第102話 「汚泥の滝」
遠くから僕を呼ぶ声が聞えた気がする。
正気に戻ったセロンは、目の前にいる悪党のネイザーグを見下ろした。ネイザーグは、酷く怯えた様子で目を瞑っていた。
今まで、全身を突き動かすような激しい怒りにかまけて、冷静さを失っていた。だけど、誰かの諭す声が遠くの方から聞こえて、それがやけに頭に響いて、怒りが静まった。
誰なのか声までは覚えてないけど、おかげで、人を殺さずに済んだ。たとえ、どんなに凶悪で酷い人だとしても、人を殺すのは良くないとセロンは教えられている。その声は、僕に人を殺すなと言っていたのだと思った。
座り込んでいたネイザーグが、突然、よろけながら立ち上がり、不安定な足取りで走り始めた。
「逃がさないよ!」
セロンはネイザーグを捕まえようとした。ネイザーグは、左手をぎこちなく動かして、あらぬ方向に、魔法を発動していた。
左手を向けた先には、膝をついている男の子がいた。近くにある高熱の溶解液を動かして、少年を殺す気である。
セロンは、ネイザーグを追うのを止めて、少年の方へ走り出した。ネイザーグの魔法の精度が弱まっているのか、溶解液の動く速度が遅い。けれど、小さな波のように押し寄せる溶解液を対処できる魔法はない。怒りに支配されていた時は、何も意図せず、感覚だけで魔法を使っていたけれど、今は、そんな博打は打てないし、しようとする勇気も無かった。巾着袋から取り出していた丸い物質Pの塊は、再びしまった。
何も知らず、顔を伏せているツンツン頭の男の子をセロンは、持ち上げて、急いで、その場から離れた。少年は、混乱している様子で、逃れようともがいている。
ネイザーグが走って行った方に目を向けると、再び地下の施設内に戻ろうとしていた。
「罪を償え!!」
セロンは、叫んだ。男の子を、溶解液の届かない安全な場所に座らせて、追いかけようとした。
ドーン!!
突如、上空の方から、激しい爆発音がした。見上げても霧で何が起きたのか見えない。しかし、音に続いて、激しい轟音と共にドロドロの汚泥が大量に地下に流れ落ちて来た。地面を叩きつける汚泥は、大きな振動を起こし、地下を飲み込もうとする勢いだ。
このままだと不味い!
汚泥が流れて来るのは一か所だけではない。街の周囲から聞こえて来る。ネイザーグが入って行った地下施設への扉は、もう閉じられていた。
ドドドドド、と強く地面を打ちつける音と共に、大量の汚泥が流れ込んでくる。
セロンは、男の子を持ち上げて、採掘場に上がる階段に向かって、走るが、押し寄せて来る汚泥に追いつかれそうである。セロンは、走りながら、巾着袋から魔法アイテムを取り出そうとしていた。巾着袋は、スクミ―の魔法のおかげで、見た目以上の大きさの物が入るけど、取り出すのは、スクミ―がいないと面倒くさい。
巾着袋の奥まで手を伸ばして、やっと今欲しいものを取り出す。
男の子の手をガッチリと掴み、セロンは、片手に持ったリフトバルーンを起動した。バルーンが膨らみ、セロンと片手で掴んだ男の子が浮き上がる。
汚泥が迫るすれすれの所で、空中に回避し、セロン達は浮き上がった。他の倒れた採掘者達が呑み込まれるのを見た。セロンの力ではどうすることも出来なかった。気絶させてしまったのが良くなかったのかもしれない。そんな後悔が頭によぎるが、後の祭りである。
それにそれどころじゃなかった。男の子がパニックになってセロンの手を振りほどこうとしているのである。
「しっかりと両手で摑まって!! 落ちたら死んじゃうよ!!」
セロンは切迫した声で強く言った。
男の子は、下を見て、悲鳴を漏らし、慌てたかと思うと、空いている手でセロンの腕をがっしりと掴んだ。
濃い霧の中を上昇し続けている。街の側面から流れて来る汚泥の滝は、まだなお大きな濁音を響かせ、流れ続けていた。
崖の穴の上昇は、しばらく続いた。セロンには、このまま一番上まで浮上できる力と体力が残っていたが、男の子は、そうでは無かった。セロンの腕を掴んでいる少年の手の力が徐々に弱くなっているのを感じた。少年は目をギュッと瞑って、耐えている様子だった。
このままだと、少年の体力がもたないと思ったセロンは、崖側の方へ、ゆっくりと接近していった。採掘場の足場があるはずである。十分近づいたセロンは、坑道前のちょっとした一つの広場を見つける。採掘作業は、何事も起こっていないかのように続いていた。採掘者達は、鉱車を運び続けているし、監視は、チラリと汚泥が流れる様子を確認してはいるものの、特に慌てた様子はない。
見られて、色々と尋問されるのも嫌だったので、セロンは、途中の何もない坂道で着地した。男の子は、地に足がつくと壁際に倒れ込んだ。うずくまったまま動かない。放ってはおけないので、セロンも側に座り込んで休んだ。
滝のように流れている汚泥の勢いが弱くなっている。もうすぐしたら、止まりそうである。崖の上空で何か影がよぎったような気がした。
セロンは、虚しさを感じていた。自分を慕ってくれていたマールを助けられなかった。それに自分が倒した他の採掘者達も。少しばかり力が強くなっても、結局、関わった人を助けられない。何も成長している気がしないし、これでは、世界一優しい竜なんて妄言でしかない。
セロンが落ち込んでいると、坂道の下の方から誰かが来た。一瞬、採掘場の人達に見つかったのかと思ったけど、違った。深緑色の長いコートを着て、横幅が広めの荷車を引いているあっくんだった。荷車には、複数人の横になった人が乗っている。
「あっくん! どうしてここに!? 広場を通る時に監視の人に止められなかったの? それに、その人たちは……」
セロンは、訊きたいことだらけだった。
「話は、此奴らを上まで運んだ後だ」
落ち着きが無いセロンを制して、あっくんは、そう答えると、うずくまっている男の子を見た。
男の子は、話を聞いてくれる気配は無いし、動く気配もない。結局、セロンが背負って、坂を上り、採掘者の広場まで運んだ。
坂道を登っている途中で、優先して訊きたいことが整理出来た。なので、広場まで到着すると同時に訊くことにした。
「その荷台で気絶している人達って、僕が……」
「地下遺跡で倒れていた者達だ」
あっくんは、セロンが最後まで話す前に答えた。セロンは、目をパチクリとした。自分が見た時は、確実に汚泥に飲み込まれる瞬間を見たのに、どうやって助けたのか? それにその時は、あっくんの姿なんて、見えなかった。何か、奇跡を起こすような魔法でも使ったのだろうか?
「俺が地下に来た時は、泥の波がこいつ等に迫って来る瞬間だった」
荷台に乗った、採掘者達を降ろしながら、あっくんは、言った。
セロンは、荷台に乗っている採掘者達の人数が全然足りてないのに気づいた。
「他にも、僕が倒した採掘者達がいたけど、その人たちは……」
ただでさえ、奇跡的な救出をあっくんは、してくれたのに、さらに求めるのは、おこがましいと思い、セロンは言い淀んだ。
「倒れていた奴等は、みんな保護した。運んでいない奴は、下の坂に置いている。泥に埋もれない高さまで運んだから大丈夫だ」
セロンの知りたいことを直ぐにあっくんは答えてくれた。
セロンは、救われた気持ちになって、あっくんが採掘者達を降ろすのを手伝った。それから、あっくんは残りの気絶している採掘者達も、上の広場まで運んだ。セロンは、手伝おうとしたが、あっくんが、男の子を一人に置いておくつもりか、と言うので、残ってじっとしていた。男の子は相変わらず、うずくまったままである。
待っている途中、セロンは、微かな希望を抱いていた。人任せな考えで、体たらくなことだけど、もしそうだとしたら、ダメダメな白竜でもいいと思った。けど、話を訊いた時、その都合のいい考えは打ち砕かれた。
「……セロン、お前、一人で勝手に危険な行動をしていたのか?」
倒れた採掘者を全員運び終えたあっくんは、セロンの話を聞いて、呆れた表情で言った。
あっくんは、街の地下での出来事を知らなかった。マールが殺された事実は変わらない。セロンは、深く肩を落とした。
マールの話をすると、近くで聞いていた男の子は反応し、顔を上げた。
「お前が殺して食べたんじゃないのか!!?」
男の子は、悲壮感と恨みの籠った表情だった。
「殺してないし、食べてないよ。仲良くなっただけで……」
セロンは、きっぱりと否定したが、マールのことを思い出して、悲しみが込み上げて来た。あっくんは、喪失感漂う空気に、ことの重大さを悟った様子だった。
誰も何も言葉を発さない時間が流れた。
「俺は、部隊にこいつ等の保護を任せなきゃいけないから、行くぞ?」
あっくんが、出し抜けに言った。
「……僕も行くよ。逃げたネイザーグを捕まえたいし……」
セロンはくよくよしていると動けなくなってしまいそうなので、行動しようと思った。男の子も放置しておけない。一緒に来て貰おうとしたが、放って置いてくれ、と頑なに言うので、そのまま別れた。彼にとっては、この場所が家だし、気が触れる様子でも無かったから、問題はないと判断した。
セロンとあっくんは、採掘者の広場を後にし、街の方へ戻ろうと歩いた。しかし、街に繋がる橋の手前で、さらに衝撃を受ける光景を目の当たりにした。




