18話「勉強会」
18話「勉強会」
大学生になって、勉強が楽になった。
高校時代みたいに、やり方があって、決められたことを決められたスピードでこなさなくてはいけない時期は過ぎ去った。
適当に授業を入れると、授業は適当にやり過ごして、図書館でひたすら語学の勉強をした。
サークルには入らなかった。もちろん友達もそんなにできなかった。
本を読む時間が増えた。
六義園の周囲を走ると、六義ちゃんとまた出くわした。
バイトはほとんどしなかった。
ただ、私が勉強にハマっていることを、家族は喜ばしいものと思ってくれたみたい。
でも部屋からマンドポップが流れてきて、父が顔を顰めるくらい。
概ねうまく回っているような気がした。
糸葉ちゃんと私は、違う大学に行ったけれど、お互いの家を行き来して、弟たちの勉強を応援した。
弟たちの受験はもうあっという間という時期になって、一生懸命な姿を見るのが、姉にとっては本当に嬉しいことだった。
姉同士は、受験生の弟たちをデートに誘うことができないから、代わりによく会った。
二人で会う時は、服を買ったり、本を選んだりすることもあったけれど、こちらも一緒に勉強会をすることが多かった。
シェアラウンジで一日中分厚い教科書と戦う。
糸葉ちゃんは看護系に進んだらしくて、結構テストが大変だという。
私は文学部だったから、カリキュラム自体はとても緩やか。
徐々に男の子らしくなっていく弟たちを見て、私たちはくすくすと笑った。
***
糸葉ちゃんも私も、大学生になって雰囲気を変えた。
それは当然だった。
いつまでも韓国アイドルみたいなことを標榜していたら「年齢わかってる?」って怒られる。
私は、髪を短くして内に丸め、明るかったファウンデーションの色をやや暗めにして、メガネをかけた。
糸葉ちゃんは看護の実習で髪が邪魔になるとわかって、バッサリと短くして、少し濃い目だった化粧は、薄いナチュラルなものになった。
高校時代は「姉妹」と間違えられることもしばしばだった私たちは、方向性を変えて風貌が変わり、まるで「友達」のようになった。
弟たちが、そのことをどう考えているのかはよくわからない。
でも私は、夜湖くんの好みの女になることだけを、目標としているわけじゃないし、逆の立場から言ったら、夜湖もまた、私の好みになることを目指しているわけじゃない。
でも、私はそういう「目指している」とは違う軸で、自分を変えていきたいと思うようになった。
高校から外に出ていった同級生たちは、立派な大学生になっていると聞く。
小夜威さんは、たまたま池袋で出くわして、ずいぶんかっこよくなっていた。
「愛花ちゃんは元気?」
私が聞くと、小夜威さんは嬉しそうに「楽しそうにしているよ」と言った。
しばらく立ち話をしていたら、急にチラリと目配せをして、私に「少し変わったな」と言った。
「小夜威さんの方が、じゃない?」
「私が? 私服はいつもこんな感じだったよ」
小夜威さんのしらばっくれも困ったものだ。素材がいいのはわかっていたけれど、化粧するとこんなに可愛いんだ。
「男でもできたの?」
私は聞いた。
「いや。まなが化粧したいって言うから、練習したんだ」
「上手」
「そういう公佳は、少し化粧を落とした?」
「昔は白かった?」
「そういうわけじゃないけど」
私は、首を振って言った。
「化粧って、私らしさを出すと、私が見透かされてしまうところがあるじゃない」
「うん?」
「そのままの素材に屈折をもたらすことで、違う自分を創出できる」
「賢い発言だな」
賢いは、小夜威さんの語彙だと決して褒め言葉ではない。
「傷つきたくないってこと」
「それと化粧がどう関連しているんだ?」
私は言葉を探した。
「タバコを吸うと、タバコを吸う人のイメージがついちゃうじゃない。韓国系の化粧もそういうところがあるから」
「でも、それが好きだったんだろ?」
「指針がなかったから。小夜威さんの化粧だって、指針があるからそういうふうにまとっているんじゃないの?」
「化粧だけに言及するならね」
小夜威さんの頬はファンデーションのコントラストでよりくっきりとして、輪郭がシャープになっていた。大学生になると、柔らかかった肌は少し締まり、女の子はよりシャープに、美しくなる。
「公佳は、これからどうするんだ?」
「うーん。とりあえず大学院かなあ」
「それはすごいな。勉強が好きになった?」
「高校時代の勉強が、向いていなかったのかも」
小夜威さんは私を見ると、何回かうなずいて聞いた。
「戸山はいいところだった?」
「小夜威さんがいたから」
「私にとってもそうだ。公佳は私にとっての救いだった」
私たちは別れた。
結果的に、私はそれからしばらく、戸山の面々と会うことはなかった。
弟たちの受験を、心配する向きもなかったから、私と糸葉ちゃんは、二人で遊びに出かけたりしながら、弟たちの話をした。
最初はライバルだと思っていた糸葉ちゃんの容姿に、私はいつの間にか気にならなくなっていた。
渋谷の獅天鶏飯で皿を広げながら、凍頂烏龍茶を飲む。
食事の席での私たちの振る舞いには明確な違いがあった。それは、成長していく中で生じたものだ。
高校生の頃は、誰かと一緒であることに、安心を覚えることもあった。同じような振る舞いをしていれば、集団から振り落とされないと本気で思っている人もいる。
私がそうだったかはわからないけれど、糸葉ちゃんと私は、そういう意味で、お互いを参照しながら「位置」を決めていた。
一歩目の足の進む向きが二歩目を規定するみたいに、お互いがお互いを規定していた。私の世界は、でも、学校の外に糸葉ちゃんがいたおかげで、幾分か楽に、そして緩やかになったと思う。
ものの体積が大きくなることで、表面積比で体温を蓄えやすくなるように、穏やかに優しくなった。それは、私たちが多くの人を巻き込んでいったからだと思う。
弟たちは、お互いの家を行き来して、ただひたすら勉強をしていた。
その姿は可愛らしいなんてものではなかった。
姉たちが見せた勉強への姿勢を、はっきりわかっていたから、それを決して下回らないように、ただただ、勉強に熱中していた。
私は、それに負けないくらい勉強を頑張った。
大学生の勉強は、量ではなくて、継続的な習慣が重要だった。
弟が眠っている日曜の朝早くにリビングでラジオを聴いたり、単語を暗記したりしながら、弟が起きてくると、読解に移った。
「公佳姉」
「ん?」
「付帯状況のwithって何て習った?」
「『with 目的語 補語』っていう順で、『目的語が補語する状態を持って』が直訳。『with=having』だから」
「思い出した。ありがと」
外は大雨が降っていた。
冬の雨は珍しい。殊に東京では。
黙々と私たちは勉強した。弟の受験はすぐそこに迫っていた。
ため息をついて、伸びをした迅は、チラリと私を見ると、聞いた。
「なんで勉強するの?」
私は、それに対する答えを持っていなかった。
「さあ。それって、何で生きるの? と聞かれているのと変わらないよ」
「生きるのも、別に必然じゃないだろ?」
「哲学的にはね。でも、普通の人は、ただ生きる。考えもせず」
「公佳姉は、考えないの?」
暖房が、部屋の空気を温める。
「考えることもある」
「どんなふうに?」
「化粧をしたら、私は何か変わるのかな、とか」
「なんか本質的っぽくて草」
私はそれを冗談みたいに言って、ケムに巻いた。
本当は、女であることをやめてもいいとすら思っていた。つまり、正味の人間として、実力を試したかった。
もちろん自分の容姿を与えられたところの条件として、受け入れるのにやぶさかではないけれど、それと、私の能力というのは、別個のものだと思っていた。
迅は、気がついたら机に突っ伏して眠っていた。
私は夜湖くんには時たま手紙を書いた。絵とかで気持ちを和ませようと、謎のキャラクターを作って手紙に描きつけた。
受験前に一言だけ「受験前には手紙を書かないから、これが最後の手紙だよ」と付して、二週間前に送った。頑張ってほしい姉的な気持ちのまま、謎のキャラクターに応援の気持ちを仮託した。応援の言葉はないほうがいい。
弟の受験日、早く起きた私に輪をかけて早く起きた母親と、一緒にお弁当を作った。
「夜湖くんはどうかしら」
「たぶん、大丈夫だと思うけど」
私は、シャワーを浴びてきた迅を迎え、持ち物の確認をすると、迅を送り出した。母親と朝ごはんを食べて、遅く起きてきた父親を詰った。
迅が帰ってくると、私たちは麻雀卓を出して、ジャラジャラと麻雀牌を積んだ。
久々に、迅が笑っているのを見て、私は聞いた。
「迅は人生でいつが一番楽しい?」
その答えはわかっていた。
「さあ、いつでも、今が一番楽しいんじゃないか?」
同感だったけれど、私は同感と声に出すことはなかった。両親は嬉しそうにしていたけれど、それも言葉として外には出てこなかった。




