12話「デート」
12話「デート」
私は、そのことを迅くんに言わなかった。もちろん糸葉ちゃんにも。
夜湖くんにデートに誘われた。
場所はすみだ水族館。
なかなかいい場所選択だと思った。
年下の男の子と外に出るのは、弟とくらいだったから、どんな感じで武装していけばいいのか、わからなかった。
重装備で行くと、意識しているようで隙がないし、かといって手を抜くと相手に失礼だ。
一緒に帰る時に、息を詰まらせて誘ってくれていたから、きっと、ある程度本気なんだと思う。
でも、年下を見ると、弟だと思ってしまうから、私の気持ちはどこかでストッパーがかかっていた。そういうのは、夜湖くんもわかっているのか、それともわかっていないのか。
私が無神経だったら「お姉さんと迅くんも誘う?」と聞いてしまっている。
誘いの真意がわからないわけじゃない。でも、どこまで本気にしていいのか。
私だって予防線を張りたいし、意識していると思われたら恥ずかしい。
でも、私は思ったのだ。
夜湖くんが、私のことを好きかどうかは、正直どうでもいい。でも、少なくとも私は、夜湖くんを、可愛い年下としか思っていない今の状態を、脱却しなくちゃいけないと思った。
だから、年上に見せるくらいシンプルな黒多めの服装で、結構かっこいい感じにまとめて、目を細めた。目尻を上げて、ちょっとキツネっぽくする。
可愛い感じだと、迅くんはいつも「彼女づらすんな」って言うから。
スマホを入れるサコッシュに、一冊文庫を差し込んで、私は駒込駅で夜湖くんの乗る一番前の山手線の車両に乗った。
「おはよ」
***
夜湖くんは、夏らしい深い青のTシャツに、太いズボンを履いていた。
帽子はつばありで、薄いけど撥水加工がある機能的な帽子だった。
夜湖くんも荷物は少なかった。
服装はシンプルなのに、トートバッグが結構目立つ。
ちらっとロゴを確認するとMARNIだった。
「いいカバンだね」
「母のお下がりです」
そういえばイタリア料理を作ってくれたっけ。
「お母さん、イタリア好きなの?」
「なんか、昔留学してたらしいですよ」
私は、少し驚いた。
ずいぶん昔のデザインなのに、高級感は逆にもっと高まっている感じがした。
気品というやつか。
最近は、どんな人も高級ブランドのバッグを持っているけど、さりげなく使っている人はまだそんなに多くない。
私はそんなに友達が多くないから、まだ競うようにブランド物のバッグを買うなんてのもないけど、いつかそういう暴飲暴食的な時期が来るのだろうか。
夫の金でバッグを買い漁る的な。
だとしたら怖いな。
という話をした。
「うーん。僕はいいと思いますけどね」
「え? 一日に10000円は使わないと生きた心地がしないとか、ひと月に一個はエルメスが欲しいとか、そういう女の子が彼女になってもいいの?」
「そんな要望に応えられる男子は少ないと思いますけど、本人の金ならいいんじゃないですか? うちの母親は、パートですけど、たまにカバン買って舞を踊ってますよ」
「可愛い」
「いいと思いますけどね、ブランドバッグ」
メガネをかけている。
弟はコンタクトだけど、たまにメガネをかけていると、こんな感じの顔つきで……。
弟の顔は頬とかまだちょっと柔らかいけど、夜湖くんはいい感じにこけている。
髪の質も硬くて、短く刈っているけど、短く見えない。
「ねえ、サングラスとか、どうかな?」
胸挿ししていたサングラスをかけてみる。
「似合ってますけど、長いまつ毛がもったいないですね」
私は「もう」っと右手の5本指で夜湖くんの胸を押した。
挑戦的なことも言えるんだと、私は少し見直した。
電車を乗り換えて、スカイツリーまで行くと、私たちはまずご飯を食べた。
すっごい並んだけど、全然退屈しなかった。
戸山での出来事をずっと話していた。
私が自分の受験について何も話さないのを、ちゃんと汲んでくれるところが偉い。
気づいたら店に入って、ご飯をたくさん食べていた。
それから水族館に入った。
中はとても混んでいたけど、幸いはぐれたりせずに一緒に見られた。
手を繋ぐ勇気はなかったので、袖を引っ張って、行きたい方向を伝えた。
夜湖くんは休憩とかお手洗いとかをこまめに挟んでくれるイケメンなので、嫌なことが微塵もなかった。
水族館にはたくさんカップルがいた。
でも夜湖くんは他のカップルには目もくれず、ずっと私を見てくれていた。
ここに来て、私は夜湖くんをかなり意識した。
いいかな? やっぱりダメかな? みたいな、心の移り変わりは、ゆっくりとした押し引きで、私は答えがわからない問題に、内心で悶絶していた。
15歳という年下と、もう大学生になろうとしている私の間には、うまく言えない隔たりがあった。
そんなことは、全く気にしなくてもいい。もちろんそういう一派もいるし、私もそうであるべきだとずっと思っている。
なのに、年下と遊ぶなんてダサいみたいに、心に影が差す。
でも、そういうのは、夜湖くんの感じているプレッシャーに比べれば、大したことないのかもしれない。
デートに誘うのは、勇気がいる。
私は、そういう意味では、これを「デート」だと定義していないのかもしれない。
そういう逃げ。そういう不誠実。それで自分の心を守る。後ろ指をさされたくないと本当に思っているのか、私にはわからない。でもどうして、そんな汚いことができるのか。
怖いのかもしれない。
水族館の水槽に顔を近づけている夜湖くんの横顔は、弟と重なる。
弟を好きになってはいけないという人類学的タブーが、私と夜湖くんの関係に水を差しているのかもしれない。
***
そんなに遅くならない時間に、ソラマチを出た。
それでも5時になろうとしていた。
「如月さんって、大人ですよね」
「唐突に?」
「格好は韓国系美少女で、姉とおんなじタイプなのに、姉が恐縮する理由も、なんとなくわかります」
「底辺だけどね」
「何か、やりたいことがあるんですか?」
それは、……、世間話の範疇?
私はしばらく考えた。
「好きなことなんて、ないんだよ。私が一番嫌なのは、好きなことがない自分」
「何も好きにならないんですか?」
「うん」
「誰も好きにならないんですか?」
「うん」
「…………、そうですか」
「不思議に感じる?」
「ええ。誰かに好かれたいから、自分を磨き飾り立てるのではないですか?」
「好かれるのは当たり前。でも、好きにも色々あるでしょ?」
私は、半ば自暴自棄だった。泣きそうだったのでサングラスをかけた。好かれるのは当たり前。
「飾り立てた表面で、誰かを好きにさせるのは、結構得意なんだよね」
私はうまくやっている。こうやって、私は、今までもこれからも、男を遠ざけて自分をアイコンにする。
「意外ですね」
「そう?」
「そういうふうに自分のことを知っているのに、自分がどうしたいのかはわからないなんて」
「ああ。いわゆる自分の知っていることと自分自身ってこと?」
「自分自身なんて、ないような気もしますけど」
実定的な戸山生には珍しいタイプの思索。
「要するに?」
私は駒込で夜湖くんを降ろした。
もうちょっと一緒にいたい、というのではなくて、すぐに答えが欲しいという、女の子の風上にも置けない、驚きの自己中心性。
ただ一言「好き」という言葉が聞きたくて。
「ごめ、今日幻滅したでしょ」
サングラスを外して、泣きそうな顔を見せた。
夜湖くんは首を振った。それは、嘘だと思った。その人のことが好きでも、その人に幻滅することだってある。
私は、最低なことをした。楽しさだけから関係を引っ張れないのは、私の悪い癖だ。
「いや、結構面白かったです」
「それは、強がりでしょ。面倒な女だって思わなかった?」
「単純じゃないのは美徳ですよ」
「そんなかっこいいこと言っちゃって。安心させて、どうする気?」
駒込のホームの端には誰もいない。
迅くんのことを、羨ましいと思ったのかな。
ダッと、夜湖くんをすり抜けて逃げようとしたら、腕を掴まれた。
少女漫画みたいな光景で、泣きそうだった。
そういうの、嫌いなのに。なんて、強がり言って、自分でも自分の気持ちがわからなかった。
だから、答えが出なかった。
夜湖くんの勇気のこもった言葉は、すごく嬉しかったけど、答えが出ないのは同じだった。
たどたどしい「好き」に答えられなかった。
「少し、時間をください」
「ダメです。今返事してください」
夜湖くんは、どうしてそんなわかるのか。うやむやにしようとしていることが見透かされている。私の目論見では、それでまた、同じようにデートを重ねて、ニスの上塗りをしていく。
「夜湖くんは、糸葉ちゃんについてはどう思う?」
「あの、ブラコンの如月さんと違って、僕はシスターコンプレックスではないんです」
「似ていると思わない?」
「全然?」
東京的な言い切り。全然? その挑戦的な語感が、少し前まで中学生だった夜湖くんから聞けるとは思っていなかった。
「それに、姉より綺麗だと思いますし」
「ずるいよ」
「それを確かめたかったんですよね? 迅先輩が、如月さんより姉を可愛いと思って、付き合っている気がするのが、嫌だったんですよね?」
「ちょっと待ってよ。私をそんなに汚さないで」
私は顔を歪ませた。
「でも大丈夫です。僕は同一の直線上に、姉と如月さんをプロットしません」
「それは、綺麗事でしょ?」
まじでカップルの喧嘩みたいになってきた。少し恥ずかしくて俯く。
「リアルな話をすれば、迅先輩も僕も、姉とは付き合えません」
それはそうなのだけど、弟に対する意趣返しみたいに、夜湖くんと付き合うのは、果たして体裁が保てるのかわからないんだよっ!
「こういうのはどうですか? 僕たちは、付き合っていることを隠したまま、本当にお互いが好きになるまで、時たまデートして」
「わかった! わかったから、今度の電車が行って、誰もいなくなったら、私に誓って。私のことが好きだって」
遠ざかる電車。私は車掌さんを見送って、唇を差し出した。
夜湖くんのMARNIのトートバッグがぽとりと地面に落ちた。
遠くから雨の香りがやってきた。




