11話「ランニング」
11話「ランニング」
弟に言われたことで、私はいたく傷ついた。
「公佳姉、太った?」
ブチギレ案件だ。
「そんなわけないじゃん」
私は遺憾の意を表明した。「私が太るなんてありえない」
「最近、タイトな服着てないけど、そろそろ春も終わるのだが大丈夫か?」
「あのさあ、なんか客観的な指標を出して言ってよね」
「公佳姉の体重は知っているけど、二キロ太ってると思うよ」
「はあ? 何言ってんの?」
「まあいいけど、糸葉は太ってないし」
私の顔面は蒼白になった。
ライバルは太っていないのに、私だけ太っている。
知ってた。最近ちょっと食べすぎたかなとは思っていた。
恐る恐る体重計に乗り、天に祈りながら数字を見た。
二キロ。
泣きそうだった。
というか、姉の尊厳を打ち砕いて、さらに太っていない恋人の体のラインをなぞっている(あくまで私の妄想ですが)弟に、悔しいけど屈服しそうになる。
「走るぞ」
私は弟に言った。
「望むところだ」
弟は、仲のいいボーダコリーのように私に付き合ってくれた。
「将棋ばっかりやってるからだぜ」
「頭使うと痩せるの!」
私は昔、弟が休日に走るのに付き合ってあげていた時期があった。
私はそのことを思い出して、弟を付き合わせて、駒込の朝を走った。
六義園外周という驚くほどランニングに向いたコースは、朝同じことを考えている市民をたくさん見かける。一人、女の子が記憶に残った。
弟と走っていると、挨拶されることもあり、私も挨拶で返していたら、たまに話しかけられるようになった。
朝だけ、かつ個人情報ゼロの人間関係だけど、体育会系の髪の短さで、でも可愛い感じという、いい雰囲気の女の子。
名前は知らないので勝手に「六義ちゃん」と名付けて、我が家では話題に上げている。
時たま「六義ちゃん」と言ってしまいそうになるけど、基本は「はよーございまー」だ。
六義ちゃんはどうやら中学生みたい。顔つきがあどけない。
体育会系だけど濁音がついた「ざす」とか「ざいます」とかの発音ではなく「はようございます」と丁寧に言ってくる。
体力は向こうの方があるみたいで、私たちを追い抜いていくことがしばしば。
一日に一回必ず会うので、この前カロリーメイトを渡したら、カントリーマウムになって帰ってきた。
「ポニテ可愛いっす」
たまにそういう可愛いことを言ってくれるまでになった。
五月から初めて、六月の雨でも私たちは走り続け、やがて私は4キロ落とすことに成功した。
クラスメイトから「なんか細くなった?」とか「痩せた?」とか言われて、私はとても気分が良かった。「もともとスタイルがいいのにねえ」と言ってくれる子まで現れて、嬉しの舞を踊る。
走るのが癖になって、女子の運動部のランニングにジャージを着て参加する。
部員ではないのに、一緒に声を出す。
「体力がついてくると、いいことばっかりだよね」
「えー、彼氏じゃ満足できなくならない?」
「この甘えん坊さんめ」
ちょっと何言っているかわからない女の子もいるけど、私はとりあえず清楚な方なので、深い入りはしない。
***
「お姉さんは、高校生ですか?」
土曜日、六義ちゃんは、迅くんがいなかったからか、私にペースを合わせて並走してくれた。
「そだよ」
「この前池袋で見ました。妹さんといました?」
「あの子は、妹じゃない。塾の同級生」
「二人とも美人でした」
「ありがと」
それから、しばらく六義ちゃんは黙っていた。
「高校生になると、可愛くなれますか?」
「どうして? 今でも十分可愛いと思うけど」
「お化粧とかしなくちゃいけませんか?」
「いや別にしなくてもいいと思うよ」
私は、しばらく六義ちゃんの質問の意図がわからなかった。
「お姉さんは、この前見た時化粧してましたよね」
「うん」
「今も、とても可愛いです」
「?」
「この前、同級生に、化粧もできないの? って煽られて、すごく悔しかった」
私はすぐに、この子が化粧して、クラス内で無双する姿を想像した。
「いつぐらいから化粧を始めました?」
「えー、どうかなー。でも、きっかけは、K-POPアイドルに憧れたからかな」
「私は、お姉さんに憧れています。いつも一緒なのは弟さんですか?」
「彼氏ではないよー」
「かっこいいですよね」
「私の隣にいた塾の同級生が、弟の彼女」
「華やかな世界ですね」
そう言うと六義ちゃんはペースを上げて去っていった。
***
制汗シートで汗の匂いを抑制する。
いみじくも迅くんが言った「女の汗の匂いって、逆に凶器よな」という言葉に、弟がいて良かったと思う。
汗の匂いってフェロモンだから、少しくらい拭って、あとは残しておけばいい、と思っていたのだけど「まあ、俺は弟だからなんとも思わないけど、公佳姉の汗の匂いって、すっごくいいからさ、男がくらくらすると思う。だから頼むからボディシート使って」と、ギャツビーを手渡された。
「クラスルームで裸になっているのと一緒だから」
それは狂気の沙汰だ。
「あと、汗で髪が濡れるの」
「え、ダメなの?」
「いや、なんかエロいなって」
私たちはランニングを続けた。
お母さんの作ってくれる朝ごはんが、とても美味しく感じられた。
「お姉さん、走っているんですってね」
「そうなの」
糸葉ちゃんとの塾帰り、スタバでチャイティーラテをテイクアウトして嗜んでいる。
「すごいですね。早起きにランニング、私には考えられないです」
「糸葉ちゃんはどうやってスタイル維持しているの?」
「あれなんですよね、食べても太ら……」
「ん?」
「いや、なんでもないです」
ちょっと世界から一人抹消してしまいかけた。
危ない危ない。
走った後、電車に乗って戸山まで登校する途中、夜湖くんを見かける時がある。
男友達と話している。雰囲気がいい。
「そういうのは女子にはわかんねえよ」
迅くんは、リビングテーブルで数学を解きながら言った。
「男の子の会話って、本当によくわからないよね」
「女子だって、中身のない話ばっかりだろ」
「ほんと、何に笑ってんだって感じ」
「なんかさ、俺らの暗号解読している女子がいるって話題なんだけど」
「男子は私らの暗号は解読できないのにねえ」
なんでだよ。迅くんは毒づいてから、数学の参考書をとじて、私に言った。
走るぞ、と。




