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第9話

外套を預けて手を洗い、執務室へ戻ると、卓の上にはまだ何も置かれていなかった。


 いつもなら、ルクスが先に湯を用意してくれている。


 けれど今日は、彼も私と一緒に入口に立っていた。


「すみません。少しお待ちください」


「急がなくてよいのよ」


 思わず、彼の袖をつまんだ。


 ルクスが振り返る。


 私は自分の指先を見て、慌てて離した。


「……私も、ご一緒してよろしい?」


「厨房へ、ですか」


「ええ。お茶の場所くらい、覚えておきたいのです」


「もちろんです。こちらです」


 歩き出した彼の隣へ並ぶ。


 廊下の途中で、ルクスが小さく言った。


「さっき、少しからかいすぎましたね」


「猪のお話?」


「はい」


「構いませんわ。私も、あんなに大きなものを連れ帰るつもりはありませんでしたもの」


「連れ帰る、と言われると、まだ動きそうで怖いです」


 その言い方がおかしくて、私はまた笑ってしまった。


 ルクスも笑った。


 仕事の途中で交わす短い笑みとは違って、目元まで柔らかくなる。


 私はつい、その横顔を見ていた。


     *


 厨房では、夕食の支度が始まっていた。


 鍋から湯気が上がり、調理台には洗った根菜が並んでいる。猪の肉はまだ処理の最中で、使える分を確かめてから、保存用と調理用に分けるそうだ。


 ルクスは料理人へ声をかけ、炉の端にある湯を分けてもらった。


「茶葉は、こちらの棚です」


 木箱の蓋を開けると、乾いた葉の匂いがした。


「どのくらい入れるの?」


「この匙で、二人なら一杯半くらいです。少し薄めがお好きでしたら、一杯でも」


「あなたは?」


「僕は、一杯半で」


「では、それで」


 匙を持ち、葉をすくう。


 半分のつもりが、少し多くなった。


 私は箱へ戻そうとして、ルクスを見た。


「これでは、濃すぎるかしら」


「お湯を少し増やせば大丈夫です」


「帳簿より、融通が利きますのね」


「はい。ですから、淹れる時まで緊張なさらなくても」


 笑みを含んだ声に、私は肩を下ろした。


 茶器へ湯を注ぐ間も、彼は横から手を出さず、私が尋ねた時だけ教えてくれた。


 最後に蓋をして、少し待つ。


 ただそれだけなのに、自分で用意したと思うと、待つ時間まで楽しみだった。


 調理台の向こうで、料理人が林檎を切っている。


 小さく、形の不揃いな林檎だった。


「それは、何に使うのですか」


「煮て、明日の粥に少し添えようかと。傷んだところを取ると、あまり残りませんけどね」


「お手伝いしても?」


 尋ねると、料理人は私の手を見た。


「痛まないなら、一つだけ。そこに腰掛けがあるので、座ってどうぞ」


 私は頷き、小さなナイフを受け取った。


 ルクスは茶器のそばに残り、時々こちらを見る。


 林檎を持ち、刃を当てる。


 皮と一緒に、実が厚く取れた。


 私は手を止めた。


「……難しいですわね」


「剣とは、違いますか」


「ずっと」


 素直に答えると、ルクスは口元を押さえた。


「笑っていらっしゃるでしょう」


「すみません。でも、そんなに真剣なお顔をされるとは思わなくて」


「食べられるところまで取ってしまいましたもの」


 料理人が私の手元を覗き、剥き方をゆっくり見せてくれた。


 ルクスも隣へ椅子を寄せ、一つ受け取る。


 彼の手の中では、薄い皮が途切れずにつながっていった。


「お上手なのね」


「慣れです。最初は、僕も四角い林檎を作りました」


「私のは、もう少し複雑な形ですわ」


 手の中の林檎を見せると、ルクスはとうとう声を立てて笑った。


 それにつられて、私も笑う。


 指導してくれた料理人まで笑ったので、私は困った顔のまま、もう一度林檎へ刃を当てた。


 今度は、ほんの少しだけ薄く取れた。


     *


 お茶を飲む頃には、少し冷めてしまっていた。


 窓際の小さな卓へ茶器を運び、向かい合って座る。


 ルクスが一口飲んだ。


「おいしいです」


「本当に?」


「はい。僕がいつも淹れるものと、同じくらい」


「それなら、よかった」


 ほっとしてから、自分でも口をつける。


 少し渋みがある。けれど、慣れた味だった。


 料理人から分けてもらった、林檎の切れ端が小皿に載っている。傷んでいない部分を取り分けてくれたものだ。


 一つ口に入れると、思ったより酸っぱかった。


 私が目を細めると、ルクスがすぐに尋ねた。


「酸っぱいですか」


「少し」


「こちらの木は、煮るのに向いた実がなるんです。僕は、生でも好きですけれど」


「甘いものより?」


「どちらも好きです。でも、少し酸味が残っている方が」


 私は頷いた。


 お茶の濃さは、一杯半。


 林檎は、少し酸っぱい方。


 帳面には書かなくても、覚えていられそうだった。


「領主様は、甘いものがお好きですか」


「ええ。焼き菓子も、果物を煮たものも好きです」


「では、今日の林檎も、煮上がったらきっと」


 ルクスはそこまで言って、私を見た。


「どうされました?」


「……私の好みも、聞いてくださるのね」


 彼は少し不思議そうな顔をした。


「お嫌いなものを、お出ししたくありませんから」


「そうですね」


 私は頷いた。


 その答えは、補佐官としても、ごく自然なものなのだろう。


 それでも、彼の方から尋ねてもらったことが嬉しかった。


 ルクスは杯を置いた。


「それと、僕も知りたいです」


 私は顔を上げた。


「領主様が、どんなものを召し上がると喜ばれるのか」


 窓の外で、木を降ろす掛け声がした。


 その声が、急に遠く聞こえた。


「……では、少しずつお話しします」


「はい」


「あなたのことも、教えてくださる?」


 ルクスは一度瞬きをしてから、頷いた。


「僕でよければ」


「ルクスのことを、知りたいのです」


 言ってしまってから、杯へ視線を落とした。


 お茶の表面に、窓の明かりが揺れている。


 返事までに、少しだけ間があった。


「……はい」


 その声も、いつもより小さかった。


     *


 しばらくして、セバスチャンが扉を叩いた。


「お嬢様。大工から、明日の作業の確認を頼まれております」


「はい。今、伺います」


 立ち上がりかけると、家令は静かに首を振った。


「お茶がお済みになってからで結構です。まだ、日暮れまで時間がございますので」


 卓の上の小皿を見て、彼が目を細める。


「こちらで召し上がっていたのですね。厨房で、お嬢様が林檎を剥かれたと聞きました」


「……上手くはできませんでしたけれど」


「初めてでしたから」


 ルクスが、すぐに言ってくれた。


「最後の方は、薄く剥けていました」


「一か所だけですわ」


「一か所できれば、次は二か所できます」


 セバスチャンは黙って聞いていた。


 その口元が柔らかくなっているのに気づき、私は少し照れた。


「何ですの?」


「いえ。明日の朝食が、楽しみでございますね」


 それだけ言って、家令は部屋を出ていった。


 私は椅子へ座り直す。


 ルクスはもう一切れ、林檎を食べていた。


「セバスチャンは、昔からああなのです」


「お優しい方ですね」


「ええ。私が何かすると、いつも覚えていてくださるの。今でも、子どもの頃に転んだ話をなさるのよ」


「どちらで?」


「お祖母様の部屋へ行く途中の、廊下で」


「走られたんですか」


「……内緒にしてくださる?」


 ルクスが笑い、頷いた。


 私は、祖母が昼寝から起きる頃を見計らって会いに行っていた話をした。


 菓子を一つ分けてもらえることもあったし、剣の稽古を言いつけられることもあった。


 それでも毎日のように通っていた、と話すと、彼は静かに聞いてくれた。


「お会いしたかったんですね」


「ええ」


 私は頷いた。


「何も用がなくても、行ってよかったから」


 言葉にしてから、少し黙った。


 祖母の部屋には、報告も、よい成績も必要なかった。


 ただ扉を叩けば、入れてもらえた。


 ルクスは急いで何かを言おうとはせず、茶器を手に取った。


 残りのお茶を、二人の杯へ少しずつ注ぐ。


「僕は、いつも執務室か倉庫にいます」


「……ええ」


「忙しい時は、少し待っていただくかもしれません。でも、お話しする時間は取れますから」


 私は彼を見つめた。


「お仕事の話でなくても?」


「はい」


「林檎の剥き方でも?」


「僕で分かることでしたら」


 目の奥が、少し熱くなった。


 けれど今度は、笑うことができた。


「では、またお茶に誘ってもよいかしら」


「もちろんです」


「お暇な時に」


 ルクスは頷きかけ、少し考えた。


「それだと、僕は仕事を探してしまうかもしれません」


「……私も、そうすると思います」


「ですから、時刻を決めませんか」


 彼は壁の時計を見た。


「明日も、このくらいに。急ぎの用が入ったら、少しずらして」


 私は時計と彼を見比べた。


 明日の予定に、お茶の時間が一つ増える。


 仕事を終えた褒美でも、何かを相談するためでもない。


 ただ、一緒に座るための時間だった。


「ええ。では、明日も」


 そう答えると、ルクスは嬉しそうに微笑んだ。


     *


 お茶を終えて廊下へ出た時、西の窓から低い光が差し込んでいた。


 私は数歩進んでから、彼を振り返った。


「ルクス。一つ、お願いがあります」


「はい、領主様」


「その呼び方なのですけれど」


 彼が足を止めた。


「お仕事の時は、もちろん、そのままで構いません。ただ……お茶の時くらいは、名前で呼んでいただけませんか」


 口にすると、思っていたより恥ずかしかった。


 私は両手をそっと重ねる。


「この家では、そう呼ばれることにも、慣れたいのです」


 ルクスは私を見ていた。


 少しして、姿勢を正す。


「……フィリア様」


 たったそれだけで、胸が落ち着かなくなった。


 自分からお願いしたのに、すぐには返事ができない。


「これで、よろしいでしょうか」


「はい」


 慌てて頷き、それから言い直した。


「ええ。ありがとう、ルクス」


 彼の耳も、薄く赤くなっていた。


 廊下の先から、セバスチャンが私を呼ぶ声がする。


 私はそちらへ向かおうとして、もう一度だけ振り返った。


「明日のお茶は、私が淹れますね」


「では、茶葉を量る匙を出しておきます」


「一杯半でしょう?」


 覚えていた、と伝えたかった。


 ルクスは少し目を見開いて、柔らかく笑った。


「はい、フィリア様」


 今度は、返事をする前に笑みがこぼれた。

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