2話「塾」
2話「塾」
弟の迅が通っている高校は、偏差値で言うと55くらいの私立高校で、頭がいいわけでもない迅如きがトップを取っているらしい。
あのチャラけた制服の着こなしでトップというのはさぞや気分がいいだろう。
井の中の蛙大海を知らず。と思うかもしれないが、勉強に関しては、迅も割と謙虚だ。
如月家には、迅とは干支が一回りするくらい年上の兄がいる。
今は26、7(正確な年齢は忘れた)歳で、京都の大学院にいる。
ほとんど会わないから、我が家では忘れられがちだけれど、長い間、如月家は兄の仙の実力が支配していた。
迅は、自分がそこまで頭が良くないと知って、一時期とてもナイーブになっていた。
私? 私は、最初から適当にやっているから、悔しいなんて思わなかった。
親も、兄のエッジが利いたムーブを思い出して、自分のそこまででもなかったことを振り返って、私たちには多くを要求しなかった。
だから私は、高校でゆるゆるやっている。
兄は塾に行かなかったらしいけれど、それは兄がスーパー進学校にいたからで、私は危機感を持っているので、塾に行っている。
「お姉さんですよね?」
軽く体を折って、私の顔を覗き込むのは糸葉ちゃんだった。
制服の間から胸がチラリと見えた。
「糸葉ちゃん!」
「こんにちは」
「おんなじ塾だったんだ」
「みたいですね」
顔は明るい。私も少し嬉しい。
「敬語じゃなくてもいいのに」
「彼氏のお姉さんとタメ語は変ですよ」
そう言ってくすくすと笑う。
池袋の塾の数学の講座が終わって、私たちは外に出た。
「なんか食べる?」
「いいんですか?」
「もちろん。何がいい?」
「予算とかって」
「レストランに入るつもりはないから、2000円とか?」
糸葉ちゃんはうなずいた。
私は、よく行っている台湾まぜそばの店に糸葉ちゃんを連れていった。
「知ってる? 禁断の扉」
「いえ、初めて来ました」
10席もないカウンターで、もぐもぐと私が食べていると、糸葉ちゃんも乗ってくれた。
もし仮に、糸葉ちゃんが「食が細いんです」とか言ってちまちま食べる輩なら、もう二度とご飯を一緒に食べないだけ。
……糸葉ちゃんの麺の啜り方は、私個人的にはベスト3には入る上品さと気持ちの良さを備えていた。もう二度と一緒に食べない認定されてしまうのは、私の方じゃないかとすら思った。
完食し、ご飯で麺の器をツヤツヤにする。
糸葉ちゃんは私に、とても嬉しそうに「美味しかったです」と言った。
「大盛りにすればよかった」
彼氏の姉としては、100点満点の感想で「でも太っちゃいますね」と言われて、もう私は「禁断の扉」で大盛りは頼めなくなった。
「ごめん、遅くなっちゃって。結構池袋駅から遠いんだよね」
「いえ。私の家、近いので少し寄っていきます?」
「へ?」
***
「ただいまー」
「おかえり、お姉ちゃん。お客さんか」
出迎えてくれたのは、弟さんだった。「宮鬼夜湖です」
「如月公佳です」
「お姉ちゃんが友達連れてくるの珍しいな」
「塾で一緒なの」
そうお淑やかに言う糸葉ちゃんは、カバンを下ろすと私を洗面所に連れていった。
キッチンでかちゃかちゃ音がする。
夜湖くんがおもてなしの準備をしてくれているみたいだった。
「夜湖はいい子です」
「うん」
「どうですか? もしよければ」
「?」
「なんでもないです。写真撮りませんか?」
聞けば14歳なんだという。
机に広がっていたのは、和菓子と日本茶だった。
香り高い日本茶、よく合う甘い和バウム。
夜湖くんは中三で、今受験勉強しているのだという。
「どこ狙っているの?」
私は聞いた。
「都立です」
「それは、いい」
私はうなずいた。「都立は難しいからね」
「でも、夜湖は本当に頑張っています」
「僕頭良くないからな」
「私立がダメとか、そういう縛りはないんでしょ?」
私は聞いた。
「親はなんとも言いません」
「お姉ちゃんの時も、僕の時も、適当だよね」
私はその姉弟のやりとりを聞いて、糸葉ちゃんの今風の、一周回って主張のある化粧やファッションも、中身まで言い切ってしまうわけではないんだと知った。
まつ毛を盛ったり、顔を細くするために塗り分けられたファウンデーションだけで、人は判断できない。
ただ化粧に関しては、糸葉ちゃんがどんなアイテムを使っているのか、なんとなくわかる。
でも私と糸葉ちゃんは、全く違うタイプの女の子だった。
親御さんが帰ってきた時も、糸葉ちゃんは私のことを「彼氏のお姉さん」ではなく、塾の友達として紹介してくれた。
気を遣わせない配慮は、今時の女の子にしては(私が言えたものではないのだけれど)十分すぎるほど整っていた。だから、嬉しかった。友達ができたから。
夜、10時を回って、そろそろお暇しようとしたら、親御さんが車で送ってくれると言った。
「いやいやいや、悪いですよ」
こういう抵抗は押し切られる運命にある。
ちゃっかり後ろの席に糸葉ちゃんが乗って、お母様が運転する車は出発した。
「おうちはどこ?」
「駒込です」
「高校は?」
「都立戸山です」
「すごい!」
「底辺ですけど」
私が言ったせりふに、糸葉ちゃんはクスリと笑った。
「糸葉」
「いや違くて、迅くんがいつもお姉さん自慢で言うの。『戸山なんだー』って自慢すると隣の公佳さんが、『底辺ですけど』って」
私たちは爆笑した。
「悪いけど、底辺なのは変わらない事実だから」
「戸山って都立の序列で何位ですか?」
いきなり詰めてきた。
「よ、4位です」
「ほらぁ」
にっこり笑う。可愛い。弟、いつもこんな笑顔見ているのかよ。羨ましい。
「あれ、でも塾で一緒のクラスだよね?」
「……」
「クラス分けテスト、上位だったの?」
「……」
虚空を見て、こちらを一瞥もしない。小さな口も完全に閉ざされている。
「迅くんには言わないでください」
「すぐわかることだよ。今日帰ったら、結局お礼を言うために迅も出てきてさ。会いたいでしょ?」
「私は車に座っていますから」
「なんで一緒にいるのって聞かれて、塾が一緒だったんだーって」
「エレベータで会ったことにしてください」
「エレベータ派の人なんだ」
「父が長音嫌いな人で。コンピュータ、インタネット、パラミタ」
「お父さんはそうよねえ」
運転してくれているお母様が言った。
駒込の家の前に車をつけてくれる。
先んじて家に入り、全ての収拾をつけたかったが、無慈悲にもインターフォンが押されてしまった。
出たのは弟だった。
慎ましやかに手を振る糸葉ちゃんを見て、嬉しそうに笑顔を見せる。
その笑顔が、私に向いているものじゃないのは、悔しいけど、可愛くて、キュンとくる笑顔だった。弟の笑顔は、珍しくもなんともないのに、自分のものじゃないとこうも輝く。




