第5話
食堂の卓には、湯気の立つ煮込みと、薄く切った黒パンが並んでいた。
昼のスープよりも香りが濃い。匙を入れると、豆と根菜の間から小さな肉片が顔を出した。
「干し肉です。少し入れると、味が変わるので」
向かいに座ったルクスが言った。
私は一口食べ、頷く。
「ええ。おいしいです。昨日のスープも好きでしたけれど」
「厨房の人に伝えておきます」
「今日は、あなたが作ったものではないのね」
「はい。僕は鍋を運んだだけです」
そう言って、彼も匙を取った。
私はパンをちぎろうとして、右手を止めた。傷をかばうと、思うように力が入らない。
それに気づいたルクスが、卓の上の小さなナイフを手にする。
「切りましょうか」
「……お願いしてもよろしい?」
「はい」
当然のように皿を受け取り、一口分ずつに切ってくれる。
私はその間、彼の前にある水差しを左手で持った。
「お水は?」
「あ、いただきます」
杯へ注ぐと、ルクスが少し笑った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
戻ってきた皿の上には、食べやすい大きさのパンが並んでいた。
右手が不自由なのは困る。それでも、こうして頼んだことを引き受けてもらえると、食事が止まってしまうほどの問題ではなくなる。
私はパンを煮込みに浸した。
「ルクスは、このお料理がお好き?」
「好きです。特に、底の方が」
「底?」
「豆が崩れて、とろみがついているので。パンにつけると、おいしいんです」
彼の皿を覗くと、確かに私のものより豆がよく崩れている。
「それなら、今度は私も底の方をお願いしようかしら」
「お鍋を焦がさないよう、気をつけてもらわないといけませんね」
何気ない話をしている間、壁の時計が一度鳴った。
いつもなら、食後に何を片づけるか考え始める頃だった。
けれど今夜は、ルクスも帳面を持ってきていない。
私は残った煮込みをゆっくり味わった。
*
翌朝、グランと猟師を見送ってから、私は執務室で大工を迎えた。
日に焼けた顔の、肩幅の広い男性だった。持参した木片を卓へ置き、橋板の寸法を書いた紙と見比べる。
「この長さなら、倉庫に残っている材から取れます。ただ、厚みは現物を見ないと」
「昨日測ったものでは、足りませんか」
「橋の下で支えている木が腐っていれば、板を替えても持ちません」
私は紙から顔を上げた。
「そうですね。そこまでは確認できていません」
「荷車を通すなら、荷を積んだ時の重さも知りたいです」
ルクスが隣で書き留める。
「運び手に確認します。車ごとに分けて、お渡ししますね」
大工は頷いたが、すぐには話を続けなかった。
節の太い指が、卓の木片を押さえている。
「……領主様。先に、聞いておきたいことがあります」
「どうぞ」
「去年の倉庫の戸。その代金も、まだなんです」
私は未払いの帳面を開いた。
頁の中に、昨日見た記載がある。
「存じています。お待たせして、申し訳ありません」
「材料を買う金が要るんです。働くのが嫌だと言っているんじゃありません。ただ、また終わってから払えないとなると、うちも……」
言いづらそうに声が小さくなる。
私は急いで首を振った。
「聞かせてくださって、ありがとうございます。材料費とお給金は分けて、着手前に必要な分をお払いする形ではどうでしょう」
ルクスが資金の控えをこちらへ寄せた。
今あるお金から出せる額には限りがある。
「まず、橋を確かめていただく分。それから、必要な材料と日数を教えてください。去年の未払いについても、支払う日を決めて、書面をお渡しします」
大工の視線が、私と帳面の間を動いた。
「いつになるか、今日分かりますか」
「今日の午後までに。もし全額をすぐには払えなければ、そのことも正直に申し上げます」
しばらくして、彼は木片を持ち上げた。
「……では、板を切り出す支度はしておきます。寸法を合わせるのは、橋を見てからで」
「お願いします」
「それと、館の北側の雨樋が外れかけています。あれは雪が積もる前に、留め直した方がいい」
思いがけない指摘に、私は窓の方を見た。
「教えてくださってありがとう。そちらも見積もりをお願いできますか」
大工は短く頷いた。
出ていく時、最初より少しだけ肩が下がっているように見えた。
*
昼前、セバスチャンが商人を連れてきた。
近くの町で金銀細工を扱っているという老人は、小箱の品を一つずつ布の上へ並べた。
鎖の留め具を調べ、重さを量り、真珠の髪飾りを窓の明かりにかざす。
「髪飾りは、よいお品です。ただ、ここで買い手を探すとなると、どうしても時間がかかります」
「鎖の方はいかがですか」
「こちらは地金の値で買い取れます。細工代までは、お返しできませんが」
示された額を見て、私はルクスへ目を向けた。
彼は紙の上で計算し、私にだけ見えるよう数字を示す。
橋の修繕に必要な当座の費用と、未払いの一部。
小麦の手付金は、今ある資金から確保できる。
「では、鎖をお願いします。髪飾りは、手元に残します」
「よろしいのですか」
商人の問いに、私は頷いた。
細い鎖を指で撫でてから、布の上へ戻す。
「ええ。こちらでお願いいたします」
受け取りの書面に署名をする時、右手の傷が少し引きつれた。
ゆっくり書けば、問題はなかった。
セバスチャンが商人を送り出した後、ルクスは二枚の記録を作った。
一枚は伯爵家が私から借り受けたお金について。もう一枚は、その使い道について。
「これで、分からなくなりません」
差し出された控えを受け取り、私は折らずに鞄へ収めた。
小箱には、真珠の髪飾りが残っている。
空いた場所を見て少し寂しくなったけれど、午後には大工へ支払う日を伝えられる。
私は蓋を閉じた。
*
倉庫では、膝を怪我した男性が、腰掛けに座って縄を調べていた。
「これは使えます。こっちは、荷を吊るすには危ない」
仕分けた縄を、隣の若者が別々の箱へ入れていく。
棚には空きが多かった。床の一角には、雨漏りを受ける桶が置かれている。
倉庫番の女性が、袋の数を読み上げた。
ルクスが帳面へ印をつけ、私は積み方と床の状態を見て回る。
「奥の袋を、もう少し壁から離せますか。湿りそうです」
「そうしたいんですが、下へ敷く板が足りなくてね」
女性が答えた。
私は空いた棚の下を見た。使われていない木枠が重ねてある。
「あちらは、使えないでしょうか」
「脚が一本折れてます。直せば……」
彼女は言いかけて、縄を仕分けている男性を見た。
男性も気づき、木枠へ顔を向ける。
「座って直せるなら、俺がやります。釘は?」
「古い戸から抜いたのがあるよ。曲がってるけど」
「叩けば戻る」
二人の間で話が決まり、若者が木枠を運び始めた。
私は邪魔にならない場所へ下がる。
ルクスがそばで、小さく息をついた。
「どうしました?」
「いえ。僕は、板を買い足すことばかり考えていました」
「私も、直せる方がいるとは知らなかったわ」
男性はもう、木枠を膝に載せて調べている。
こちらを見て、少し照れたように笑った。
「納屋くらいは、自分で直しますから」
昨日は荷車を引き、今日は縄と木枠を直している。
帳面に書かれた仕事だけでは、この人たちにできることは分からないのだ。
「私にも、少しずつ教えてくださいませ」
そう頼むと、倉庫番の女性が私の手を見た。
「では、その手が治ったら、豆の選り分けを。小石を取り残すと、歯が欠けますからね」
「はい。気をつけます」
ルクスが隣で笑いをこらえていた。
「あなたも、ご一緒に」
「僕は先週、教わりました」
「上手でしたか?」
女性へ尋ねると、彼女は真面目な顔で頷く。
「この子は細かいものを見るのが得意です。字より豆の方が、目が疲れないそうですよ」
「それは、字を読みすぎた日に言っただけです」
ルクスの耳が赤くなる。
私も笑ってしまい、慌てて口元を押さえた。
*
グランたちが戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
約束の時刻より早い。
窓から姿を見つけた私は、椅子を引く音を立ててしまった。
隣でルクスも立ち上がる。
二人で廊下へ出て、入口まで迎えに行った。
「お帰りなさい。お二人とも、お怪我は?」
「ありません」
グランはそう答え、外套についた枯れ葉を払った。
隣にいる猟師も頷く。
「巣の場所が分かりました。それと、数も」
執務室へ入ると、猟師は地図へ指を置いた。
石橋から川上へ進んだ先。斜面の下に、岩が重なった場所があるという。
「成獣が六頭。まだ小さいのが二頭です。昼過ぎに、八頭が揃ったところを見ました」
「昨日、姿を見せなかった二頭もいたのですね」
「はい。岩の前に残っていました」
グランが、橋と巣を結ぶ線を引いた。
「正面から行けば、ここへ追い込むことになります。逃げ道を失えば、群れでかかってくるでしょう」
「ほかの方角は?」
「東側は岩壁。北には細い獣道があります。ただ、林の中で追うのは危険です」
私は地図へ手を置いた。
昨日、川岸を回ってきた一頭。
橋の前で足を止めた三頭。
こちらが見ている場所とは別の場所から、狙ってくる。
「街道へ出てくる方を、こちらが見渡せる場所で待つことはできますか」
猟師が私を見る。
「橋の手前に、伐った木を積んでいた空き地があります。あそこなら」
「背後は?」
「畑です。川岸も、草を刈れば見えます」
グランが椅子へ深く座り直した。
「餌に寄ってくるかは、確かめねばなりません。一度、人を襲っておりますから、警戒もするでしょう」
「それでも、森へ全員で入るよりは、退きやすいと思います」
「ええ」
ルクスが紙を取り出した。
「盾は倉庫に三枚あります。割れたものを除いて、使えるものです。槍も確認しておきます」
「弓手を高い場所へ置ければ、味方の頭越しに射てますな」
グランの指が地図の空き地を叩く。
「古い荷積み台が残っています」
猟師が言った。
「足場は、明日確かめましょう。腐っていれば使えませんが」
少しずつ、話が形になっていく。
私は一人ひとりの顔を見た。
「私は、弓の届かないところまで飛び出さないようにします。抜けてきた魔狼を止める役を、任せていただけますか」
グランはすぐには答えなかった。
私の右手を見る。
「握ってみてください」
私はゆっくり指を曲げた。
昨日より、痛みは少ない。
「明朝、傷の状態を確認してからです。剣を振って開くようなら、前には立たせられません」
「分かりました」
「それから、討伐は準備が整ってから。小麦の期限があるからといって、人数や足場を省くわけにはいきません」
私は頷いた。
机の端には、取り置きの期限を書いた紙がある。
一日が過ぎた。
「ルクス。南の道を使って、馬に分けて小麦を運ぶ場合の費用も、調べておいてください。荷車ほどは運べなくても、街道が間に合わない時の備えになります」
「はい。借りられる馬の数も確認します」
すべてを予定通りに進められるとは限らない。
それでも、一つが駄目なら、もう一つを考えられるようにしておきたかった。
*
打ち合わせを終えると、猟師は次の手配へ、グランは倉庫へ向かった。
私が地図を畳もうとすると、ルクスが端を押さえた。
「そのままにしておきませんか。明日の朝も使いますから」
「……そうね」
私は手を離した。
気づけば、ずっと肩に力が入っていた。
背もたれへ体を預けると、ルクスが温かい杯を置いてくれる。
「今日は、僕も一緒に飲みます」
「まだ何も言っていませんわ」
「言われる前に」
彼は向かいへ座り、自分の杯を持ち上げた。
私は両手で杯を包んだ。右手には、傷に触れない場所でそっと添える。
「グランたちが戻ってきて、安心しました」
「はい」
「明日は、今日より緊張しそうです」
口にすると、思っていたより不安が大きかったことに気づいた。
ルクスは軽く頷いた。
「必要なものを、今夜のうちに一覧にしておきます。朝になって忘れ物に気づくと、僕も落ち着かなくなるので」
「では、私も確認してよいかしら」
「もちろんです」
彼は紙を一枚、二人の間へ置いた。
盾、槍、矢、縄、水、手当ての布。
書かれていく物の中へ、私は左手で小さく付け加えた。
『昼食』
ルクスがペンを止める。
「……それも、用意します」
「あなたの分も」
「はい。領主様の分も」
私たちは顔を見合わせ、少しだけ笑った。
窓の外では、荷積み用の木材を運ぶ車輪の音がしていた。
私は杯を置き、紙の続きを覗き込んだ。
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