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第4話

館の屋根が見えてきた頃、道の脇から一人の女性が駆け寄ってきた。


「あなた!」


 荷車を引いていた男性が足を止める。


「どうした。まだ昼前だぞ」


「見回りの方が戻ったって聞いて……その膝は?」


「転んだだけだ。大したことはない」


 女性はしゃがみ込み、夫の膝に巻かれた布を確かめた。それから私たちへ顔を上げる。


「魔狼が出たんですか」


「ええ。ですが、皆で戻ることができました」


 私が答えると、彼女の目がこちらへ向いた。


 白銀の髪から腰の剣へ、そして私の顔へと視線が移る。


「領主様……」


「ご心配をおかけしました」


「この方が、間に入ってくださったんだ」


 男性の言葉に、私は小さく首を振った。


「グランと、弓を射てくださったお二人も一緒です。助け合って退きました」


 女性は唇を結び、立ち上がった。


 何かを言おうとしているようだったけれど、言葉にはならなかった。


 代わりに、深く頭を下げる。


 私も礼を返した。


 彼女が夫の袖を掴んで歩き出す。その後ろ姿を見送りながら、私は先ほどの魔狼の牙を思い出していた。


 あの時、間に合わなければ。


 帰りを待つ人がいるのだと、今になって胸へ重く落ちた。


     *


「お帰りなさいませ」


 館の入口でセバスチャンに迎えられ、私は外套を預けた。


「ただいま。ルクスは?」


「執務室におります。先ほど、食事を済ませられました」


「そう。よかった」


「お嬢様のお食事も、ご用意しております」


 頷いたところで、家令の視線が私の右手に止まった。


 私は先に口を開いた。


「朝の傷が、少し開いてしまったの。ほかには何もありません」


「承知いたしました。お湯をお持ちします」


 必要なことを確かめてから、いつも通りに動いてくれる。


 その落ち着きに助けられ、私は執務室の扉を叩いた。


「どうぞ」


 中へ入ると、帳面に向かっていたルクスが顔を上げた。


「お帰りなさい、領主様」


「ただいま、ルクス」


 彼の肩から力が抜けるのが分かった。


 それを見て、右手を後ろへ隠したくなった。


 けれど、途中まで動かしかけた手を止める。


「先に、お話ししておきたいことがあります」


「はい」


「朝、手当てをしていただいたところが、また擦れてしまいました」


 右手を差し出す。


 ルクスは椅子から立ち、血の滲んだ布を見た。


「魔狼に噛まれたのですか」


「いいえ。剣を握った時に」


「ほかに、痛むところは?」


「ありません。同行した方が一人、膝を擦りました。皆、自分の足で戻っています」


「……分かりました」


 彼は私の顔を見てから、椅子を引いた。


「座っていただけますか」


 叱られると思っていたのに、声は朝と変わらなかった。


 私は言われた通りに座った。


 ほどなくセバスチャンが湯と清潔な布を運んできてくれる。ルクスは手を洗うと、私の右手に巻かれた布をゆっくりほどいた。


「少し、しみると思います」


「はい」


 傷に水が触れ、思わず指が動く。


 ルクスはすぐに手を止めた。


「続けて大丈夫ですわ」


「無理でしたら、おっしゃってください」


 私は頷き、窓の方を見た。


 遠くで、薪を割る音がしている。


「……怒らないのですね」


 口にしてから、子どものようなことを聞いてしまったと思った。


 ルクスの手が、わずかに止まる。


「危ないことをなさったんですか」


「退く途中で襲われて、荷車の方を庇いました。追いかけたり、約束より奥へ入ったりはしていません」


「では、帰ってきてから傷を教えてくださった方を、怒る理由がありません」


 私は顔を戻した。


 彼は傷口を確かめながら、続ける。


「隠される方が困ります。次に手を使えるかどうかも、分からなくなるので」


「……ええ」


「教えてくださって、ありがとうございます」


 その言葉に、胸の奥が少し緩んだ。


 傷ついたことを告げても、それだけで責められるわけではない。


 そう分かっていたはずなのに、私は随分、身構えていたらしい。


「グランからも、お話を聞いてください。私が見落としたことがあるかもしれませんから」


「はい。後ほど、見回りの方たちと一緒に」


 新しい布が、掌へ当てられる。


 私はその手元を見つめた。


「あなたに縫っていただいた手袋は、破れていませんでした」


「それはよかったです。でも、破れても直せますよ」


 ルクスが結び目を整える。


「手袋の方は、遠慮なく使ってください」


 私は小さく笑い、頷いた。


     *


 食事の後、グランたちを交えて、見てきたことを地図へ書き加えた。


 川岸を回り込んだ一頭の位置。追跡が止まった場所。橋板の傷み。


 先ほど夫を迎えに来た女性の顔を思い出し、私は荷車の男性へ尋ねた。


「膝をついて行う仕事は、しばらく難しそうですか」


「一日休めば、平気でしょう」


「明日の様子を見て決めてください。ほかの仕事へ替われるなら、その方がよいと思います」


「でしたら、倉庫の縄を確かめてもらえます」


 ルクスが帳面をめくった。


「座ってできるので。荷を積む前に、傷んだものを分けておきたいんです」


 男性は少し考え、それから頷いた。


「それなら、やれます」


 仕事を休むように言うだけでは、彼にも不安があるのだろう。


 私はルクスへ目を向けた。彼はもう、明日の仕事の欄を書き直していた。


 全員が部屋を出た後、その帳面の隣へ一通の手紙が置かれた。


「西の街から、返事が届いています」


 小麦の売り手は見つかっていた。


 ただし、取り置きは五日間。それまでに手付金を払い、受け取りの予定を知らせる必要がある。


「使いの方は、どちらの道を?」


「南の迂回路です。馬一頭なら通れます。ただ、荷を積んだ車は、やはり難しいそうです」


 私は手紙を読み返した。


 猟師の道から巣を調べ、討伐の準備をし、橋を直す。


 五日。


 余裕があるとは言えなかった。


「手付金を払った後に、間に合わなかった場合は?」


「次の買い手に回ります。支払った分も、すべては戻らない条件です」


「……そうですか」


 まだ街道を開ける保証はない。


 けれど確保しなければ、開いた先に小麦が残っていないかもしれない。


「必要な量を、二回に分けて買うことはできますか」


 ルクスが顔を上げた。


「まず、今ある備蓄に足して、冬の半ばまで持つ量を。残りは次の買い付けに分けるのです」


「運ぶ回数が増えるので、運賃は高くなります」


「ええ。でも、最初の荷を軽くできますし、手付金も減らせますでしょう?」


「確認してみます。向こうも、少量なら別の倉庫の分を回せるかもしれません」


 ルクスは返事の下書きを始めた。


 私はその隣で、残っている資金と未払いの帳面を見比べる。


 数字が、どうしても足りない。


 小麦を減らせば、屋根を直せる。屋根を後回しにすれば、雪が入る。薪運びを待たせれば、その家が薪を買えない。


 同じ頁を何度も見ているうち、膝の上で右手を握りかけた。


 傷が痛み、指を開く。


 そこで、私は顔を上げた。


「少し、お待ちいただける?」


     *


 部屋から持ってきた小箱を卓に置くと、ルクスはペンを止めた。


 蓋を開ける。


 中には、真珠をあしらった髪飾りと、細い金の鎖が収められていた。


「こちらを、売ろうと思います」


 ルクスはすぐには答えなかった。


「領主様のお持ち物、ですよね」


「ええ。購入時の控えもあります。公爵家から借りていた宝飾品は、出発前に返しましたから」


 持ち出す物を選ぶ時、セバスチャンが一つずつ確かめてくれたものだ。


「これで、全部ですか」


「いいえ。ほかにも少し。ただ、まずはこちらを見ていただこうと思って」


 ルクスは小箱へ視線を落とした。


 真珠の髪飾りは、王都の夜会で何度か使った。


 似合うと言ってくれた侍女の顔を覚えている。髪を結う間に交わした、他愛ない話も。


 だから、何の思いもないわけではなかった。


「……売ってから、寂しくなるかもしれません」


 私は正直に言った。


「ですが、持ってきたお金を全部使ってしまうより、こちらを一つ売っておきたいのです。急な修繕や、病気の方が出た時の分まで、なくしたくありません」


「伯爵家へ貸し付ける形に、できます」


 ルクスが言った。


「領地のために出していただくお金です。領主様個人の財産を、何の記録もなく使うわけにはいきません」


「返すのは、ずっと先になるかもしれませんよ」


「それも、書いておけばよいと思います。返せるようになってから、少しずつ」


 私は小箱の中を見た。


 自分の物を差し出すことは考えた。


 けれど、それをいつか返してもらうことまでは、考えていなかった。


「……では、そうしていただけますか」


「はい。まず査定を取りましょう。金額を見てから、どちらを売るか決めてください」


 全部、と言わなかったことが、何だかありがたかった。


 セバスチャンを呼び、信用できる商人へ査定を頼めるか相談する。家令は控えと品を確かめ、手配を引き受けてくれた。


 私は小箱を渡してから、空になった手を膝へ戻した。


 右手の白い布が目に入る。


 その上から、左手をそっと重ねた。


     *


 夕方、グランが再び執務室へ来た。


「北の道を使っていた猟師と、話ができました」


 彼は地図の川上を指す。


「ここに、古い炭焼き小屋があります。今は使っておりませんが、森の入口から様子を見る足場にはなるそうです」


「そこまでなら、安全に近づけそうですか」


「足跡を確かめながらですな。明日は二人で出ます。領主様は、館でお待ちください」


 私は返事をする前に、右手を見た。


 握れないわけではない。


 けれど今日と同じことが起きた時、また同じように動けるかは分からない。


「分かりました。こちらで、運搬と修繕の準備を進めます」


 グランが頷いた。


「夕刻までには戻ります。遅くなる時は、南の見張り小屋から知らせを出します」


「お願いします。何も見つからなくても、決めた時刻には戻ってください」


「承知しました」


 扉が閉じた後、私は大きく息を吐いた。


 ルクスがこちらを見る。


「ご一緒に行きたかったですか」


「少し」


 隠しても、仕方がない。


「ここで待っている間に、何かあったらと思うと」


「僕も、今日、何度か窓を見ました」


 私は彼を見た。


 ルクスは机の上を片づけながら、少し困ったように笑う。


「時計を見ても早く帰ってこられるわけではないのに、気になってしまって」


「……そうだったの」


「はい。ですから、明日は一緒に待ちましょう。やることも、たくさんあります」


 卓には、橋板の寸法を書いた紙がある。小麦の買い付けについての手紙も、支払いを待つ人たちの帳面も。


 私はその中から、修繕の一覧を手元へ引き寄せた。


「では、明日はまず、大工さんにお話を聞きたいわ」


「朝のうちに来てもらえるようにします」


「それから、倉庫も」


「そちらは午後に。今日は、ここまでです」


 ルクスが机の端にある砂時計を示した。


 いつの間に置かれたのか、上の砂は、もうほとんど残っていない。


「夕食まで休んで、今夜は早く眠るお約束でした」


「……あなたも、ですよ」


「はい」


 私は書類から手を離した。


 彼も帳面を閉じる。


 その音を聞いてから椅子を立つと、ルクスが扉を開けて待ってくれた。


 廊下には、煮込み料理の匂いが漂っていた。


 明日は森へ行けない。


 小麦が届く見通しも、まだ立っていない。


 それでも、今日持ち帰った地図には、昨日より多くの印がある。私はその続きを、明日もここで考えられる。


「ルクス」


「はい」


「今日も、一緒に夕食を召し上がるでしょう?」


 彼は少し驚いた顔をして、それから頷いた。


「そのつもりで、二人分、お願いしてあります」


 私はほっとして、彼の隣を歩き始めた。

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