9
9時に退勤処理を済ませ、従業員入口から逃げるようにすると、傘折はもうすでに先回りしていた。
暗闇の中、進学校としてのカッチリとした制服を着崩さず纏う女子の姿を見つけてため息を漏らす。
マジで待ってたのか……。
私の何にこいつはそんな惹かれてるのか。
どんどん理解から遠のいていくのに、犬のようにグイグイと近づいて距離を詰めてくる傘折。
脳みそがチリチリと処理落ちをしている。
「なんで分かったの」
「お金に細かいって舞浜先輩が言ってましたし、多分こっちの方が生活の得になるかなって」
そう言って彼女は私の持っている半額弁当の袋を指差す。
由希の気を遣った発言が逆にヒントになってしまったようだ。
「それだけだと体に悪いし私、何か作ります」
「えっ……? いいよ。てかウチまで来る気なの?」
「だって半額のお惣菜って栄養バランス悪いですよ? これ以上痩せたら心配ですし……」
傘折はズイとこちらに近づいてシャツ越しに私の腰をつまんだ。
あの日に腕を組むことを許したせいで、どんどん私に触るきっかけを与えてしまっている。
「……やめて」
口だけで私はそう言った。なぜか前ほどの嫌悪感がない。
腕を組んだり、肩を触られたり、そんなスキンシップに抱く悪感情が減りつつある。
知らない内に自分の中のなにかが、黒色なのか白色なのかは分からないけど、自分じゃない色に塗り変わっていくみたいで恐くなる。
自分でも目の届かない心の内側の部分で、何か変化が起きている。
「それに……余計なお世話」
「んーいくつか食材買いたいですね。あっ、ちょっと戻って燕ちゃんのスーパー寄りませんか?」
「いやだ。2人で買い物してるとこ見られたくない。それに作らなくていいって」
「じゃあコンビニで買いましょう。知ってますか? 最近のコンビニって食材も豊富なんですよ」
「話聞いてる? はぁ……もう遅いし本当にいいよ。てかコンビニは高いし」
全く話を聞いていない。
それがわざとであることも一緒にいるうちに分かってきた。
拒絶するのも楽じゃない。
腕を組んだり抱きついたり、ある程度のボーダーを超えてから拒否するより受け入れた方が楽になっている。
最初は「いいんですか?」ってスマホをチラつかせていたけれど、今はもうゴリ押し。
攻略されてるみたいで腹が立つ。
不快感が若干減っただけで好感度は一切上がってない。
持ち合わせてる不快感も傘折自身というより、傘折を通した先に父の姿を感じて不快に思ってるだけで、結局彼女には何も思っていないんじゃないだろうか。
自分で自分がわからなくなってくる。
傘折といると自分の重心をどこに置くべきかわからなくなってきて気分が悪くなる。
傘折密季本人なら別に嫌う必要ないんじゃないかと思えてくる。
「大丈夫。私がお金出しますし、私が料理しますから」
「……」
言葉を返せない。
明確なメリットを提示されると断れない自分の心の弱さを攻めたくなる。
きっと傘折も分かってるんだろう。
私という貧乏人に金持ちが金でアプローチを仕掛けてると思うとなんとも腹に据えかねるものがあるけれど、なかなかどうして断れない。
△
私はそうしてズルズルとコンビニに付き合って、アパートまでついてくることを許してしまった。
この狭い木造1Kの部屋に入ってきたのは由希と香織以外で3人目。
親友2人の後、宿敵。
部屋の角に2人のカバンを置くと、傘折は「ゆっくりしててください」なんて家主のように言いながらキッチンへ向かった。
私は結局、無理やり追い出すことも出来ず定位置に座る。
「ねぇ、なし崩し的に連れてきた感じになってるけど……もう10時なんだけど」
「そうですね、泊まっていいですか?」
流石に嫌だ。
何されるか分からないっていう怖さとかもあるし。
とはいえこれ以降の時間は女子高生が1人で出歩くには暗すぎる。
「それ目当てでついてきたの?」
「明日は休みだし、朝ごはんも作れますね」
答えることはなく、そう言いながら淡々と嬉しそうにこちらを見る。
「……もういい」
何をいっても意味なんてないんだ。
礼だ。あくまで何か作ってくれるというお礼に泊めてやる。
そういうことにしよう。
自分に言い聞かせる。
「少し待っててくださいね。すぐ出来ますから、お風呂にしますか?」
そんな新妻みたいなことを言い出す彼女に寒気が走る。
「……ここに住む気?」
「いつかは住みたいです」
そんなことを言いながらふふっと微笑んで、傘折はそそくさとキッチンで準備を始めた。
「……なんなのマジで」
もしかしたら結婚まで想定しているかもしれない。
もうなんなのか。いつまで私といる気なのか。
ただただ傘折密季という少女に振り回されていて、腰を落ち着ける場所がない。
トントンと包丁がまな板に当たる心地のいい音が響く室内で、ただ私だけが落ち着いていない。
私の家のはずなのに。
だから私は、もうここまで来たら誰かに聞かれる心配もないから聞くことにした。
「ねぇ、なんでなの」
「……なんで?」
「なんで私にここまでするの」
改めて、確認する。
心がバグり散らかしているとはいえそろそろ正常な揺り戻しが来てもいいはずだ。
傘折との距離はどんどん近づく。
このままじゃ戻れない。
一時の心の過ちじゃ済まなくなる。
だから彼女に踏み止まるように、立ち位置を確認するように私は彼女に聞く。
「恋人みたいじゃないですか? こういうの」
「そういう意味じゃない、なんで私とこんなことをしたいのか聞いてるんだよ」
なんで恋人のフリをしなきゃいけないんだという気持ちと同時に、なんで私なのか。
彼女は立ち振る舞いこそおっかなビックリでパッとしない印象だけど、あの整った見た目に加えこの献身さを加えたら人間として最強クラスだ。
Sティアにいるような人間と言っていい。
そんな人間が、なぜ私なんだ。
「そりゃあもう、私は燕ちゃんが好きですから」
キッチンから声が届く。
ただ、好きという言葉。
ふわふわと漠然としすぎなその言葉の輪郭はいまだに掴めない。
それを聞いて思い出すのは首を絞めた記憶と、その後にキスをされた記憶。
憎しみと少しの心地よさの緩急で頭がおかしくなりそうになる。
記憶すらも唇と一緒に傘折に吸われたように自分のまともさの中心が分からなくなる。
そうして辿り着くのはやっぱり「自分のことが好きなのか」という結論になる。
でも、いじめた人間を好きになることなんてあり得ないはず。
DV夫みたいに暴力の後で飴を与えていたわけじゃない。
ひたすら死んでほしくて追い詰めた。そんな考えの相手をどうして好きになれる。
ただ傘折にとって理由というのは本当にそれだけみたいで、それ以上言葉にする気はなさそうだった。
「出来ました。一緒に食べましょう?」
その言葉が聞こえると、鼻先をいい匂いが掠める。
まともな料理の匂いだ。
その匂いで私は、久しぶりに自分以外が作った出来立ての料理を食べることを思い出した。
高校に入って一人暮らしをするようになってからはずっと自分だった。
廃棄の弁当をもらったり期限ギリギリの肉や魚を茹でたり焼くだけ、それこそ料理と言えるかすら怪しいレベル。
だから、傘折の作った料理がしっかりとした『料理』の形を成していて、マジで出来るんだという驚きで感心の息が漏れる。
「凄……」
「簡単な料理ですけどね」
そんな謙遜を彼女はするけど、私からしたら考えられないほど手が込んでる。
豚肉と野菜の蒸し鍋……? なのだろうか。
鮮やかな色になったキャベツとかの野菜の上に豚肉が覆い被さるように乗っている。
家にフライパンがあればいいと言っていて、コンビニではカット野菜にもやしと冷凍の豚肉を買っていた。
それがこんなに立派なものになるなんて。
「あのさ……ありがと」
何も言わないわけにはいかないから、お礼を言葉にするけど、思った以上に口が重い。
「いえいえ。さぁ食べましょう。もう遅いですし」
「うん。あっ、この弁当……半分」
普段は弁当の半分を翌日の朝に回して朝ごはんにするけれど、今回は特別。
私の身体の燃費なら、このおかずがあれば明日の朝も食べなくて問題ないだろう。
私は買った半額弁当のおかずとご飯を半分蓋に分け、綺麗によそわれている弁当の方を傘折に渡した。
「フタの方でいいんですよ? 上がり込んでるの私ですし」
「作ってもらったのは私なんだからいい。偉そうな感じがして嫌なんだよ、ほら割り箸も」
偉そうに暴力を振るっておいて何言ってんだ。
喉の中で自分にそう言いつける。
わけがわかんないんだよ正直。
傘折を仲良くしてくれる良い人って好意的に見るか、なにか裏がある油断ならない人って否定的に見るか。
でも今は良い奴ってことにしておく。
良い奴にキツく当たる理由はない。
とかなんとか考えてこちらが悩んでいると、当の本人は箸を器用に使って豚肉を一口大に分けて掴み、こちらに差し出していた。
「ほら、あーん」
満面の笑顔で様子を伺うように見つめてくる。
まるで子供扱いされてるみたいで、私は顔を背ける。
「……そこまでしなくていいでしょ」
ただそんなことを言っても彼女の表情は変わらない。
つまり私に求めている行動も変わらない。
「あーん……?」
「はぁ……」
仕方ないから前に顔を突き出して彼女が箸で差し出したキャベツを口に入れる。
美味しかった。
彼女の作る料理は温かくて、甘くて、優しい味がした。
ただの野菜の味なのに。
どんどん塗り変わる。
彼女に抱いていた黒く冷たい感情が温められていく。
△
心がバランスを取り戻し始めていくのを感じる。
彼女に対して冷えた心が暖かさを取り戻そうとしている。
食事を終え、片付けをする傘折。
なんか制服のまま家事をさせているとすごい犯罪臭というか、申し訳ない感情を抱く。
ドラマとかに出てくる子供に世話をさせるダメ親父はこんな気分なんだろうか。
「あのさ……本当になんのつもりなの?」
皿をカチャリと洗う音に紛れるように声をかける。
ずっと考えていた。
やっぱりこの行動は異常だ。
何が目的でこんな奉仕活動を行なっているのかが理解できない。
好きな人には奉仕したくてたまらないような性格なのだとしても、私にはありえないでしょ。
顔も声色も強張ってしまう。
しかし傘折は私の本気を受け止めているのかいないのか、平然と言葉を返す。
「なんのつもりと言われましても」
「私があんたにしたこと……忘れてないよね?」
「はい、友達になってくれました」
「そっちじゃない! 私は、あんたを殺そうとしたんだよ」
夜11時にも関わらずつい大声を上げてしまう。
「それでも、私は変わらず生きてます」
「だからなに……? それで脅して恋人のフリをさせて何がしたいの……? 私を縛り付けるにしてもあんたのそばである理由がないじゃん」
いい加減、殺してほしい。
私の心の奥底には、少なからず罪悪感がある。
私だって人間なんだから、後ろめたさだってある。
電気椅子に座らされている夢を見ているような、息苦しく、逃げようのないものに磔にされる恐怖と焦燥感。
傘折が近づくとそれが強くなって、良い人だと知るたびに私は彼女にしたことを思い出す。
それを懇願するように声に込めて伝えたのだけれど、彼女には伝わらないようで傘折はずっと微笑んでいた。
「何度も言ってますけど……好きだからですよ。恋人のフリじゃなくて、本当は恋人になりたいんです」
「暴力振るって殺そうとした相手と恋人になりたいなんて馬鹿げてるって、しかも女だよ私」
「関係ありません。だって男の人を見るよりも、女の人を見るより、アイドルを見るより、イケメン俳優を見るよりも、私は燕ちゃんを見ていると幸せになるんですから」
キッチンから居間の私を見る視線に嘘は一切ない。
その視線が痛くて、少しいたたまれなくなる。
「シャワー浴びる」
だから感情をリセットするためにバスルームに入った。
トイレ別なおかげで脱衣所を挟むから、唯一空間的にもしきりが出来る。
近くにいる傘折について考えなくて済む。
とりあえずリセットしなきゃ。と思いながら私はシャワーを浴びた。
髪の毛を洗って心のモヤモヤをスッキリしよう。




