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第3話

 グランから木剣を受け取り、私は形見の剣を鞘へ収めた。


 手渡された木剣は、使い込まれて表面が滑らかになっていた。刃に当たる部分には、何度も打ち合った跡が残っている。


 長さは、いつも使っている剣とほとんど変わらない。ただ、重心が少しだけ柄に近い。


 私は二度ほど軽く振り、握る位置を調整した。


「いつでもどうぞ」


 向かい合ったグランは、まだ木剣を下げたままだった。


「先に、一つ確認を」


「何でしょう」


「わしは、手加減が上手くありません」


「私も、お祖母様から同じことを言われて育ちました」


 答えると、グランの眉がわずかに上がった。


「なるほど」


 短く呟き、木剣を構える。


 その瞬間、目の前にいる彼の雰囲気が変わった。


 昨日までのグランは、寡黙な老兵だった。けれど剣を構えた今は、重い扉のように隙がない。


 私は息を整え、右足を半歩引いた。


 相手の肩、肘、腰、足先を見る。


 お祖母様の声が、記憶の中に蘇った。


『剣先だけを見てはいけません。人は剣より先に動くものですよ』


 グランの右足が、土を蹴った。


 木剣が斜め上から迫る。


 速い。


 受け止めれば、力で押し切られる。


 私は左へ踏み込み、刃筋から体を外した。すれ違いざまに木剣を返し、彼の脇へ打ち込む。


 けれど、乾いた音が響いた。


 グランの剣が、私の木剣を受けている。


 防がれることは予想していた。


 私は押し合わず、すぐに剣を引いた。


「ほう」


 グランの声が聞こえた時には、次の一撃が足元へ迫っていた。


 後ろへ下がれば、追われる。


 私は前へ出た。


 低く振られた木剣を跳び越すのではなく、踏み込んだ足で剣を振り抜く前の腕を制する。そのまま柄頭を胸元へ当てようとした。


 グランが体を捻った。


 私の柄頭は厚い外套をかすめ、彼の肩が私の胸元へ迫る。


 押し倒される。


 そう判断した瞬間、私は木剣を手放した。


 空いた手で彼の腕を押さえ、勢いに逆らわず体を沈める。


 グランの体勢が、わずかに崩れた。


 その足元へ、私の木剣が落ちる。


 彼が一瞬だけ視線を向けた。


 私は腰の短剣を抜く動きで、二本の指を彼の喉元へ添えた。


 同時に、グランの木剣も私の肩へ触れていた。


 互いに動きを止める。


 白い息が、冷たい空気の中で重なった。


「……相打ち、でしょうか」


 私が尋ねると、グランは目だけを動かして、喉元の指を見た。


「実戦なら、わしの肩への一撃で領主様の腕は使えなくなりますな」


「その前に、喉を傷つけられた可能性もあります」


「ええ。どちらも無事では済まんでしょう」


 グランは木剣を下ろした。


 私も指を引き、地面に落ちた木剣を拾う。


「失礼いたしました」


「なぜ謝られます」


「剣を投げ出すのは、お行儀が悪いと、お祖母様によく叱られましたから」


「アイリス様が?」


「はい。『武器を捨てるなら、次に何を使うか決めてからになさい』と」


 グランは黙り込んだ。


 それから、喉の奥で低く笑った。


「……あの方らしい」


 初めて見る笑顔だった。


 けれど、すぐに表情を引き締める。


「もう一度、よろしいですかな」


「もちろんです」


 二度目は、互いの間合いを探る時間が長かった。


 グランは力だけで押さず、私の足を止めようと細かな攻撃を重ねた。私は正面から打ち合わず、土の硬い場所を選んで移動する。


 剣を交えるたび、腕へ重い衝撃が伝わった。


 彼は強い。


 長い実戦で身につけた動きには無駄がなく、こちらが誘いをかけても簡単には乗らない。


 五度目の打ち合いで、木剣を握る右手が痺れた。


 その変化に、グランは気づいていた。


 次の一撃が、右側から来る。


 私は木剣を左手へ持ち替えた。


 グランの剣を下から跳ね上げ、その手首へ木剣を止める。


 けれど、私の左肩にも彼の拳が触れていた。


「また相打ちですわね」


「いいえ」


 グランは首を横に振った。


「今度は、わしの負けです。右腕を狙ったのは、領主様が剣を持ち替えるとは思わなかったからですな」


「お祖母様に、片手が使えなくなることもあると教わりました」


「左でも同じように?」


「同じようには動かせません。精度も落ちます」


「十分でしょう」


 グランは木剣を下ろし、深く息を吐いた。


 額には薄く汗が浮かんでいる。私も息が弾み、冷えていたはずの頬が熱かった。


「剣の心得がある、というお言葉は訂正していただきたい」


 厳しい表情で言われ、私は瞬いた。


「心得がある程度ではありません。少なくとも、街道の手前までお連れすることに異論はございません」


「ありがとうございます」


「ただし」


 グランが太い指を一本立てた。


「領主様がお強いことと、お一人で動いてよいことは別ですぞ」


 昨日、ルクスにも似たようなことを言われた気がする。


 私は苦笑しながら頷いた。


「承知しています。グランの指示に従います」


「よろしい」


「魔狼が現れても、勝手に追いかけません」


「それもお願いいたします」


「群れの数が予想より多ければ、すぐに戻ります」


「……アイリス様より、よほど聞き分けがよろしい」


 ぼそりと聞こえた言葉に、私は目を丸くした。


「お祖母様は、聞き分けが悪かったのですか?」


「わしの口からは、何とも」


 そう答えながら、グランは目を逸らした。


 それだけで十分な答えになっている。


「帰ったら、詳しく聞かせてくださいませ」


「領主様。今の話はお忘れくだされ」


「難しいと思います」


「目がアイリス様にそっくりですな……」


 困ったように呟いたその時、裏庭へ続く扉が開いた。


「領主様、おはようございま――」


 盆を持って現れたルクスが、足を止めた。


 その視線が、地面に残る足跡と木剣、息を弾ませている私たちの間を往復する。


「……もう、手合わせをなさったんですか」


「ええ。グランに実力を確認していただいたの」


「お怪我は?」


「ありません」


 答えた直後、右手に鈍い痛みが走った。


 見ると、親指の付け根が少し赤くなっている。皮が薄く擦れただけだ。


 隠すほどのものではない。


 けれど、ルクスは見逃さなかった。


「右手を見せてください」


「本当に、怪我というほどでは――」


「領主様」


 穏やかな声なのに、なぜか逆らいにくい。


 私は木剣をグランへ返し、右手を差し出した。


 ルクスは盆を近くの台へ置くと、私の手を取った。


 冷たい朝の中で、彼の指先は温かかった。


「皮が擦れています」


「少しだけですわ」


「少しでも、今日は剣を握るのでしょう?」


「……はい」


 彼は外套のポケットから清潔な布を取り出した。


 器用に折り、擦れた部分へ当てて巻いていく。


「慣れているのね」


「倉庫仕事でも、手を擦ることはありますから」


 結び目を作る指先は、とても丁寧だった。


 私は自分の手を見ているふりをしながら、彼の伏せられた睫毛を眺めた。


 近くで見ると、亜麻色の髪は朝の光を受けて、金色に近く見える。


「痛くありませんか」


「ええ。大丈夫です」


「きつくは?」


「ちょうどよいですわ」


 ルクスが顔を上げる。


 目が合い、私はなぜか先に逸らしてしまった。


 手当てをしてもらっただけなのに、頬まで熱くなっている気がする。


「……ありがとう、ルクス」


「どういたしまして」


 彼が私の手を離す。


 温かさまで離れてしまったように感じて、私は指先を軽く握った。


「しかし、驚きました」


 ルクスがグランを見る。


「グランさんが手合わせをして、領主様を街道へお連れすると認めたんですよね」


「まだ、見回りの報告を聞いてからだ」


「それでもです。去年、僕が護身用に剣を教えてほしいと頼んだ時は、薪割りから始めさせたのに」


「お前は木剣を持たせると、剣より先に目を閉じただろう」


「最初の一度だけです」


「三度だ」


 私は二人を見比べた。


「ルクスも、剣の稽古をしていたの?」


「稽古というほどではありません。結局、短剣の使い方と逃げ方を教えていただきました」


「それがよい。ルクスにはルクスの役目がある」


 グランの言葉に、ルクスも素直に頷いた。


「はい。僕が剣を振るより、剣を振れる人を手配する方が役に立ちます」


「それでも、自分を守れることは大切ですわ」


「領主様が、それをおっしゃいますか」


「私だからこそ、です」


 祖母の教えを思い出しながら言うと、ルクスは少し考えてから微笑んだ。


「では、もう少し練習しておきます。目を閉じないように」


「一度だけだったのでは?」


「……三度だったかもしれません」


 グランが鼻を鳴らす。


 笑ったのだと分かった。


     *


 館の食堂で朝食を済ませる頃、見回りに出ていた二人が戻ってきた。


 泥のついた外套を着た若者と、弓を背負った中年の男性だった。


 地図を広げると、二人は石橋の先を指した。


「姿を見たのは三頭です。ただ、森の中に別の足跡がありました」


「何頭分か、分かるか」


 グランの問いに、弓を背負った男性が首を振る。


「地面が荒れていて、正確には。少なくとも、あと二頭はいると思います」


「昨日と大きく変わってはいない、ということですね」


 私が確かめると、彼は少し驚いたようにこちらを見てから頷いた。


「はい、領主様。ただ……」


「何かありましたか」


「群れに、子どもが混じっているかもしれません。小さな足跡がありました」


 グランの表情が険しくなる。


「近くに巣がある可能性が高いな」


「子を連れていれば、警戒心も強くなるでしょうか」


「ええ。特に雌は、近づくものへ先に襲いかかることがあります」


 私は地図へ視線を落とした。


 ただ街道から追い払えばよいと考えていたが、巣が近くにあるなら、群れは戻ってくる。かといって、位置も数も分からないまま森へ入るのは危険だ。


「今日は、石橋のこちら側までにしましょう」


 私が言うと、グランが頷いた。


「それがよろしいかと。風向きと足跡を見て、巣の位置を絞ります」


「弓を使える方を、もう一人連れていけますか」


「手配してあります。荷車も一台、用意させました」


「荷車?」


「万が一、怪我人が出た時のためです。それと、壊れた橋板を持ち帰って、同じ寸法のものを作らせます」


 討伐のことだけを考えていた私には、思いつかなかった。


「ありがとう、グラン。その方がよいです」


 私が素直に答えると、見回りから戻った二人が顔を見合わせた。


 おそらく、王都から来た若い領主が、老兵の提案をそのまま受け入れるとは思っていなかったのだろう。


 その反応を責める気にはなれなかった。


 信頼とは、言葉だけで得られるものではない。


「ルクス。館を出ている間、お願いしたいことがあります」


「はい」


「西の街で、小麦をどのくらい確保できるか、改めて確認してください。街道が通れるようになっても、品がなければ運べませんもの」


「すでに商人へ使いを出しています。昼までには返事が届くはずです」


「さすがですわ」


「それから、未払い分を三回に分けて支払う場合の案も作っておきます」


「お願いします。ただし、お昼はきちんと召し上がってください」


 彼は一瞬、言葉に詰まった。


 周囲にいるグランたちの視線が、ルクスへ集まる。


「……はい、領主様」


「帰ったら、確認しますからね」


「承知しました」


 返事は立派だったけれど、少し困ったように眉尻が下がっている。


 私は満足して頷いた。


 その横で、グランが小さく咳払いをした。


「ルクス。領主様のご指示だ。従うように」


「グランさんまで」


「重要な役目だぞ」


 先ほどまで緊張していた見回りの二人も、ほんの少しだけ笑っていた。


     *


 館を出発したのは、太陽が森の上へ昇ってからだった。


 同行するのは、私とグラン、見回りから戻った弓手二人、荷車を扱う男性の五人。


 厚手の外套の下に剣を帯び、腰には水筒と包帯を下げる。グランから、北の森では何が起こるか分からないから、最低限の物は自分で持つようにと言われたのだ。


 門の前では、ルクスが待っていた。


「これを」


 差し出されたのは、一組の革手袋だった。


 外側は丈夫な革で、内側には柔らかな布が縫いつけられている。


「お借りしてもよろしいの?」


「倉庫にあった予備を、領主様の手に合わせて縫い直しました」


「いつの間に?」


「昨夜、休む前に少しだけ」


 私は手袋と彼の顔を交互に見た。


「昨日、確認を一つ済ませたら休むとおっしゃいましたよね」


「ですから、倉庫の確認は一つだけです」


「その後に、手袋を縫ったの?」


「……はい」


 嘘は言っていない。


 けれど、約束の隙間を見つけたような答えだった。


「ルクス」


「すみません」


 すぐに謝られてしまい、強く言えなくなる。


 手袋をはめると、指先までちょうどよかった。右手に巻かれた布も圧迫しないよう、少し余裕が作られている。


 私が眠っている間に、彼は何度も大きさを確かめてくれたのだろう。


「……とても、温かいです」


「よかったです」


「でも、今夜は早く休んでくださいませ」


「領主様も、無事に戻って休んでくださるなら」


「それは、交換条件ですか?」


「お願いです」


 穏やかな青い瞳が、まっすぐに私を見ている。


 昨日より少しだけ、その心配を身近に感じた。


「分かりました。約束します」


「僕も約束します」


 ルクスが、手袋の留め具を確かめるように私の手首へ触れた。


 すぐに離れたのに、そこだけが妙に温かい。


「お気をつけて、領主様」


「ええ。行ってまいります」


 そう答え、私はグランたちのもとへ向かった。


 振り返ると、ルクスはまだ門の前に立っていた。


 私は手袋をした右手を小さく上げる。


 彼も、胸元でそっと手を上げた。


     *


 街道を西へ進むにつれ、人家は少なくなっていった。


 畑の向こうには、葉を落とした森が広がっている。地面には薄い霜が残り、荷車の車輪が通るたび、乾いた音を立てた。


「この辺りは、春になると麦畑なのですか」


「ええ」


 荷車を引く男性が答える。


「けれど今年は、森から大猪が出まして。三つほど畑を荒らされました」


「柵は?」


「直しても、すぐ壊されます。丈夫な木を使いたくても、森へ入るのが危なくて」


 一つの問題が、別の問題につながっている。


 街道を安全にすれば、小麦を運べるだけではない。森から木を切り出し、畑の柵を直すこともできる。


 私は覚えておくため、腰の小さな帳面に書き留めた。


「歩きながら書くと転びますぞ」


 前を行くグランに言われ、私は慌てて帳面を閉じた。


「すみません」


「戻ってから、わしがお話しします」


「お願いします」


 しばらくすると、川の音が聞こえてきた。


 道の先に、低い石橋が見える。


 橋の向こうから森が迫り、街道は木々の間へ吸い込まれるように続いていた。


 グランが片手を上げる。


 全員が足を止めた。


「ここから先は、声を落としてください」


 弓手たちが矢を取り出す。


 私も外套の留め具を外し、いつでも剣を抜けるようにした。


 橋の手前には、古い荷箱が二つ転がっていた。片方は蓋が壊れ、中身は空になっている。板には、鋭い爪痕が残っていた。


「襲われた商人が捨てた荷です」


 グランが囁く。


 橋を渡らず、川岸へ降りる。


 湿った土には、いくつもの足跡が残っていた。


 犬よりも大きい。爪が深く地面へ食い込んでいる。


「こちらが昨日の跡です」


 弓手の一人が指した。


 森から橋の方へ向かうもの。橋の手前で引き返したもの。


 その中に、半分ほどの大きさしかない足跡が混じっている。


「子どもですね」


「おそらく」


 私は森を見上げた。


 風は、森の方からこちらへ吹いている。


 こちらの匂いは、まだ届きにくい。


「巣は、川上でしょうか」


 足跡の向きを確かめながら尋ねると、グランが頷いた。


「その可能性が高い。ですが、今日はそこまで入りません」


「ええ」


 私たちは石橋へ戻った。


 傷んでいるのは、中央近くの二枚の板だった。表面が割れ、荷車の重さがかかれば折れるかもしれない。


 男性二人が寸法を測り始める。


 その間、私はグランとともに森の入口を見張った。


 鳥の声が聞こえない。


 不自然なほど、静かだった。


「グラン」


「お気づきですか」


「ええ」


 剣の柄へ手を添える。


 森の奥で、枯れ枝が折れた。


 一度。


 少し離れた場所で、もう一度。


 グランが低く指示を出す。


「作業を止めろ。荷車を橋の手前へ」


 二人がすぐに道具をまとめる。弓手は橋の両側へ分かれた。


 誰も慌てない。


 何度も訓練してきた動きなのだろう。


 私は橋の中央より少し手前に立った。


「領主様、前へ出すぎです」


「ここなら、弓の邪魔になりません」


「橋のこちら側から動かれぬように」


「はい」


 低い唸り声が聞こえた。


 木々の間に、灰色の影が現れる。


 一頭。


 その右に、もう一頭。


 さらに奥で、黄色い目が光った。


「三頭……」


 弓手の一人が呟く。


 現れた魔狼は、普通の狼より一回り以上大きかった。肩の高さは私の腰ほどもあり、背には硬そうな黒い毛が混じっている。


 こちらへ近づきながらも、すぐには襲ってこない。


 橋の向こうで、行く手を塞ぐように広がった。


「縄張りを守っているのでしょうか」


「おそらくは」


 グランが剣を抜く。


「ここで退けば、追ってくる可能性がある。背を向けず、ゆっくり下がります」


「分かりました」


 私は剣を抜いた。


 形見の刃が、弱い日差しを映す。


 その時、森のさらに奥から、短い鳴き声がした。


 子どもの声に似ている。


 手前にいた一頭が、耳を伏せた。


「やはり、子を守っているのですね」


「ええ。厄介ですな」


 追い払っても戻る。


 巣へ踏み込めば、命を懸けて襲ってくる。


 けれど、この街道を放置すれば、領民の食糧が届かない。


 その両方を理解した上で、決めなければならない。


「今日は退きましょう」


 私は言った。


「数も、巣の位置も分からないまま戦うべきではありません」


 グランが一度だけ頷く。


「全員、荷車に合わせて下がれ」


 一歩ずつ、距離を取る。


 魔狼たちは橋を渡ってこない。


 このまま戻れる。


 そう思った時だった。


 川上の茂みが、大きく揺れた。


「右だ!」


 グランの声と同時に、灰色の影が飛び出した。


 橋の上にいた三頭とは別の魔狼。


 川岸を回り込み、私たちの後ろへ出たのだ。


 狙われたのは、荷車を引いていた男性だった。


 弓手が振り向く。しかし、近すぎる。


 私は地面を蹴った。


 魔狼の前足が男性の背へ届く寸前、その間へ体を滑り込ませる。


 剣を横へ振るのではなく、斜めに立てた。


 牙が刃へ噛みつく。


 重い。


 腕へ衝撃が走り、足が土の上を滑った。


「領主様!」


 魔狼の黄色い目が、目の前にある。


 生臭い息が頬へかかった。


 力で押し返してはいけない。


 私は右足を半歩引き、剣先を下げた。


 支えを失った魔狼の頭が落ちる。


 その勢いのまま、私は体を横へ逃がし、剣の柄で前脚を払った。


 巨体が地面に崩れる。


「今です!」


 グランの剣が、魔狼と私の間へ差し込まれた。


 弓手の放った矢が、その前方の土へ刺さる。


 魔狼は跳び退き、低く唸った。


 すぐに追うことはしない。


 私は剣を構え直した。


 右手が、少し痛む。


 けれど握れる。


「怪我人は?」


「いません!」


 後ろから返事が届く。


「領主様は」


「大丈夫です」


 橋の向こうにいた三頭も、こちらへ歩み始めていた。


 一頭を倒せても、次が来る。


 私たちの目的は、討伐ではない。情報を持ち帰ることだ。


「荷車を先に。橋から離れます」


「領主様も下がってくだされ」


「グランも、一緒に」


「当然です」


 グランが一歩前へ出て、私と肩を並べた。


 弓手の一人がもう一度、威嚇の矢を放つ。


 私たちは交互に魔狼を牽制しながら、少しずつ後退した。


 魔狼は追ってきたが、橋から一定の距離を離れると足を止めた。


 川岸から現れた一頭も、低く唸りながら森へ戻っていく。


 誰も背を向けないまま、姿が見えなくなるまで下がった。


     *


 十分に距離を取ったところで、グランが停止を命じた。


 全員の怪我を確認する。


 荷車を引いていた男性は、転んだ拍子に膝を擦っていた。けれど、歩くことはできる。


 私は水筒を渡し、グランと弓手たちへ向き直った。


「後ろへ回った一頭は、初めから川岸に潜んでいたのでしょうか」


「その可能性があります」


 グランが答える。


「橋の三頭に目を向けさせ、別の一頭が獲物を狙った。魔狼は狩りの時、役目を分けることがあります」


「では、少なくとも成獣が四頭。森の中に、あと一頭以上と子ども」


「そう考えるべきですな」


 先ほどまでの報告より、危険度が上がった。


 それでも、戦わずに戻れた。


 怪我人も、軽傷が一人だけ。


「退いた判断は、正しかったと思います」


 私が言うと、グランは少し意外そうに私を見た。


「討ち取れず、残念ではありませんか」


「いいえ。今日の目的は、街道の確認でしたから」


「目の前の魔物を見れば、功を焦る者もおります」


「功績より、小麦が必要なのです」


 正直に答えると、グランはしばらく黙った。


 やがて、深く頷く。


「それなら、次の手を考えられますな」


「ええ。まずは巣の位置と、正確な数を調べましょう。別の方角から森へ近づける道はありますか」


「北側に、猟師が使う古い道があります。明日は、そこから足跡を探させます」


「無理に近づかないよう、お願いします」


「承知しました」


 私はもう一度、全員の顔を見た。


「今日は、連れてきてくださってありがとうございました。戻りましょう」


 誰かが命を落とす前に。


 次は、もっと準備を整えてから来る。


 剣を鞘へ収めた時、右手に痛みが走った。


 手袋を外すと、朝に擦れた場所から、少し血が滲んでいる。


 ルクスが巻いてくれた布が、赤く染まっていた。


 私は思わず、顔をしかめた。


「傷みますかな」


「それもありますが……」


 帰ったら、きっと心配させてしまう。


 約束を破ったわけではない。無理に戦ったわけでもない。


 それでも、彼の困ったような顔が浮かんだ。


「ルクスに、何と説明しましょう」


 私が呟くと、グランは少しだけ口元を緩めた。


「ありのまま、お話しなされ」


「怒られるでしょうか」


「怒りはせんでしょう。ですが、手当てが終わるまで仕事をさせてもらえぬかもしれませんな」


「それは困ります」


「怪我をすれば、そういうこともございます」


 どこかお祖母様に似た言い方だった。


 私は血の滲んだ布を押さえ、諦めて頷いた。


「……今日は、ルクスの言うことを聞きます」


「今日だけですかな?」


「できる限り、これからも」


 グランの返事はなかった。


 けれど、前を向いた彼の肩が、わずかに揺れていた。

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