第7話
木屑を集めていた若者から籠を受け取ろうとすると、大工に呼び止められた。
「領主様。それより、こちらを覚えておいていただけますか」
橋の両端に、白く削った杭が打たれている。
「この間では、荷車を止めないでください。急いで走らせるのも駄目です。馬は人が引いて、ゆっくり、一台ずつ」
「はい」
「積み荷の重さを増やす時は、もう一度、下を見ます。今、通せると言ったのは、さっき伺った小麦の積み方までです」
私は頷き、帳面へ書き留めた。
橋の上には、新しい板が二枚、明るい木肌を見せている。
修繕が終わったからといって、どんな荷でも通せるわけではない。運ぶ人に、そのことまで伝えなければならなかった。
「知らせを書いて、両側の見張り小屋にも置きましょう。字を読めない方には、見張りから直接説明していただきます」
「そうしてもらえれば」
大工はようやく、腰を伸ばした。
私は水筒を差し出す。
「少し、お休みになって」
「あと、釘の頭だけ確かめます」
「その後に」
彼は私を見て、やがて水筒を受け取った。
「……では、その後に」
どこかで聞いた返事だと思った。
*
帰路についたのは、約束した時刻を少し残した頃だった。
橋の先へ出ていた見回りは、次の見張り小屋まで往復していた。新しい群れの姿も、人を追う足跡も見当たらなかったという。
しばらくは護衛をつけ、明るい時間だけ通す。
グランと相談し、そう決めた。
巣に残った二頭については、猟師が引き受けてくれた。翌朝、捕獲用の檻を運び、街道から離して管理する。飼育や移送を任せられる相手が見つかるまでは、餌代も見張りも必要になる。
私はその費用も帳面へ書いた。
討伐した後にも、決めることは残っていた。
魔狼を載せた荷車は、ゆっくり進む。
大きな一頭の重みで車体が傾かないよう、左右へ荷を分け、縄を掛け直していた。
「この結び目、よく締まりますな」
荷を確かめた男性が言う。
「昨日、倉庫で縄を選り分けてくださった方がいましたから」
私が答えると、彼は頷いた。
「あいつなら、こういうのは細かい」
その言い方に親しみがあって、私は少し笑った。
道端には、朝より長い影が落ちていた。
館の門が見えた時、ようやく自分がどれほど疲れているか分かった。足を止めると、次の一歩を出すのが億劫になりそうだった。
門の前に、亜麻色の髪が見える。
私は背筋を伸ばした。
「お帰りなさい、領主様」
「ただいま、ルクス」
言ってから、ほっと息が漏れた。
ルクスの視線が、私の顔と、戻ってきた人たちを順に確かめる。
「皆さんも、お帰りなさい。腕を痛めた方は、先に中へ。手当てのできる人に来てもらっています」
盾役の青年が、少し驚いた顔で頷いた。
使いが、私の手紙以外にも様子を伝えてくれていたのだろう。
「魔狼は、裏の作業場へお願いします。皮を扱える方たちが待っています。今日は冷やして保管するところまで、と伺っています」
「助かる」
グランが荷車の方へ向かう。
私も続こうとすると、ルクスが一歩だけ近づいた。
「領主様は、こちらへ」
「でも、確認を――」
「グランさんから聞きます」
そこで彼は、私の足元を見た。
「靴紐が、ほどけかけています」
見下ろすと、片方の結び目が緩んでいた。
屈もうとして、膝に疲れを感じる。
ルクスは近くの腰掛けを示した。
「座ってからで大丈夫です」
私は素直に従った。
紐を結び直しながら、つい笑ってしまう。
「帰り着くまで、ちゃんとしていようと思ったのに」
「ちゃんと、帰ってこられましたよ」
顔を上げた。
ルクスは私の持っていた鞄を受け取り、その重さを確かめるように持ち替えた。
「お手紙も、読みました」
「……林檎のことまで?」
「はい」
彼の口元が、少し緩んだ。
「入れておいて、よかったです」
私は紐の結び目へ視線を落とした。
「おいしかったです」
それ以上のことを言いたかった気もする。
けれど、どんな言葉にすればよいのか分からず、もう一度だけ紐を引いた。
*
その晩、街道の通行条件を知らせる書面を整え、西の街へ使いを出した。
手付金は、交渉の返事を待ってから払うため、まだ手元にあった。
まずは買い付けを二回に分けられるか。そして最初の分を、取り置きの期限内に引き取れるか。
使いには、こちらで支払える額と、変えてはいけない条件を記した紙を持ってもらった。
私は署名を済ませると、ペンを置いた。
「……このくらいの字なら、読んでいただけるでしょうか」
腕が重く、最後の名前が少し右へ下がっていた。
ルクスが覗き込む。
「読めます。左手で書かれたお手紙も、ちゃんと読めました」
「あちらは、忘れてくださいませ」
「報告書として保管しますので」
「林檎のところも?」
「はい」
真面目に答えられ、私は困った。
困ったけれど、嫌ではなかった。
ルクスは書類を乾かしながら、少し声を和らげた。
「僕も、昼食を取りました。豆の煮込みとパンです」
「倉庫番さんの前で?」
「はい。最後まで見届けられました」
私はとうとう笑ってしまった。
笑うと、胸の奥に残っていた硬いものが、少しほどけた。
*
翌日の午後、西の街から返事が届いた。
最初の買い付けを減らすことは認められた。ただし、取り置きの期限は変わらない。残りの小麦についても、次に買う時まで同じ値段で残しておく約束はできないという。
私は書面を読み、頷いた。
「まず、一度目を確実に運びましょう」
その日のうちに、買い付けの手付金を持たせた先行の使いを出す。
荷車は翌朝、出発する。
二台に分けて積み、往復とも護衛をつける。橋では一台ずつ通し、荷が重ければ手前で降ろして、人の手で分けて渡す。
運び手の一人が、地図へ指を置いた。
「街を昼過ぎに出られれば、戻る途中でここに泊まれます。見張り小屋の隣の、古い馬宿です」
「使えるのですか」
「屋根は残ってます。前に泊まった時も、馬を繋ぐところは無事でした。ただ、毛布は持っていかないと」
ルクスが持ち物へ書き足す。
「その日のうちに領内まで戻ろうとしない方がよい、ということですね」
「ええ。急いで暗い森を通るよりは」
私は地図を見た。
早く届けてほしい。
その気持ちはある。
けれど、早く届けるために、運ぶ人を危険へ追い込んではいけなかった。
「では、そこで一泊してください。出発と到着の時刻を、見張り小屋へ知らせるようお願いします」
運び手が頷く。
窓の外では、荷車へ空の袋や覆い布が積まれていた。
今度はそれが、小麦を載せて帰ってくる。
そう考えるだけで、落ち着かなくなった。
*
買い付けの一行が出発してから、私は何度も窓を見た。
午前中は、素材を扱う職人の話を聞いた。
午後には、未払い分の支払い予定を村長たちへ説明した。
どちらも必要な仕事だった。話している間は、目の前のことを考えられる。
けれど一区切りつくと、西の道へ目が向いた。
「まだ、街へ着いた頃です」
三度目に窓辺へ立った時、ルクスが言った。
「分かっています」
「はい」
彼はそれ以上何も言わず、卓の端へ二枚の紙を並べた。
一枚は小麦の購入代金。もう一枚は、魔狼の素材についての仮の見積もりだった。
確定した収入ではないが、魔石と牙には買い手がつきそうだという。
皮は傷みの程度を見てから。大きな一頭のものは、街の商人へ見せる必要がある。
「思っていたより、値がつくのですね」
「解体や運搬の費用を引いても、修繕に回せる分は残りそうです」
私は数字を追った。
まだ冬のすべてを賄えるわけではない。
それでも、払えなかったものが一つ、二つと払えるようになる。
「盾を、直しておきたいです」
「はい。革紐も傷んでいましたから、そちらも」
ルクスが書き留める。
私は彼の手元を見てから、窓を離れた。
「倉庫へ行きましょうか」
「備蓄の確認ですか?」
「豆の選り分けを教わる約束でしたもの。右手も、もう袋を開けるくらいなら大丈夫です」
彼が少し笑った。
「では、僕も」
*
小麦が戻ってきたのは、買い付けの一行が出てから翌日の夕方だった。
西の見張り小屋から先触れが来て、倉庫の前に人が集まる。
私もルクスと並んで道へ出た。
最初に見えたのは、護衛の槍先だった。
その後ろに馬がいて、荷車が続いている。
二台。
覆い布の下が、大きく膨らんでいた。
「戻ったぞ!」
誰かの声が上がる。
私は一歩、前へ出かけた。
けれど道を塞がないよう端へ寄り、荷車が倉庫の前へ止まるのを待った。
運び手の顔には疲れが浮かんでいた。
「橋は、どうでしたか」
「言われた通り、一台ずつ。二台目は少し荷を降ろして渡しました」
「馬宿には?」
「泊まれました。隙間風はありましたがね」
彼はそう言って、ようやく笑った。
私は頭を下げた。
「お帰りなさい。運んでくださって、ありがとうございます」
倉庫番が、袋を降ろす場所を指示する。
ルクスは買い付けの控えを受け取り、数と重さを確かめ始めた。
「濡れた袋は、こちらへ分けてください。乾いているものと重ねないで」
覆い布を外すと、一番端の袋に泥の跡があった。
私の胸が、ひやりとする。
「中まで?」
「橋で降ろした時に、地面へ触れました。すぐ上げたんですが」
倉庫番が袋の口を開き、底の方から少量を取り出した。
掌に広げ、匂いを確かめる。
「全部は濡れてない。こっちの袋は分けて、先に使おう。粉屋に話しておくよ」
私は息をついた。
届けば終わりではない。
だからこそ、受け取る場所で確かめる人も必要だった。
次々に袋が運び込まれる。
昨日まで空いていた床の木枠の上へ、小麦が積まれていった。
あの男性が直した木枠だ。
しっかりと四本の脚で支えている。
私はその前に立ち、袋の表面へそっと手を置いた。
ごわごわした麻の下に、粒の硬さが伝わってくる。
本当に、届いた。
「領主様」
ルクスが隣へ来た。
「注文した分、揃っています」
私は頷いた。
何か答えようとしたのに、喉が詰まった。
剣を抜いた時よりも、魔狼が倒れた時よりも、今の方が足元が頼りなく感じられる。
「……ルクス」
「はい」
「これで、何日分になるのかしら」
彼は控えを見た。
「今ある備蓄と合わせて、もう一度計算します。減らしていた配給を、少し戻せるかどうかも」
「ええ。お願いします」
全部を解決したわけではない。
冬の後半の分も、次の種籾も、まだ用意しなければならない。
それでも今、ここには小麦がある。
私は袋から手を離し、荷を運ぶ人たちへ道を空けた。
隣でルクスが、小さく言った。
「領主様にも、倉庫番さんに見てもらいたいものがあるんですよね」
「……今、言うの?」
「昨日、頑張っておられたので」
倉庫番の女性が振り向く。
「豆のことかい?」
私は少し俯いた。
昨日、選り分けた籠には、小石を一つ残してしまった。
「次は、もっとよく見ます」
「最初はそんなものだよ。明日も頼むからね」
彼女はそう言って、新しく届いた袋へ向き直った。
私は顔を上げた。
明日も。
「はい。伺います」
ルクスを見ると、彼は控えを胸に抱えて微笑んでいた。
倉庫の外では、空になった荷車の覆い布を、二人の男性が広げている。
私は袖を整え、その片側へ回った。
「私も、こちらを持ちますね」
今度は右手を気にせず、乾いた布の端を握ることができた。
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