apple(林檎)
麦畑を切り開いたかのような道を行く二人の間には会話がない。
路傍では鈴虫のオーケストラが新たな季節を迎え入れるために響き、背の高い麦達もその音色に呼応するように穂を揺らす。そんな音だけが辺りを包み、陽を落としはじめている。
結局、胸に靄を抱えたままベア亭を後にしたエミリア。
「良い匂いだな」
今にも消え入ってしまいそうなぎこちない口調で切り出したエドガーは、匂いの元に目を落としている。
「珍しい食材というのは、林檎だったようですね」
昨今のロンドンでは青果の出回りが滞りがちだったため、口に出来るのはそれこそ一流階級の特権だった。仮に庶民が手に入れられても、不出来で不揃いなものがほとんどで値段も法外なものが多い。
しかし、ドロスが持たせてくれたものは形も艶も良く、真っ赤な薄皮からはデザートワインにも似た甘く鮮烈な香りを漂わせていた。ワインセラーに保管していたのが功を奏しているようにも思える。
「実に良い香りだ。どれ、1つ頂こう」
布袋から溢れんばかりの林檎を無造作に掴むと、服に擦り付けて表面の汚れを落とすエドガー。
そのままでも食べられそうだった林檎は、表面を磨いただけで一層輝きが増し、繊細な飴細工でコーティングされたような艶を放つ。
徐々に傾いてきた夕陽がその林檎を照らす度、太陽を手中に収めているように見える。
その林檎を皮ごと食べるエドガーからは、シャクシャクと独特な音が響き、先程に比べ物にならないくらいの甘い甘い香りが充満し始めた。
(・・・貴方は優しいから。だからさっきの話を聞かないでいてくれる)
歩を止めてしまったエミリアの頬を冷涼な風が吹き抜けていく。
秋口らしいそんな風に乗った林檎の甘い香りが、エミリアまで届く。
匂いも、温度も、空気も感じられるのに、エドガーの逞しい背中を見るたびになにもかも色褪せてきてしまう。
(けれど、このままじゃいづれは気付かれてしまう。いや、もう薄々気づいているかもしれない)
エミリアには、周りが色褪せて見えるこの原因がなんなのかは見当がついていた。
そしてそれをずっと隠し続けてきた。
誰にも悟られないように、感付かれることのないように。
しかし、その想いは少しずつ削られ綻びが生じつつあった。自身の心は律した筈なのに。
先よりも強く吹き抜けた風がザッと麦を揺らしたのと同時にか細い声で呟く。まるで、自分に言い聞かせるように。
「マリアを殺したのは、他の誰でもない・・・私なのだから」
誰にも拾われる事が出来ない音色だった筈なのに、エドガーは半身をエミリアに向け優しく微笑んだ。
その姿を見たエミリアは、初めてエドガーに恐怖心を抱いた。