが店へ戻りかけ、足を止める。
「また蒼鉄鉱が要る時は言え。あの鉱山、お前が岩蜥蜴を追い払ったなら、しばらくは入れるだろう」
「ああ」
「それと」
振り返る。
「その刃に名前はあるのか。お前の国では」
湊は六本の刃を見る。
「苦無」
「クナイ。——変わった響きだな」
ガルドは一度だけ頷き、店の奥へ戻った。
シロがすぐに湊の腰へ鼻を寄せる。
——あたらしい。きらきら。
「触るな。切れる」
——シロ、かたい。きれない。
「……それでも、触るな」
シロが鼻を鳴らした。
鍛冶通りへ出ると、槌の音が夕方の空気に響いていた。
一人と二匹で宿へ戻る。
腰の苦無が、歩くたびに微かに揺れた。




