第6話
最後に書き加えたのは、戻る時刻だった。
昼の鐘までに準備が整わなければ、その日の討伐は見送る。出発した後も、日が傾く前には引き上げる。
ルクスが紙の下へ線を引いた。
「グランさんにも、朝、確認していただきます」
「ええ」
私は一覧から目を離し、窓の外を見た。
荷車の音は、もう聞こえない。館の入口で誰かが挨拶を交わし、遠ざかっていく足音がした。
今日の仕事を終えた人たちが、家へ帰っていく。
「私たちも、終わりにしましょうか」
そう言うと、ルクスは少し驚いてから頷いた。
「はい。続きは、明日の朝に」
*
翌朝、裏庭で剣を振った。
ゆっくりと十度。それから、足を運びながら十度。
傷をかばって握り方を変えると、刃筋が乱れる。私は一度手を開き、柄を握り直した。
グランが黙って見ている。
最後に短い踏み込みから剣を返し、構えを解いた。
「痛みは?」
「皮が引かれる感じはあります。ですが、握る力は落ちていません」
手袋を外し、布をほどく。
血は滲んでいなかった。
グランは傷と私の顔を交互に見てから、頷いた。
「前へ出る時は、わしに声を。手に違和感があれば、すぐに交代してください」
「分かりました」
「今日こそ、大丈夫の一言で済ませませぬように」
私は少し背筋を伸ばした。
「……はい」
扉のそばで、セバスチャンが新しい布を用意して待っていた。
その隣にはルクスがいる。
私が近づくと、彼は裏庭を見渡し、それから私へ視線を戻した。
「出られるんですね」
「ええ。グランにも認めていただきました」
「では、こちらを」
差し出されたのは、小さな包みだった。
「昼食です。皆さんの分は荷車へ積んであります。領主様の分は、すぐ食べられるように切っておきました」
「ありがとう」
受け取ると、まだほんのり温かい。
「あなたの分も、あるのでしょう?」
「はい。今日は、倉庫番さんの前で食べることになっています」
「まあ」
「お昼を抜いたら、夕方には領主様へ伝えるそうです」
私は思わず笑ってしまった。
ルクスも困ったように笑う。
「ですから、心配しなくても大丈夫です」
「ええ。では、私もきちんと食べて戻ります」
包みを鞄へ収める。
顔を上げると、彼はまだ何か言いたそうにしていた。
「ルクス?」
「……行ってらっしゃいませ」
言い直すように、静かに告げる。
私は頷いた。
「行ってまいります」
*
出発できたのは、朝のうちだった。
集まったのは、グランと私を含めて九人。弓手が三人、盾と槍を持つ者が三人、そして道と魔狼の習性を知る猟師が一人。
修繕の道具と板を積んだ荷車は、後方の見張り小屋で待機する。大工たちが橋へ近づくのは、こちらから知らせを出してからだ。
空き地へ着くと、先に出ていた見回りが戻ってきた。
「橋の周囲に姿はありません。川岸にも、新しい足跡は見当たりませんでした」
その報告を聞いてから、全員で場所を確かめる。
古い荷積み台は支えの一部が緩んでいたが、持ってきた材と縄で補強できた。大きく傾かないことを確かめ、弓手二人が上がる。もう一人は地上から川岸を見張った。
草を刈る鎌の音が止まると、川の流れがはっきり聞こえた。
刈り払われた地面には、石や切り株がある。
私は自分が動ける範囲を歩き、足裏で確かめた。
「その杭より前には出ないでくだされ」
グランが、空き地の端を示す。
「弓手から見えなくなります」
「ええ」
「下がる時は、道の中央へ。畑側に散らばらぬように」
全員で合図を確かめる。
猟師が、昨日仕留めた獣の内臓を森寄りの地面へ置いた。人の食べ物には向かない部分を、捨てずに取っておいてくれたものだ。
それから、待った。
風が頬を撫でる。
冷たいのに、手袋の中の掌には汗が滲んでいた。
私は柄を握り続けず、時々指を開いた。
遠くで鳥が鳴いた。
すぐそばの盾役の青年が、小さく息を吐く。
盾を持つ手が、わずかに震えていた。
「重くありませんか」
小声で尋ねると、彼は慌てて首を振った。
「いえ。大丈夫です」
「まだ来ていませんから、少し下ろしていても」
グランへ目を向けると、彼も頷いた。
「肩を固めるな。構える時に上がらなくなるぞ」
「はい」
青年が盾の縁を地面へつける。
私も息を吐いた。
皆、怖いのだ。
私だって、昨日の牙を思い出せば喉が渇く。
けれど、隣で盾を支えてくれる人がいて、背後では弓が引かれるのを待っている。私が見えない場所を、誰かが見てくれている。
そのことを確かめるように、一度だけ周囲へ目を向けた。
猟師が手を上げた。
森の縁。
灰色の頭が、低い枝の下から現れた。
*
一頭目は、餌へ近づかなかった。
鼻先を上げ、空き地を探るように歩く。
その後ろに二頭。少し離れた茂みに、さらに一頭。
四頭が出てきた。
私は視線を動かしすぎないようにして、川岸の方も見る。
地上の弓手が、そちらを見張っていた。
グランはまだ合図を出さない。
魔狼の一頭が、積まれた木材を避けて右へ回った。
盾役の青年が、教えられた通りに足の向きを変える。
その動きを見た魔狼が、唇をめくった。
低い唸り声。
次の瞬間、一頭が駆け出した。
「射て!」
弦の音が重なった。
先頭の魔狼が地面へ転がる。すぐ後ろの一頭にも矢が刺さったが、止まらない。
「盾!」
木と鉄を打つ、鈍い音。
魔狼が盾へぶつかった。
青年の踵が滑る。
その横から槍が突き出され、魔狼の体を押し留めた。
私は動かなかった。
まだ、二人で止められる。
右へ回っていた一頭が、槍の外側から飛び込んできた。
「右、入ります!」
グランへ声をかけ、私は盾役の脇を抜けた。
魔狼は、着地した前脚へ重さを乗せていた。
私はその頭を正面から受けず、半歩だけ外へずれる。
喉元が見えた。
刃を入れ、そのまま足を運ぶ。
剣に重みがかかったが、腕だけで引き抜かず、体ごと離れた。
背後で巨体が崩れる音がした。
確かめたい気持ちを抑え、すぐに前を見る。
もう一頭が低く身を沈めていた。
飛びついてくる。
そう思った瞬間、魔狼の耳が横へ向いた。
私を見ていない。
「左へ回ります!」
私の声に、グランが向きを変えた。
魔狼は剣を避けて横へ走り、盾の並びの端を狙う。
だが、その先には川岸を見ていた弓手がいた。
放たれた矢が、魔狼の肩へ深く入る。
足が乱れたところへ、グランの剣が届いた。
私は呼吸を整えながら、盾役の後ろへ戻った。
矢を受けてなお暴れていた一頭も、二本の槍で動きを止められている。
「前、まだ見るな!」
グランの声が飛ぶ。
倒れた魔狼へ気を取られかけた青年が、顔を上げた。
森の奥で、枝が揺れた。
残る二頭が出てくる。
一頭は、先ほどまでの魔狼より頭一つ大きかった。
首の周囲に黒い毛が密生し、鼻先に白い傷がある。
餌にも、倒れた仲間にも目を向けない。
黄色い目が、私たちの並びを追った。
「矢をつがえ直せ。焦るな」
グランが低く命じる。
右手を確かめる。
握れる。
腕にも、まだ力が残っている。
大きな魔狼が、地面を蹴った。
速かった。
盾の中央へ真っすぐ走り、直前で横へ跳ぶ。
矢が背をかすめた。
盾役が追って動きかける。
「動かないで!」
私は声を上げた。
その盾が離れれば、もう一頭の通り道ができる。
青年が足を止める。
私は空いた側へ出た。
魔狼の前脚が伸びてくる。
爪を剣で弾けば、次は牙が来る。
私は切り株を背にしない位置へ足を置き、体を低くした。
前脚が肩の上を通る。
横腹が、すぐ目の前にあった。
刃を走らせる。
けれど浅い。
魔狼は身を捻り、着地と同時にこちらへ向き直った。
私は追わず、杭の内側へ戻った。
手袋の中が熱い。
傷の痛みか、力を込めたせいか。
確かめる間もなく、魔狼が再び身を沈める。
お祖母様なら、どうなさるだろう。
そう考えかけて、やめた。
今ここにいるのは、私だ。
私の右後ろには、槍を構えた人がいる。
「このまま、槍先を下げないでください」
返事が聞こえた。
私は魔狼へ正面を向け、剣先を少し下げた。
黄色い目が、私の右手を見た。
来る。
牙が迫った瞬間、私は左へ踏み込んだ。
剣の腹を鼻先へ当て、頭の向きを逸らす。
魔狼の勢いは止まらない。
私を追って曲がろうとした体を、構えられていた槍が受けた。
青年の息が詰まる音がする。
私はすぐに剣を返した。
首の付け根へ、体重を乗せて刃を通す。
巨体が沈んだ。
「離れて!」
槍を持つ青年の腕を引き、二人で一歩下がる。
魔狼は土を掻いた後、動かなくなった。
私は肩で息をした。
喉が、ひどく乾いている。
「最後の一頭、右へ!」
弓手の声に振り向く。
残った魔狼は盾へ飛びつき、爪で縁を掴んでいた。
盾役が腰を落として堪える。
その横へグランが入り、槍の穂先が退路を塞いだ。
短い攻防の後、魔狼が地面へ倒れる。
それでも、誰も構えを解かなかった。
「森を見ろ。まだ終わったと決めるな」
私は剣を持ち直した。
川岸、木々の間、橋の向こう。
しばらく待っても、新しい影は現れなかった。
猟師が倒れた魔狼を数え、周囲の足跡を確かめる。
「六頭です。昨日見た成獣は、これで全部です」
グランが頷いた。
「まず、怪我の確認を」
その言葉で、ようやく膝から力が抜けそうになった。
*
盾役の青年が、腕を押さえていた。
盾越しの衝撃で打ったらしい。指は動かせるが、強く握ると痛むという。
別の男性は頬に浅い傷を作っていた。
私は右手の手袋を外す。
布に血は滲んでいない。
ただ、腕は疲れて重くなっていた。
「剣は、しばらく持ちたくありませんわ」
正直に言うと、グランがこちらを見た。
それから、私の手を確かめる。
「では、今は収めてくだされ。見張りはこちらで続けます」
「お願いします」
鞘へ戻した途端、指が少し震えた。
さっきまで動いていた体が、自分のものではなかったように感じる。
私は荷積み台の端へ座った。
六頭。
その数を、頭の中でもう一度数える。
倒さなければ、小麦を運ぶ人が襲われたかもしれない。
それでも、刃が通った感触は、簡単には消えなかった。
猟師が水筒を差し出してくれた。
「初めてですか」
「……ええ。魔物を、仕留めたのは」
彼は少し目を見開いた。
けれど何も言わず、私の隣に腰を下ろす。
「水、少しずつ飲んでください。急に飲むと、咳き込みます」
「ありがとう」
私は一口飲んだ。
冷たい水が、喉を通る。
川の音が戻ってきた。
*
巣には、まだ幼い二頭が残っている。
グランはその周囲を引き続き立入禁止にし、扱いは猟師たちと相談して決めると告げた。
街道も、すぐに安全だとは言えない。
別の群れがいないか、橋の先を見回る必要がある。
その間に、荷車を呼ぶ使いが出た。
「素材を傷めないように運びます。解体は、慣れた者を集めてからですな」
グランは倒れた魔狼を見渡した。
「魔石と牙、皮も使えるでしょう。大きいものは、買い手に見せてから値を聞いた方がよい」
私は頷き、手を洗ってから鞄を開いた。
ルクスが持たせてくれた包みが出てくる。
中には、切り分けたパンと薄い干し肉、それから小さな干し林檎が二切れ入っていた。
私はしばらく、それを見つめた。
朝、門の前で聞いた声が蘇る。
行ってらっしゃいませ。
帰ったら、ただいまと言う。
そう思うと、ようやく食べ物を口へ運べた。
「領主様」
グランに呼ばれ、顔を上げる。
「最後の大きな一頭。よく、こちらの槍を使ってくださいました」
「私一人では、止めきれませんでした」
「ええ。あの速さで向きを変えられると、剣だけでは厄介です」
彼は私の隣の、空いた場所へ腰を下ろした。
「ですが、槍を持つ者がおれば、剣の出番も作れます」
私はパンを飲み込み、頷いた。
「お互いに、見えるところにいてくださったので」
「次も、そういたしましょう」
その返事が、嬉しかった。
*
大工たちが到着したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
橋の下を調べた大工は、支えの木を小さな槌で叩き、ようやく顔を上げた。
「ここは生きてます。傷んだ上の板を替えれば、軽い荷車なら通せる」
私は息をついた。
「重い荷は?」
「一度に積みすぎなければ。車を渡す時は、一台ずつです」
「運び手に、必ず伝えます」
板を合わせる音が、街道に響き始めた。
見張りの目は、まだ森へ向けられている。
そのそばを、道具を抱えた人が行き来する。
私は膝の上で、食べ終えた包みを畳んだ。
朝よりも、道の上に人の声が増えていた。
やがて館へ戻る使いが支度を始めると、私は小さな紙を一枚もらった。
右手を休め、左手でゆっくり書く。
『成獣六頭の討伐を確認。橋は修繕中です。街道の安全確認が済むまでは、運搬の出発をお待ちください』
そこまで書いて、少し考えた。
端へ、小さく付け足す。
『皆で昼食を取りました。私も、林檎までいただきました』
不揃いな文字を見て、少し恥ずかしくなる。
それでも消さずに紙を折り、使いの男性へ渡した。
「ルクスに、お願いします」
男性は頷き、大切そうに懐へ収めた。
私は再び、橋へ目を向けた。
新しい板が一枚、二つの岸の間へ渡される。
大工が上に乗り、重さをかけて確かめていた。
私は立ち上がり、木屑を払う人たちの方へ歩いた。




