16話「いいちゃんの友達」
16話「いいちゃんの友達」
数学が好きないいちゃんは、最近の東大冠模試でも満点を取ったらしい。
数学が好きなだけで、他の科目はほどほどだから、東大は受けないと本人は言っていた。
「家族がみんな頭がいいから、模試の偏差値とか見ると、わかるんだって」
「それは、わかるだけで、本番の点は流石にわからないんじゃない?」
いいちゃんは、首を振った。
「私は、受験勉強があまり好きじゃないから。ほどほどのところでいいの」
「どうして?」
「だって、大学って、別に目的じゃないし、綺麗事かもしれないけど、幸せになるために、高校生活を差し出すのは、あんまり得策じゃないと思わない? キミもそうじゃない?」
「私のは、受験勉強が嫌いなんじゃなくて、勉強が嫌いなんだけど」
いいちゃんはくすりと笑って、またまたぁ、とでも言いたげな、嘲りを表情に乗せた。とても可愛い。
「私の親戚に、とても頭のいい人がいる。家系的には、関西系で、関東系の私とは、ルーツが異なるんだけど、何せ、お父さんが灘から東大に行っていて、その人自身も結構な才能を持っている。でも、受験で失敗して、浪人して京都に行った時は、もう本当に疲弊していて」
「そういう物語になるだけでもすごいことだよ」
「それはそうね」
いいちゃんは、ちびちび飲み物を飲むと、下北沢のシェアラウンジで、私とやっている受験勉強を話しながら続けた。
単語をただなぞっていくだけの単語帳の勉強は、いいちゃんの学力からすると不思議に初歩的な感じがした。
「人生で大切なことは、傷つかないことだって、その親戚の京都の男の子は言っていた」
いいちゃんは、こちらを見ずに、ひとりごちる。「傷つかないように、あんなふうに、壊れてしまうなんて、あの人にはもったいなかったから」
「頭のいい人だったんだ」
「特別な人だった。お父さんが灘でなかったら、もっと楽に生きれただろうに」
「いいちゃんだって、お父さん頭いいでしょ?」
「国立系だから、あんまり学歴にうるさくない」
いいちゃんは笑った。「でも、うるさくないのは、少し寂しい」
「いいちゃんならそうだろうね」
私は数学の問題集の問題を解きながら、いいちゃんの声を聞いた。
いいちゃんは何人かと勉強するのが好きと言っていた。
少し周囲に雑音がある方が集中できるらしい。
「一生懸命になるのは、リスクが大きい」
「18歳でそう思うのは、珍しいと思うけど」
「失敗を恐れずに、とかそういう勇猛果敢なのは、リスクが大きい」
「リスク」
いいちゃんの「リスク」という言葉には、感情が縫い込まれていた。
「その親戚が好きだったの?」
「そう、だね」
「年上で」
「本当に、頭のいい人だった。病気になっても、頑張って紡ぐ言葉には、真理が宿っていた。文学的な世界解釈にはいつも、いつも感動させられた。でも、それは全てリスクを負って被った負債のせい」
「負債?」
いいちゃんは言葉を探した。
「本当に勇敢な人だったけど、今は、とても守りに長けた騎士として、世界を守護している」
「世界を守護?」
「そういうことは、想像したことがない?」
「どういうこと?」
「たとえば、キミがクラスにいるだけで、クラスは明るくなる。としたら、キミはクラスにいい影響を及ぼしている」
「?」
「その人は、特別な空気をまとってた。優しくて、分け隔てなくて、そして本当に力を持っていた」
いいちゃんは、振り返るように言葉を止めた。
「それはだから、この話の最初に戻るわけね」
私は言った。「受験勉強力みたいなものは、いいちゃんは別に重視しないって」
「キミはよくわかっているし、キミも、そう思っているんじゃない?」
「私は、単にできないだけ」
「受験は自分と家族を犠牲にする」
でも私たちは、今、受験勉強をしている。
「戸山に来たのはどうして?」
「ちょうど良かったから」
私はそれ以上、聞かなかった。
遅い時間になっても、私たちは勉強を続けた。
私はその間も、犠牲について考えていた。
家族のことを大事に考えるのは、とても大切なことなのに、私たちはそれを、一番最後に持ってくる。犠牲にして、踏み台にして、そして捨てて、家から出ていく。
それがよくないと言っているのだ。
いいちゃんは、本当に大切なことを言っている。誰もそんなことを言わない。
「キミは、何のために勉強するのだと思う?」
「さあ。理由なんてないんじゃない?」
「もし理由がなければ、学校なんていらないし、大学も必要ないと思うのだけど」
「なんか陰謀めいたものを感じるの?」
いいちゃんはしばらく考えた。小顔を左右に倒し、首筋を伸ばしながら、キャップを取って、それからまたかぶり直した。
「制度って、何かを私たちから隠すためにあるから」
「?」
「よさ、みたいなものを捏造しているんだと思う」
「それは、勉強や競争について?」
「良いか悪いかは、決められないじゃない」
「でも、上と下はある」
「そんなことないよ。それは、せいぜい高校の勉強くらいのもので、世の中のほとんどの技能や徳は、定量的というより定性的なものだと思う」
「どうしてそう思うの?」
「模試で満点を取る人と、八割取る人の学力には決定的な違いがあるけど、人間としての出来に違いは生じない。年収一千万の人は、年収六百万の人より優れているの?」
いわゆる日本的で曖昧な人事評価を、こういう頂点に立っているような人が言うのには、何かの経験が背後に隠れている。
「一貫した人事評価が嫌い?」
「うん」
「どうして?」
「もし、自分が滑落したら、誰も救ってくれない」
「いいちゃんが滑落することがあるとは思えないけど」
いいちゃんは首を振った。
「評価が、全てを決める。私は、誰にも評価されたくない」
「それは、制度の中では難しいんじゃないの?」
「だから、私は勉強している。制度を欺くために。私を守るために」
下北沢のベトナム料理屋で夜ご飯を食べて、それからまた勉強した。
私は、結構自分が勉強ができるのだと思って、少し安心した。
それにしても、いいちゃんはずるい。
制度を欺くことのために勉強をするのは、世間に隠れて、陶酔に耽るようなものだ。
点数を取るのは、点数だけ評価してもらうため。
人間性や、家族までは、おもてに出さない。
「でも、本当に、そこで全てを賭けて戦って、それで勝ち取った勝利には、価値があるのかもね」
いいちゃんは、心にもないことを言った。
「心にもないことを」
「全てを賭けて戦って、全てを失ったら、笑ってももらえない」
いいちゃんはつぶやいた。
「いいちゃんは逃げないのに」
「たぶん、他の人より、競争的な制度に詳しいから、特質がわかっているんだと思う」
「特質?」
「時間をかけて見て聞いて読んで書けば、競争には勝てる」
「勝ってどうするの?」
「負けてどうするの?」
いいちゃんは、競争に負けたことがないのかもしれない。
「逃げるんだよ」
「それは私の言う逃げるとは違う」
「いいちゃんの逃げるは、戦略的なもの。私の逃げるは、恐怖による逃避なんだよ」
「キミは、逃げないじゃない」
「何にも知らないだけだよ。いいちゃんとは違う」
いいちゃんは笑った。
いいちゃんが詳らかにしたものは、私に対する親切だった。
私が、逃げているかどうかは問題じゃない。
ただ、戦い続けることが、何の意味もない制度上の産物だと、私に教えてくれた。
それは、私のことを本当に心配してくれた結果出てきた言葉だった。
現状の枠組みを解体する手立てを提示してくれた。
それは、武器ではなくて防具だった。
戦いに勝つためには使えない。
負けた時に、生き延びるために必要な防具だった。
青ざめるような模試の点数。
適当に設定した志望校。
先生が、時たま奮い立たせるために使う「覚悟」という言葉の空疎さを、撃ち抜くスターライトブレイカーみたいだった。




