↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/31

第5話

食堂の卓には、湯気の立つ煮込みと、薄く切った黒パンが並んでいた。


 昼のスープよりも香りが濃い。匙を入れると、豆と根菜の間から小さな肉片が顔を出した。


「干し肉です。少し入れると、味が変わるので」


 向かいに座ったルクスが言った。


 私は一口食べ、頷く。


「ええ。おいしいです。昨日のスープも好きでしたけれど」


「厨房の人に伝えておきます」


「今日は、あなたが作ったものではないのね」


「はい。僕は鍋を運んだだけです」


 そう言って、彼も匙を取った。


 私はパンをちぎろうとして、右手を止めた。傷をかばうと、思うように力が入らない。


 それに気づいたルクスが、卓の上の小さなナイフを手にする。


「切りましょうか」


「……お願いしてもよろしい?」


「はい」


 当然のように皿を受け取り、一口分ずつに切ってくれる。


 私はその間、彼の前にある水差しを左手で持った。


「お水は?」


「あ、いただきます」


 杯へ注ぐと、ルクスが少し笑った。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


 戻ってきた皿の上には、食べやすい大きさのパンが並んでいた。


 右手が不自由なのは困る。それでも、こうして頼んだことを引き受けてもらえると、食事が止まってしまうほどの問題ではなくなる。


 私はパンを煮込みに浸した。


「ルクスは、このお料理がお好き?」


「好きです。特に、底の方が」


「底?」


「豆が崩れて、とろみがついているので。パンにつけると、おいしいんです」


 彼の皿を覗くと、確かに私のものより豆がよく崩れている。


「それなら、今度は私も底の方をお願いしようかしら」


「お鍋を焦がさないよう、気をつけてもらわないといけませんね」


 何気ない話をしている間、壁の時計が一度鳴った。


 いつもなら、食後に何を片づけるか考え始める頃だった。


 けれど今夜は、ルクスも帳面を持ってきていない。


 私は残った煮込みをゆっくり味わった。


     *


 翌朝、グランと猟師を見送ってから、私は執務室で大工を迎えた。


 日に焼けた顔の、肩幅の広い男性だった。持参した木片を卓へ置き、橋板の寸法を書いた紙と見比べる。


「この長さなら、倉庫に残っている材から取れます。ただ、厚みは現物を見ないと」


「昨日測ったものでは、足りませんか」


「橋の下で支えている木が腐っていれば、板を替えても持ちません」


 私は紙から顔を上げた。


「そうですね。そこまでは確認できていません」


「荷車を通すなら、荷を積んだ時の重さも知りたいです」


 ルクスが隣で書き留める。


「運び手に確認します。車ごとに分けて、お渡ししますね」


 大工は頷いたが、すぐには話を続けなかった。


 節の太い指が、卓の木片を押さえている。


「……領主様。先に、聞いておきたいことがあります」


「どうぞ」


「去年の倉庫の戸。その代金も、まだなんです」


 私は未払いの帳面を開いた。


 頁の中に、昨日見た記載がある。


「存じています。お待たせして、申し訳ありません」


「材料を買う金が要るんです。働くのが嫌だと言っているんじゃありません。ただ、また終わってから払えないとなると、うちも……」


 言いづらそうに声が小さくなる。


 私は急いで首を振った。


「聞かせてくださって、ありがとうございます。材料費とお給金は分けて、着手前に必要な分をお払いする形ではどうでしょう」


 ルクスが資金の控えをこちらへ寄せた。


 今あるお金から出せる額には限りがある。


「まず、橋を確かめていただく分。それから、必要な材料と日数を教えてください。去年の未払いについても、支払う日を決めて、書面をお渡しします」


 大工の視線が、私と帳面の間を動いた。


「いつになるか、今日分かりますか」


「今日の午後までに。もし全額をすぐには払えなければ、そのことも正直に申し上げます」


 しばらくして、彼は木片を持ち上げた。


「……では、板を切り出す支度はしておきます。寸法を合わせるのは、橋を見てからで」


「お願いします」


「それと、館の北側の雨樋が外れかけています。あれは雪が積もる前に、留め直した方がいい」


 思いがけない指摘に、私は窓の方を見た。


「教えてくださってありがとう。そちらも見積もりをお願いできますか」


 大工は短く頷いた。


 出ていく時、最初より少しだけ肩が下がっているように見えた。


     *


 昼前、セバスチャンが商人を連れてきた。


 近くの町で金銀細工を扱っているという老人は、小箱の品を一つずつ布の上へ並べた。


 鎖の留め具を調べ、重さを量り、真珠の髪飾りを窓の明かりにかざす。


「髪飾りは、よいお品です。ただ、ここで買い手を探すとなると、どうしても時間がかかります」


「鎖の方はいかがですか」


「こちらは地金の値で買い取れます。細工代までは、お返しできませんが」


 示された額を見て、私はルクスへ目を向けた。


 彼は紙の上で計算し、私にだけ見えるよう数字を示す。


 橋の修繕に必要な当座の費用と、未払いの一部。


 小麦の手付金は、今ある資金から確保できる。


「では、鎖をお願いします。髪飾りは、手元に残します」


「よろしいのですか」


 商人の問いに、私は頷いた。


 細い鎖を指で撫でてから、布の上へ戻す。


「ええ。こちらでお願いいたします」


 受け取りの書面に署名をする時、右手の傷が少し引きつれた。


 ゆっくり書けば、問題はなかった。


 セバスチャンが商人を送り出した後、ルクスは二枚の記録を作った。


 一枚は伯爵家が私から借り受けたお金について。もう一枚は、その使い道について。


「これで、分からなくなりません」


 差し出された控えを受け取り、私は折らずに鞄へ収めた。


 小箱には、真珠の髪飾りが残っている。


 空いた場所を見て少し寂しくなったけれど、午後には大工へ支払う日を伝えられる。


 私は蓋を閉じた。


     *


 倉庫では、膝を怪我した男性が、腰掛けに座って縄を調べていた。


「これは使えます。こっちは、荷を吊るすには危ない」


 仕分けた縄を、隣の若者が別々の箱へ入れていく。


 棚には空きが多かった。床の一角には、雨漏りを受ける桶が置かれている。


 倉庫番の女性が、袋の数を読み上げた。


 ルクスが帳面へ印をつけ、私は積み方と床の状態を見て回る。


「奥の袋を、もう少し壁から離せますか。湿りそうです」


「そうしたいんですが、下へ敷く板が足りなくてね」


 女性が答えた。


 私は空いた棚の下を見た。使われていない木枠が重ねてある。


「あちらは、使えないでしょうか」


「脚が一本折れてます。直せば……」


 彼女は言いかけて、縄を仕分けている男性を見た。


 男性も気づき、木枠へ顔を向ける。


「座って直せるなら、俺がやります。釘は?」


「古い戸から抜いたのがあるよ。曲がってるけど」


「叩けば戻る」


 二人の間で話が決まり、若者が木枠を運び始めた。


 私は邪魔にならない場所へ下がる。


 ルクスがそばで、小さく息をついた。


「どうしました?」


「いえ。僕は、板を買い足すことばかり考えていました」


「私も、直せる方がいるとは知らなかったわ」


 男性はもう、木枠を膝に載せて調べている。


 こちらを見て、少し照れたように笑った。


「納屋くらいは、自分で直しますから」


 昨日は荷車を引き、今日は縄と木枠を直している。


 帳面に書かれた仕事だけでは、この人たちにできることは分からないのだ。


「私にも、少しずつ教えてくださいませ」


 そう頼むと、倉庫番の女性が私の手を見た。


「では、その手が治ったら、豆の選り分けを。小石を取り残すと、歯が欠けますからね」


「はい。気をつけます」


 ルクスが隣で笑いをこらえていた。


「あなたも、ご一緒に」


「僕は先週、教わりました」


「上手でしたか?」


 女性へ尋ねると、彼女は真面目な顔で頷く。


「この子は細かいものを見るのが得意です。字より豆の方が、目が疲れないそうですよ」


「それは、字を読みすぎた日に言っただけです」


 ルクスの耳が赤くなる。


 私も笑ってしまい、慌てて口元を押さえた。


     *


 グランたちが戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。


 約束の時刻より早い。


 窓から姿を見つけた私は、椅子を引く音を立ててしまった。


 隣でルクスも立ち上がる。


 二人で廊下へ出て、入口まで迎えに行った。


「お帰りなさい。お二人とも、お怪我は?」


「ありません」


 グランはそう答え、外套についた枯れ葉を払った。


 隣にいる猟師も頷く。


「巣の場所が分かりました。それと、数も」


 執務室へ入ると、猟師は地図へ指を置いた。


 石橋から川上へ進んだ先。斜面の下に、岩が重なった場所があるという。


「成獣が六頭。まだ小さいのが二頭です。昼過ぎに、八頭が揃ったところを見ました」


「昨日、姿を見せなかった二頭もいたのですね」


「はい。岩の前に残っていました」


 グランが、橋と巣を結ぶ線を引いた。


「正面から行けば、ここへ追い込むことになります。逃げ道を失えば、群れでかかってくるでしょう」


「ほかの方角は?」


「東側は岩壁。北には細い獣道があります。ただ、林の中で追うのは危険です」


 私は地図へ手を置いた。


 昨日、川岸を回ってきた一頭。


 橋の前で足を止めた三頭。


 こちらが見ている場所とは別の場所から、狙ってくる。


「街道へ出てくる方を、こちらが見渡せる場所で待つことはできますか」


 猟師が私を見る。


「橋の手前に、伐った木を積んでいた空き地があります。あそこなら」


「背後は?」


「畑です。川岸も、草を刈れば見えます」


 グランが椅子へ深く座り直した。


「餌に寄ってくるかは、確かめねばなりません。一度、人を襲っておりますから、警戒もするでしょう」


「それでも、森へ全員で入るよりは、退きやすいと思います」


「ええ」


 ルクスが紙を取り出した。


「盾は倉庫に三枚あります。割れたものを除いて、使えるものです。槍も確認しておきます」


「弓手を高い場所へ置ければ、味方の頭越しに射てますな」


 グランの指が地図の空き地を叩く。


「古い荷積み台が残っています」


 猟師が言った。


「足場は、明日確かめましょう。腐っていれば使えませんが」


 少しずつ、話が形になっていく。


 私は一人ひとりの顔を見た。


「私は、弓の届かないところまで飛び出さないようにします。抜けてきた魔狼を止める役を、任せていただけますか」


 グランはすぐには答えなかった。


 私の右手を見る。


「握ってみてください」


 私はゆっくり指を曲げた。


 昨日より、痛みは少ない。


「明朝、傷の状態を確認してからです。剣を振って開くようなら、前には立たせられません」


「分かりました」


「それから、討伐は準備が整ってから。小麦の期限があるからといって、人数や足場を省くわけにはいきません」


 私は頷いた。


 机の端には、取り置きの期限を書いた紙がある。


 一日が過ぎた。


「ルクス。南の道を使って、馬に分けて小麦を運ぶ場合の費用も、調べておいてください。荷車ほどは運べなくても、街道が間に合わない時の備えになります」


「はい。借りられる馬の数も確認します」


 すべてを予定通りに進められるとは限らない。


 それでも、一つが駄目なら、もう一つを考えられるようにしておきたかった。


     *


 打ち合わせを終えると、猟師は次の手配へ、グランは倉庫へ向かった。


 私が地図を畳もうとすると、ルクスが端を押さえた。


「そのままにしておきませんか。明日の朝も使いますから」


「……そうね」


 私は手を離した。


 気づけば、ずっと肩に力が入っていた。


 背もたれへ体を預けると、ルクスが温かい杯を置いてくれる。


「今日は、僕も一緒に飲みます」


「まだ何も言っていませんわ」


「言われる前に」


 彼は向かいへ座り、自分の杯を持ち上げた。


 私は両手で杯を包んだ。右手には、傷に触れない場所でそっと添える。


「グランたちが戻ってきて、安心しました」


「はい」


「明日は、今日より緊張しそうです」


 口にすると、思っていたより不安が大きかったことに気づいた。


 ルクスは軽く頷いた。


「必要なものを、今夜のうちに一覧にしておきます。朝になって忘れ物に気づくと、僕も落ち着かなくなるので」


「では、私も確認してよいかしら」


「もちろんです」


 彼は紙を一枚、二人の間へ置いた。


 盾、槍、矢、縄、水、手当ての布。


 書かれていく物の中へ、私は左手で小さく付け加えた。


『昼食』


 ルクスがペンを止める。


「……それも、用意します」


「あなたの分も」


「はい。領主様の分も」


 私たちは顔を見合わせ、少しだけ笑った。


 窓の外では、荷積み用の木材を運ぶ車輪の音がしていた。


 私は杯を置き、紙の続きを覗き込んだ。

少しでも面白い、続きが気になると思ってくださったら、下部にある【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援していただけると制作の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。