17話「冬の孤独」
17話「冬の孤独」
本を読む時間もないほど、立て続けに講習が組まれ、私は課題を終わらせるために、連日家で勉強していた。
迅が無言で並走してくれる。
うとうとしていると、部屋まで担いでくれる。
化粧もしない日が続く。
たった数ヶ月の改心で、受験がうまくいくわけがないことはわかっていた。
共通テストの日が近づく。年を越せばもうすぐだった。
意外だったのは、迅が、糸葉ちゃんじゃなく私についたことだった。
糸葉ちゃんに会いに行かないのか尋ねたら、迅は神妙にこう言った。
「彼氏と楽しく過ごしていたから、落ちました。それでいいのかよ」
私の思っていることと一緒だった。
私も、夜湖くんとは約束して受験まで連絡を取らなかった。
でも、孤独だった。
自分の一生懸命を誰も評価してくれないことに、悲しみを覚えた。
迅も、両親も、一生懸命であることは知っていても、どれくらい一生懸命で、どれくらい頑張っているのかはわかってくれなかった。
模試を受けて、偏差値を把握すると、とりあえず志望校をそれに沿って設定して、母親に諮った。
母親は、うんともすんとも言わず、父親に流した。
久々に父親と話した。
「どこでもいいとは、お父さんは思わないでしょ?」
「思わない」
「でも、浪人するのは考えてないよね」
「考えていない。金銭的にも、公佳の精神にもよくない」
私は、自分の思ったことを話した。
父親は、言った。第一志望を下げるか、滑り止めに行く気持ちを作ってこい、と。
守りに入ったのは、私が、勉強をしていかなったことを、父親が知っていたからだ。それは、本当に悔しかった。
でも適切なアドバイスだった。本当にそれだけで、私はやるべきことを絞れたのだから。
***
共通テストの日は、雨が降っていた。
冷たい雨で、学校のみんなが一つの同じ試験会場で受験した。
数学が終わった時、クラスメイトの何人かが、答え合わせをしていた。
私は、それがどれも間違っていることに気づいた。
あの、戸山のそうそうたるメンバーでも、ただ樹形図を書けばいいだけの問題で間違えるのだから、わからないものだと思った。
私は、寂しくなった。
もう高校のメンツとは離れ離れになる。それに、みんな私のことを忘れていくだろうと。
いいちゃんは、横顔を見る限りいつもと変わらず、小夜威さんも笑顔を見せていた。
王国の譲位が始まろうとしていた。
賑々しく、笑顔が交わされ、どこかで深々と礼が交換された音がした。
その時初めて、私は、全てがハリボテだったことに気づいた。
時はすでに過ぎ去っていた。
背景だった校舎は、主人公を主人公然とさせるための舞台装置で、私はそれに踊らされていただけだった。三年間騙せればそれで良かった。
これから、何の後ろ盾も背景もないまま、一人で踊らなくてはならない。
そう思うと残念だった。
私には踊る気がなかったから。
ただ、戸山の景色が好きだっただけで、自分には何も備わっていないことに、初めて自覚的になった。嘘もホントもなかったのに、嘘やホントがあるみたいに思っていた。
そう言ったら、小夜威さんは笑った。
「公佳は、より深くなったんだね」
「深く?」
「だって、そうじゃないか。文化の表象を取り払ったら、そこに現れるのは、ざらざらした肌触りの土と砂だけで、そういうのを恐怖するが故に、私たちは文化を築いた」
「小夜威さんは、そういう経験があるの?」
「あるさ。私は孤独だから」
小夜威さんの表情は変わらずに、まるで砂嵐にあったみたいな効果がかかった。
「自分に何もないかもしれないって思うのは、人の権利だよ」
小夜威さんは言った。
「自分が何者かであると考えることも、自由だ。それこそが鉤括弧付きの自由なのかもしれないね。まるで、自分の思い込みに社会の方を矯正して当てはめるような。それこそが文化だよ。思惑が錯綜して、取引があり、実利と権威を交換する。そうじゃない?」
「怖くないの?」
「全然」
「どうして?」
「フィクションを恐れてどうする」
「人生がフィクションだと思うの?」
「思う」
「その理由は?」
「関係が、もし形を取ったとしたら、もしかしたらフィクションではないのかもしれないけど、関係は残念ながら、何の形にもならない。私たちの心のつながりは、形にならない」
「でもそれは……」
「公佳、それは、私に取っての話だ。公佳が思っていることを私は否定したくない」
私が思っていること? つまり、心のつながりが形になると、私は思っている?
***
雨は雪に変わっていた。
昔を想像すれば、熱がこもっていたはずだった受験というイベントも、このご時世一つのさらりとしたアクティビティに変わっているような気もする。「宗教行事」だった受験が、人生に及ぼす影響は、徐々に少なくなっていった。
私は、小夜威さんの孤独を想像しながら家に帰った。
家で待っていた家族は、私から荷物を受け取ると、風呂が沸いていると言って、私の緊張をほどいた。
食事は温かいオムライスで、私はガツガツ食べると、それからすぐに眠った。
受験が終わった時、迅が珍しく部屋の外に立って、扉越しに私に言った。
「どこかに行ったりしないでよ、公佳姉」
「いくあてがないよ」
「それでも、公佳姉と違う人に、なったりしないでよ」
「どうしてそう思うの?」
「なんとなく」
「どこにも行かないよ」
それは、ともすると小説的な文学的な表現に思えたかもしれない。でも、私と迅にとっては、日常的な会話だった。それは、同じ漫画を読んでいたとかそういう話ではなかった。
ただ、家族を捨てないでほしいとか、家族から逃げたいとか、そういうありふれた出来事の気配を、お互いに感じ取っていたから出てきた言葉だった。
それは、文学ですらない、ありふれたことだった。
いいちゃんが張った伏線を回収しないように、私は歩みを緩めた。
私は、小夜威さんのことを想像した。
それは、容易に想像することのできる光景だった。
小夜威さんは勉強をしながらまなちゃんの面倒を見て、まなちゃんの頭脳に日々強打されながら、それでも自分の人生を歩むことを強く自分に課していた。
いいちゃんが言った親戚の話は、きっといいちゃん本人の話だったに違いない。
狂っているように見えない人が、一番狂っている。
おかしさを抱えていない人が一番おかしい。
***
大学生になって、夜湖くんと勉強するのは、楽しくもあり、心配でもあった。
姉のような彼女がいると、男の子は本当によく頑張る。
自分の好意をこれでもかとぶつけてくる。「好意のトークンとして学力がある」みたいなことを、本気で信じているみたいだった。
それはとても可愛いし、女心がくすぐられる。
夜湖くんはどんどん背が高くなり、私は、どうすれば彼の想いに答えられるのか、考えることになった。
頭のいい男の子は、年上の彼女には負けられない。
でも、私も負けることはできなかった。
だから、高校の時よりずっとずっと、私は勉強した。
英語で書かれた分厚い理論書も、フランス語で書かれた哲学書も、中国語で流れるラジオも、全部理解しなくちゃと思った。
それは弟にとっても彼氏にとっても、わかりやすい壁だった。
年齢を盾に、私は二人と距離を取ろうとした。
そうしなければ、私はただの女の体で、二人に向き合わなきゃいけなかった。
最初はそれでいいと思っていた。
どんな形であれ、タイミングよく「女」を明け渡せば、話はすぐに終わると思っていた。
でも、好きっていうのは、ずっとずっとずっと続けなきゃいけない営みだと私はいつか気づいたのだ。
誰かを欲しいと思うのは、誰かが欲しいのではなくて、誰かが持っている美しさが欲しいのだ。それは最初は容姿だったかもしれないし、関係だったかもしれない。
でも、それは、仮に人生にするんだとしたら、私が何かを持っていなくちゃならない。
もし、私が何も持っていなくても、実際には単なる女の子だったとしても、私は、少なくとも持っているふりをしなくてはいけない。
そうでなければ、私はただの、化粧の上手い女の子にすぎない。そんなこと最初からわかっていたけど、誰もそうとは言ってくれない。でも、そうとは言ってくれないけれど、みんなそれを言わないことで伝えてくれていた。気づくのは少し遅れたかもしれない。でも、私はこのことに少し満足している。




