第8話
最後まで読み終えると、彼は椅子の背へ覆い布は、思っていたより大きかった。
向かい側の男性と端を合わせようとすると、真ん中がたるみ、裾が地面へ触れそうになる。
「ああ、そこは一度、こっちへ折るんです」
「こちらですか?」
「そう。そのまま持っていてください」
言われた通りにすると、広がっていた布が少しずつ細長くなっていった。
最後に巻いて縄を掛ける。
それだけのことなのに、終わる頃には頬が温かくなっていた。
「助かりました」
男性が布を荷車へ載せながら言った。
「また、お願いします」
「ええ」
返事をすると、彼は軽く頭を下げ、馬の手綱を取った。
私が何をできるのか、皆、まだ知らない。
私も、この土地で何ができるのかを、一つずつ覚えているところだった。
*
その夜、備蓄の計算を終えたルクスは、帳面の数字を二度確かめた。
「今の配給量なら、冬の半ばまでは見通しが立ちます。ただ、これから増やす分も考えると、二度目の買い付けは必要です」
「種籾は、別にしてありますか」
「はい。食べる分には含めていません」
私は頷いた。
小麦が届いたことで、気持ちは随分楽になった。けれど、それを全部食べてしまえば、次の春に困る。
「配給を戻す時期は、村長たちと相談しましょう。家に残っている分も、それぞれ違うでしょうから」
「明日の午後なら、集まっていただけます」
ルクスが予定を書き込む。
その手が止まり、彼は小さく瞬きを繰り返した。
「目が疲れました?」
「少しだけ」
「では、残りは私が読みます。数字を確かめてくださる?」
帳面をこちらへ向け、声に出して読み始める。
小麦の袋数。古い備蓄から使う量。明日、粉屋へ渡す分。
ルクスは目を伏せ、時々頷いた。体を預けた。
「合っています」
「よかった」
「……読み上げてもらうと、ずっと楽ですね」
「これからも、そういたしましょう。二人で同じ紙を覗き込まなくても、確かめられますもの」
私が帳面を閉じると、ルクスは薄く笑った。
「領主様のお声は、聞き取りやすいです」
「声を出す練習だけは、随分いたしましたから」
式典の挨拶、来賓の紹介、長い祝辞。
言い間違えれば最初からやり直した日々を思い出す。
「小麦の数を読む方が、緊張せずに済みますわ」
「僕は、こちらを間違える方が怖いです」
「そうね。それは困ります」
二人で笑い、灯りを一つ落とした。
立ち上がったルクスの肩から、ずれていた上着が落ちかける。
私は手を伸ばし、襟元を整えた。
すぐ近くで、彼が動きを止める。
「……ありがとうございます」
「外へ出る時は、きちんと留めてくださいね。北は、平気なうちに温めるのでしょう?」
初日に教わったことを返すと、彼は少しだけ頬を赤くした。
「覚えていらしたんですね」
「よい先生でしたから」
そう答えた私まで、なぜか目を合わせにくくなった。
*
翌朝、魔狼の素材を扱った職人と、買い取りに来た商人が館を訪れた。
魔石は六つ。
牙は欠けたものを除き、皮は傷の位置によって値が分かれる。
大きな一頭の皮にはよい値がついたが、私が最初に斬った一頭は、首元の傷が広く、少し安くなるという。
「倒せば同じ、ではないのですね」
思わず呟くと、職人が頷いた。
「ええ。ただ、傷をつけまいとして怪我をされても困ります。売るための狩りと、襲ってくるものを止めるのは違いますから」
「それは、忘れないようにします」
提示された額を、ルクスが控えへ書き写した。
解体の工賃、運搬の費用、処理に使った塩。
それらを引いた後にも、まとまったお金が残る。
「これなら、倉庫の雨漏りと、何軒かの屋根を直せますね」
「はい。盾の修繕費も取ってあります」
私は息をついた。
商人は書面を整えながら、私の腰の剣を見た。
「討伐には、女伯爵様も加わられたとか」
「ええ。二頭を仕留めました。どちらも、皆さんに助けていただきましたけれど」
「……あの大きいものも?」
「槍で止めてくださった方がいたので」
商人の手が止まった。
私は何か説明を忘れたかと思い、隣のグランを見た。
彼はいつもの顔で言った。
「記録の通りです」
商人は私をもう一度見て、それから丁寧に頭を下げた。
少し、不思議な間だった。
*
お金の使い道を決めても、修繕がすぐに終わるわけではなかった。
大工の次の言葉は、材が足りない、というものだった。
「橋に使った分で、残してあった厚板はほとんどなくなりました。屋根の下地なら細い材でもよいですが、梁はそうはいきません」
「街で買う場合は?」
「買えます。ただ、運ぶ分が高くつく。領内の伐採地を使えれば、ずっと安いんですが」
私は地図を引き寄せた。
西の街道から南へ分かれた先に、木を積む場所の印がある。
そこへ指を置くと、大工が頷いた。
「夏に伐っておいた丸太が、まだ残っています。運び出せる状態か、見に行きたい」
グランが地図を覗き込む。
「魔狼の縄張りとは離れております。ただ、大猪の出る畑が近い」
以前、荷車の男性から聞いた場所だった。
私は指を止めた。
「畑の柵を、何度も壊されているところですね」
「ええ。材を運ぶ間、見張りは必要でしょう」
「私も参ります。道と伐採地、それから畑の様子を見たいのです」
グランは私の顔を見た。
今度は、剣を使えるかどうかは尋ねなかった。
「では、弓手を一人。材を確かめる間は、皆でまとまって動きましょう」
*
伐採地へ向かったのは、その翌朝だった。
グランと弓手、それから大工と木こりが二人。
荷を運ぶ車は、材の状態と道を確認してから入れることになっている。
畑の端を歩くと、柵の一部が外側から押し倒されていた。
折れた杭の周囲には、大きく土を掘り返した跡がある。
私はしゃがみ込み、地面を見た。
「これは、昨夜のものですか」
木こりの一人が隣へ膝をついた。
日に焼けた、手の大きな女性だった。
「霜の上から踏んでますね。明け方でしょう」
「まだ近くにいるかもしれない」
グランの言葉に、全員が周囲を見渡した。
女性は腰に下げた斧へ手を添えたが、グランは首を振った。
「今日は木を見てもらうために来た。戦う時は、こちらへ任せてくれ」
「分かってるよ。退く場所だけ、見ておく」
彼女は畑と森の間を確かめ、石垣の切れ目を指した。
「あそこへ入れば、道まで抜けられる。足元に古い溝があるから、落ちないように」
私はその位置を覚えた。
風に、枯れ葉が鳴った。
その下で、別の音がした。
重い鼻息。
グランが剣を抜く。
「来るぞ」
低い茂みが持ち上がり、黒褐色の体が現れた。
大きな猪だった。
背の毛は針のように逆立ち、口元から太い牙が突き出している。
畑の土を踏み、一度、鼻先をこちらへ向けた。
「石垣の方へ。走らずに」
グランが言う。
大工たちが下がる。
私も剣を抜き、二人との間へ立った。
弓手が矢を放つ。
矢は肩へ刺さったが、厚い体を止められなかった。
猪が短く鳴いた。
地面を蹴る。
狙いは、動いている人の方だった。
「こちらです!」
私は一歩、前へ出た。
刃先を向けると、猪の頭がわずかに動く。
近い。
土を蹴る音が、腹の底へ響いた。
正面から剣を当てても、こちらが弾かれる。
私は退く先を確かめ、ぎりぎりまで待った。
黒い頭が下がる。
そこで、横へ踏み込んだ。
牙が外套の裾をかすめる。
剣を振り下ろし、走り抜ける前脚の後ろを斬った。
重い体が傾く。
けれど倒れない。
猪は土を抉りながら向きを変えた。
「追うな!」
グランの声が聞こえた。
私はその場で構え直す。
斬った脚には、十分に重さをかけられていない。
それでも、目はまだこちらを捉えていた。
傷つけたことで、次の動きが読めなくなる。
私は息を吐き、剣を持つ腕から余計な力を抜いた。
猪が、再び来た。
先ほどより体が低い。
右へ逃げれば、倒れた柵がある。
左には、古い溝。
私は半歩だけ後ろへ引き、相手の頭が届く直前に、体を左へ捻った。
前脚が、溝の縁へかかる。
傷ついた脚が支えきれず、猪の肩が沈んだ。
私は柄を両手で握り、耳の後ろから首へ刃を入れた。
体の動きに合わせ、一歩踏み込む。
猪が地面へ崩れた。
「下がって」
グランの声で、すぐに距離を取った。
彼が槍代わりの長い棒を使い、反応を確かめる。
私は剣先を向けたまま待った。
やがて、グランが頷いた。
「……仕留めておられます」
その声を聞いて、ようやく息を吸えた。
*
「皆さん、お怪我は?」
振り返ると、大工たちは石垣の向こうにいた。
弓手も頷く。
「ありません」
「よかった」
私は剣を下ろした。
外套の裾を見る。
少し土がついているだけで、破れてはいなかった。
木こりの女性が石垣の切れ目から出てきて、倒れた猪へ近づいた。
ただし、グランがもう一度確かめるまで、手は触れない。
「……こいつだね」
「分かるのですか?」
「片方の牙が欠けてる。畑に出てくるのを、二度見たんだ」
私は大きな牙を見た。
確かに先が不揃いだった。
「これで、柵を直せますか」
「ほかにもいるかもしれないから、見張りはいるよ。でも、こいつを気にしなくて済むのは大きい」
女性は私へ顔を向けた。
「領主様。斧で木を倒す前に、猪を倒しちまうとは思わなかった」
「私も、今日は木を見に来たつもりでしたわ」
答えると、彼女は短く笑った。
グランは猪の前脚の傷と、溝の縁を見比べていた。
「朝稽古より、動きがよろしいですな」
「相手の剣を読まなくてよいからでしょうか」
「……それだけでは、こうはなりませんが」
何か考え込むように、彼は顎を撫でた。
私は答えを待ったが、グランは先に仕事の話へ戻った。
「肉を扱える者と、車を呼びます。材も猪も、置いて帰るわけにはいきませんからな」
*
伐採地の丸太は、すべてが使えるわけではなかった。
地面へ直接触れていたものは傷み、いくつかには虫が入っている。
木こりの女性が一本ずつ確かめ、大工が印をつけていった。
「これと、これ。梁にするなら、先に運びたい」
「細いものは?」
「割って使える。柵にも回せます」
私は邪魔にならない場所で、印の数を控えた。
森の奥へ視線を向けると、木々の間に古い石柱が見えた。
苔をかぶっているが、表面に何か彫られている。
「あれは?」
「昔の境界標だよ。レインズワースの印がある」
女性に教えられ、近くまで歩いた。
石に触れず、苔の切れ目から模様を見る。
祖母の書類に押されていた印章と、よく似ていた。
「お祖母様も、ここを歩かれたのかしら」
「歩いてたよ」
背後でグランが答えた。
「木を切りすぎるなと、よく言っておられました。屋敷の暖炉へ放り込む前に、来年も同じ場所で採れるか考えろと」
私は森を見た。
すぐに使える木が欲しい。
けれど、来年にも、その先にも必要になる。
祖母は、その両方を見ていたのだ。
「私にも、教えてください。残す木と、切ってよい木を」
木こりの女性が、斧の柄を握り直した。
「なら、今日だけじゃ終わらないね」
「ええ。また来ます」
「次は、猪抜きで頼むよ」
私は少し笑って頷いた。
*
館へ戻った時、ルクスは門の前で待っていた。
私を見て、次に後ろの荷車を見る。
丸太の前には、覆いをかけた大きな荷が載っていた。
「……材を、見に行かれたんですよね」
「ええ。使えるものに印をつけていただきました」
「それと?」
私は少し考えた。
どう説明しても、結局は同じことになる。
「畑を荒らしていた大猪に遭遇しましたので、討伐を」
ルクスが、ゆっくり瞬きをした。
荷車の男性が覆いを少し上げる。
彼は大猪を見てから、私へ視線を戻した。
「お怪我は」
「ありません。皆さんも」
今度は、きちんと言えた。
ルクスは息を吐き、荷車が通れるよう門を大きく開いた。
「解体の方を呼んできます。……木の見積もりに、肉の処理まで加わるとは思いませんでした」
「私もですわ」
思わず答えると、彼は私の顔を見た。
それから、困ったように笑った。
「お帰りなさい、領主様」
「ただいま、ルクス」
私は鞄から帳面を取り出した。
丸太の本数の下へ、大猪一頭、と書き加えてある。
「柵の修繕も、進められそうです。今度、畑の方にもお話を聞いて――」
そこまで言った時、ルクスが私の外套についた木屑を一つ取った。
指先が肩へ触れ、言葉が止まる。
「続きは、中で聞かせてください」
「……はい」
「お茶を淹れます。今日は、何も倒さずに飲めますから」
私は彼を見上げた。
青い目が、ほんの少しだけ楽しそうだった。
「お茶の時間まで、そのお話をなさるの?」
「少しだけ」
笑いをこらえながら言われ、私もとうとう笑ってしまった。
門の向こうでは、丸太を降ろす場所について声が交わされている。
私は帳面を閉じ、ルクスと一緒に館へ入った。




