第2話
お代わりのスープを飲み終える頃には、指先にも温かさが戻っていた。
器を下げに来たセバスチャンへ礼を言い、私は隣の卓へ移った。ルクスが椅子を引いてくれる。
「ありがとうございます」
「いえ。こちらが、現在の備蓄と支出をまとめたものです」
差し出された帳面には、細かな文字が並んでいた。
小麦、豆、塩、干した根菜。倉庫にある分と、各村で保管している分が分けて書かれている。余白には、雨漏りのする屋根や、車輪の傷んだ荷車についての覚え書きもあった。
私は鞄から王都へ届いていた報告書を取り出し、隣に置いた。
「こちらと、随分違いますね」
ルクスの視線が紙面を追う。
「……これは、夏の終わりの数字です。表題は、先月になっていますが」
「夏の終わり」
「はい。この小麦の数に見覚えがあります。収穫分を倉庫へ入れた直後のものです」
私は日付を確かめた。
受領の印は、確かに先月だった。
同じ数字を使って書き直したのか。それとも、古い集計を新しいものだと思い込んだのか。
今ここでは、分からない。
「元の記録は残っていますか」
「倉庫番がつけたものがあります。明日、お持ちします」
「お願いします。王都へ送られた書類と、順に照らし合わせたいのです」
「……お叱りには、ならないんですね」
顔を上げると、ルクスは困ったような表情をしていた。
「数字が違うことを?」
「はい」
「事情を知らずには、叱れません。まず、何が起きていたかを知りたいです」
それに。
私は報告書の端を指で押さえた。
「私も、返事が届かない時に、もっと確かめるべきでした」
照会状を出した。それで仕事をした気になっていた。
目の前の帳面には、その間にも誰かが食べ、働き、困っていた日々が記されている。
「領主様がこちらにいらっしゃらなかった間のことは、僕にも全部は分かりません」
ルクスは静かに言った。
「ですから、分かるものから、お見せします」
「……ええ」
責めるでも、慰めるでもない言葉だった。
私は新しい紙を一枚取り、羽根ペンを持った。
「では、今、いちばん急ぐものから」
*
小麦の買い付けには、ある程度の資金が残っていた。
ただし、それをすべて使えば、屋根の修繕と薪運びの給金が足りなくなる。
さらに、買った小麦を運ぶ街道には魔狼が出る。
「領内の警備に回せる人数は?」
「グランさんに確認した方が正確です。常に動ける方と、収穫後なら手伝える方がいるので」
「では、彼にもお話を聞きたいわ」
「呼んでまいります」
ルクスが立ち上がった時、私は彼の足元に置かれた別の帳面に気づいた。
こちらは紙の端が擦り切れ、何度も開いた跡がある。
表紙に、小さく『未払い』と記されていた。
「ルクス。これは?」
彼はわずかに動きを止めた。
「修繕や運搬をお願いした分です。すぐにお支払いできなかったものを、まとめています」
「見てもよろしい?」
「はい」
頁を開く。
倉庫の戸の補修。橋板の交換。薪の運搬。
一つひとつは大きな額ではない。けれど、積み重なれば暮らしに響く。
仕事を頼まれた人にも、冬支度があるのだ。
「こちらも、支払いの見通しを立てましょう」
「小麦より先に、ですか?」
「いいえ。食糧は必要です。ただ、何も知らせずに待っていただくわけにもいきません。いつ、いくらなら払えるのか、一緒に考えたいの」
ルクスは帳面を見下ろし、ゆっくり頷いた。
「それなら、村長たちにも話せます」
その声に、少しだけ力が戻ったように思えた。
*
「グランと申します」
部屋へ入ってきた老兵は、館の前で見た時と同じように、背筋を伸ばしていた。
「先ほどは、ご挨拶が遅れました」
「こちらこそ。どうぞ、お掛けになって」
私が椅子を示すと、彼は一礼して腰を下ろした。
ルクスが卓の端へ地図を広げる。
グランの太い指が、領地の西側を通る道をなぞった。
「魔狼が出るのは、この石橋から先です。最初は二頭でしたが、先日の見回りでは五頭確認しております」
「同じ群れでしょうか」
「おそらく。ただ、森に隠れている数までは分かりません」
「人への被害は?」
「荷を捨てて逃げた者が二人。片方は腕を噛まれましたが、命に別状はありません」
私は息をつき、それから地図へ目を戻した。
石橋の先で、道が森へ入り込んでいる。
「迂回路はありますか」
「南へ回れば。ただ、ぬかるみが深い。空の荷車ならともかく、小麦を積んで戻るには難しいでしょうな」
グランは私を見た。
「王都へ護衛の要請を出しても、返事を待っているうちに雪が来ます」
「近隣へ頼む場合は?」
「どこも冬前で手が足りません。依頼は出しましたが、引き受けるという返事は、まだ」
私は地図の橋を見つめた。
道幅。川岸の傾斜。木々の密度。
紙の上だけでは、判断できないことが多すぎる。
「明日、現地の手前まで案内していただけますか」
ルクスが顔を上げた。
「領主様が、ですか」
「ええ。まず、この目で確かめたいのです」
「危険な場所です。見回りの報告でしたら、僕が――」
「ルクス」
彼の言葉を遮ってしまい、私は少し声を和らげた。
「魔狼と戦ったことはありますか」
「……ありません」
「私には、剣の心得があります」
グランの眉が動いた。
「失礼ながら、どなたに学ばれました」
「祖母に。アイリス・レインズワースです」
暖炉の薪が、ぱちりと鳴った。
グランはしばらく黙っていた。
「……アイリス様に」
「はい。もっとも、こちらの地形も、魔狼の様子も知りません。ですから、いきなり討伐に向かうつもりはありません」
私は二人を見た。
「安全に確かめられる場所まで。そこで難しいと思えば引き返します。その判断には、グラン、あなたの経験を借りたいのです」
老兵は口元に手を当てた。
やがて、低い声で答える。
「まずは、明朝の見回りを戻してからですな。状況によっては、お連れできません」
「分かりました」
「それと、剣の心得があるというお言葉を、そのまま当てにするわけにもまいりません」
「ええ。必要でしたら、お確かめください」
頷くと、グランは私をじっと見つめた。
その目が何を探しているのかは、分からなかった。
ただ、先ほどまでより少し長く、私の顔を見ていた。
*
話を終えた頃には、窓の外が薄暗くなっていた。
グランが明朝の手配に出ていき、セバスチャンも荷物の整理へ戻ると、部屋には私とルクスが残った。
彼は地図を畳みながら、何か言いたそうにしていた。
「ルクス?」
「……本当に、剣をお使いになるんですね」
「意外でしたか」
「はい。少し」
「王都では、あまり話す機会がなかったものですから」
つい、苦笑が漏れた。
女が剣の話などするな、と言われた時のことを思い出す。
言葉を飲み込めば、その場は穏やかに済んだ。けれどそうしているうちに、自分の話をどこから始めればよいのか、分からなくなっていた。
「お祖母様は、とても厳しい先生でしたのよ。踏み込みを一歩間違えただけで、最初からやり直しでした」
「僕なら、すぐに足が動かなくなりそうです」
「私も、初めはそうでした。夕食の席で立ち上がれなくなって、セバスチャンに助けてもらったこともあるの」
ルクスが小さく笑った。
私は少し安心した。
剣の話をしても、彼は嫌な顔をしなかった。
「では、明日の朝も鍛錬を?」
「ええ。邪魔にならない場所があれば」
「裏庭なら、朝は誰も使いません。ただ、井戸の近くは凍ることがあるので、避けてください」
「ありがとう。気をつけます」
彼は畳んだ地図を帳面の上へ重ねた。
それでも、まだ席を立たない。
「ほかにも、何か?」
「明日のことです」
青い瞳が、まっすぐに私を見た。
「グランさんが難しいと言った時には、引き返していただけますか」
「もちろんです。約束しましたもの」
「……はい」
彼は息を吐いた。
「すみません。念を押してしまって」
「いいえ」
心配なのだろう。
領主が来たその日に危険な場所へ出向くと言い出せば、補佐官としては困るに違いない。
「まだ、私のことを何もご存じないのですもの。当然ですわ」
「それも、ありますが」
ルクスはそこで言葉を切り、私の前に置かれた空の湯呑みを見た。
「せっかく、温まっていただけたので」
「……え?」
「来て早々、お怪我をされるのは嫌です」
静かな言い方だった。
私は返事をしようとして、なぜか一度、唇を閉じた。
心配してもらうのは、慣れていないわけではない。
セバスチャンはいつも気遣ってくれるし、祖母も私の足や手に傷があれば、すぐに気づいた。
それでも、今日初めて会った青年にそう言われると、どう返せばよいのか少し迷った。
「……ありがとう。きちんと、気をつけます」
「はい」
ルクスは頷いて、今度こそ立ち上がった。
「では、お部屋へご案内します。夕食まで、少しお休みください」
「あなたも、休むのでしょう?」
「僕は、倉庫へ確認に――」
言いかけて、彼が止まる。
私が見つめていたからだろう。
「……確認を一つ済ませたら、休みます」
「本当に、一つ?」
「はい。一つです」
私は頷いた。
「では、夕食の時に教えてくださいませ。何を確かめて、どのくらい休めたか」
ルクスは困ったように笑った。
「領主様は、意外と厳しい方ですね」
「お祖母様ほどではありませんわ」
そう答えると、彼は声を漏らして笑った。
*
翌朝、窓の端が白む頃に目が覚めた。
見慣れない天井をしばらく眺めてから、私は北へ来たのだと思い出した。
寝台を出て、動きやすい服に着替える。
髪をまとめ、剣を取り、教わった裏庭へ向かった。
土は硬く、吐く息が白い。
井戸から離れた場所で足元を確かめ、ゆっくりと剣を抜いた。
まずは、肩と指の動きから。
長旅で硬くなった体をほぐし、足の裏で地面を捉える。
一歩、踏み込む。
刃が朝の空気を切った。
もう一度。
重心を戻し、今度は半歩だけ身を引く。追ってくる相手の足を思い描き、その脇へ回る。
十度ほど繰り返した時、背後で靴底が土を踏む音がした。
私は剣を下ろして振り返った。
グランが立っていた。
片手には、使い込まれた木剣が二本ある。
「おはようございます、領主様」
「おはよう、グラン」
彼は私の剣から足元へと目を移し、それから木剣の一本を差し出した。
「手合わせを、お願いできますかな」
朝の冷たい空気の中で、私は柄を握り直した。
「ええ。よろしくお願いいたします」
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